御会日びより 数年間雨が降らない岡山の奇跡について
御会日とは、宗忠教祖が「お話をされる日」のことです。月の集まる日を2と7日と決めて、月6回(2,7,12,17,22,27日)とご講釈されていました。
しかし途中から雨になるようなことになりますと、参集の人が会場でざわつきだすことが往々にしてありました。
岡山ではたくさんのイグサを作る土地柄ですので、イグサを刈って干す時に雨が降ることを最も恐れていました。
途中から雨になりますと中には帰り支度をしたりして、会がザワザワして落ち着かないことがありました。まだ本当に道の主意が分かっていない人も多くて、帰り急ぎをしてざわつき混雑することもあります。
その時宗忠教祖は「皆さま、ご心配はいりません!今日から雨は決して降りません。安心してしまいまで話をお聞きなさい!」と言われました。
天照大神のご神徳
その通り雨模様の日でも、天気になり月6回 年72回、数年間(5年間とも伝えられる) 一度も雨は降ったことはありませんでした。
そのため誰云うともなく近郷近在に言いはやされて、人々も固く信じるに至りました。そこで御会日は雨が降らない「御会日(ごかいび)びより」と人から言われるようになりました。
人びとは雨の恐れがないことを信じ切って、安心して集会に行かれるようになったということです。朝曇って雨の心配がある日でも、今日は「御会日(ごかいび)びより」だから安心してイグサを干したということです。
しかし数年後ふとお考えになりあれから一回も降らないのではあるが、天候を都合よく左右するということは実に恐れ多いことで、ご辞退すべきである。
これは過ぎたる恩寵であり、特別の恵みでもあると宗忠教祖はお考えになってから、時には御会日にも雨が降ることも起きるようになってきました。
今日でも御会日は天気がいい日が多いそうです。長期間 地域の天候も左右するほどの天照大御神の広大なご神徳を教祖を通じて、発揮されたことは唯々驚異としか言いようがありません。
このように天照大御神のご神徳は広大無辺に及ぶものです。このようなご神力を岡山地方に及ぼされた宗忠教祖は、もはや人の範疇を超えた存在と言えるでしょう。
宗忠教祖 地面に草履の跡が付かない不思議
教祖の門人に土肥右近という武士がいました。池田藩でも一目置かれる幕府側の4200石の御目付役でしたので、池田藩でも特別待遇でした。
土肥家の紋所船が各地の港に来たら、最優先に航路を譲らなければならない掟もある高禄の名門です。
土肥右近は教祖を招いて道の話を聞いた後お帰りの際は、必ず玄関まで見送り履物をそろえて門人としての礼を尽くしました。右近は教祖を大変尊敬しておられ、たびたびお宅にご招待されてお道の話をきいておられました。
ところが土肥の家臣野呂俊介はこのような主人の行動を快く思わず「如何に崇敬しているとはいえ、4200石取りの大家の当主が、たかが田舎神主の履物をそろえるのはいかがなものか」と不満げに言いますと、
右近は「わかった!」とうなづき、又教祖が訪れるとやはり以前と変わらず履物をそろえました。家臣の野呂は主人に強く苦情を申し立てました。
すると右近は野呂氏に向かい静かに命じました。「玄関から門までの先生がお帰りになった跡を調べてみなさい」
野呂氏はしぶしぶ帰られた玄関から門までの掃き清められた砂地の道を見ると、教祖の下駄の跡が全くなく、箒の目がきれいに残っていました。
遠くに教祖が歩いているのに履物の跡がどこにも残されておりません。これを見て全身冷水を浴びたような感に打たれたのは野呂氏です。
「ごもっともでございます。教祖様こそ生き神様でございます。殿まことに申し訳ございません」深く詫びられて、野呂氏も又教祖の門下に入られ熱心な信者になられました。
野呂氏の神文(正式入門)は文政5年です。
追記
後に宗忠教祖が石尾乾介高弟にあてた土肥右近氏についてのお手紙に、思いもよらぬ事が起きたという便りがあります。
それは土肥氏が高所より落ちて死亡したことです。さすがにこの件については宗忠教祖は少なからず、ショックを受けられたようです。
奥様の亡くなられた時と土肥氏死去の時の2件が、存命中とても心を痛められたようですが、すぐに気を取り直しておられます。
一日間かかる5社参りを、早朝の一時間でお参りされたこと
この他にも通常は一日間もかかる5社参りを、早朝の一時間で行うこともされています。宗忠教祖自身「わが身ながら不思議だ」と言われています。
少なくても短距離選手並みのスピードで5社参りをしないと不可能な距離と時間です。しかも当時はでこぼこ道で、宗忠教祖は100キロ近くも体重があり袴と草履姿ですから絶対にあり得ない事です。
明治時代になってこの不可思議な話の裏付けを、お道の教師達は探していたそうです。伝え話として広くこの話は知られてはいましたが、本当にあったのかその証拠が見つかりません。
後に教祖が石尾高弟宛に詳しく書かれたお手紙が見つかった時に、当時の教師達は二拍手して喜んだそうです。
暗闇でも本が読め、提灯が無くても不自由なく歩けた宗忠教祖
赤木忠春高弟の直弟子であった本田応之助(幕末の剣術家)の「誠勤徳顕録」に誠に不思議な記述があります。(一部意訳してあります)
『夜の闇中にても書物などご覧になり、真っ暗闇を提灯なくても全く平気でお歩きになり一向に不自由しないご様子でした。此のことを人々が不審に思い尋ねたことがありました。』
それに対して『何も別に子細はございません。日々御蔭を賜り幽明界へ通う事を(天照大御神より)得たる故、夜光の玉を得ております』と大笑いして仰せられたそうです。
誠に真っ暗闇の中でも読み書きができ、灯りがなくてもずんずん歩ける不思議な出来事は、宗忠教祖の説明を聞いただけでは分かりません。
「夜光の玉」とは何なのか?ここまでくると人間離れして理屈をはるかに超越した御方です。このことについて教祖のお言葉があります。
『日の神を背に負い奉りて歩けば、いかなる山中又は荒海にても少しも心配なく安全です。その心直に日の神と一体なり。天地に敵する物更になし』とこの通りに天照大御神を背に負われていた方です。
宗忠教祖と太陽神の関係について (太陽の神人より)
ここで最も大切な事があります。それは歴史上有名な霊能者(シュタイナー,スウェディンボルグ、出口王仁三郎)のように「神話神」が感応して霊言を広めているのではなく、とてつもない高い「太陽神」のエネルギ―が教祖に感応していることです。
神話神とは神話という因果(カルマ)の影響を受けた神々で、太陽神は地球上のカルマの影響を受けていない根源的な神です。
この点が決定的に他の歴史的有名な霊能者と宗忠教祖と異なるところです。太陽神と繋がりのあるのは、歴史的には宗忠教祖お一人だけと山田雅晴先生は述べられています。
だから宗忠教祖は徹底して高次元のインスピレーション形態をとりました。それが湧かない場合はどんなに多くの聴衆がいても、「今日は一向に浮かびません!」と正直に述べさっさと高座から降りました。
金星のエネルギーを呑み込んだ空海も含めて、人類の歴史上太陽神と数多く感応できた人間はいません。ここに教祖が不世出の神人(釈迦、キリストと言った人類の師)と言われる根拠があります。
日本でも稀なる徳筆のご神号
備前藩の重臣で宗忠教祖の教えを頂いた藤田勝介先生が、ある年の正月年賀に上がりました。
教祖から「かねてご依頼の御神号( 天照皇太神宮 )をお書きしました。この御神号は18歳の心で書きました。」と仰せになりました。
藤田先生は有難く頂かれ、ちょうどその年京都詰めになられたので京都で表具しようと、途中京都のある屋敷に寄られました。そこは墨色を判定する名人宅でした。
その幅を見せたところ、その人が言うには「これは恐らく日本歴代の中でも稀な徳筆でまことに素晴らしい書です。しかしひとつ合点がいかぬことがある。これだけの徳を積んだ人が20歳になるかならぬかという事はどうも不可解です。
恐らくこの偉大な徳を積む人は60から70の年を重ねなければならないが、この筆勢は二十歳の上ではない。とにかく恐れ入った徳筆です!」とその書を驚嘆しきりでした。
藤田先生はこれを聞いて「そういえば先生は、18才の気持ちで書いたと言っていたな」とその時のことを思い出して当時のいきさつを名人に話しました。
その名人は一層驚いて筆跡をまじまじと見つめ、「うーん」と言葉にならぬ感服をあらたにしたという。
又ある時門人の一人が宗忠教祖の書がどれくらいの価値があるのか試したいと思い、著名な鑑定家に意見を求めたことがあります。その鑑定家はじっくりと手蹟を見つめて、次のように言って大いに感嘆したそうです。
「なんとも驚き入った筆蹟ですが、思うに菅原道真公以来このような書を書ける人はいないと存じます。とても高徳の人でなければ、このように書けるものではありません」との驚くべき鑑定でした。
平成の「太陽の神人・黒住宗忠」著者山田雅晴先生は、黒住教本部の宝物館に展示されている「天照皇太神宮」の掛軸を見て、その力強さと優雅さに心底驚き思わず拍手して拝んでしまったと本に述べられています。
書はその人の人間性がそのまま発露されますので誤魔化しようがありません。小生が若い頃禅に傾倒している頃師匠が、江戸時代の白隠和尚の墨蹟について講話した内容です。
数多くの白隠墨蹟のなかで「鉄棒」を描いた書があり、古来とりわけ禅者のいろいろ話題にされてきた有名な禅画です。
この書について「あまりに禅定力(本来の気迫・精神力)が強くて居間に飾っていても、ものすごい原爆みたいな迫力なので、飾っておれない程圧倒される掛軸です。いずれ西洋人の中でこの白隠墨蹟の鉄棒の真価を本当に理解できる者が現れて、日本に禅を学ぶに来る時代が到来するだろう」
と白隠の圧倒的力量のすごさを評されたことがありました。さすが日本の臨済禅宗復興の祖と言われる稀代の禅者です。
このように墨蹟は数百年経っても肌に感じられる迫力があり、人間性が書にそのまま忠実に反映されます。宗忠教祖の筆跡は徳と優雅さに特色がありますので、白隠禅師とは趣が異なります。
又明治天皇の御父上の孝明天皇は宗忠教祖を厚く信仰され、明治18年京都の宗忠神社を唯一の勅願所として指定されました。孝明天皇が心より深く帰依された神人でした。
天皇が民間の一神道家を勅願所として扱うことは異例中の異例のことで、日本の歴史上に例がありません。そのため幕末日本が生んだ不世出の神人として「仏教に弘法大師空海あれば、神道に神人黒住宗忠あり」と讃えられています。
さらに九条家、二条家、六条家、甘露寺家、徳大寺家と続々公家達の信仰する人々が増えていきました。明治維新の功労者三条実美もそのうちの一人です。これは赤木忠春高弟の活躍によるものです。
東郷元帥の活躍
尚日露戦争のバルチック艦隊を撃破した東郷元帥も母上の影響で宗忠教祖を熱心に信じて、日本海海戦の最中でも宗忠教祖の御歌をひたすら胸中で唱えながら全身全霊で戦ったと言われています。
東郷元帥は海戦前に黒住教の東京教会所を訪れ「どのような心構えで戦ったらいいのか」教えを受けており、その時授かった教祖の歌が下記にあります。
身も我も心もすてて天つちの
たったひとつの誠ばかりに
神国日本の興廃をかけて戦った乾坤一滴の覚悟の神歌です。元帥は全国民の必勝祈願の重みをこの歌に託してロシアと戦ったといえます。
現代の我々もこの御歌を口ずさみ、東郷元帥の命懸けの心境を少しでも垣間見るのも、大切な経験と思います。
先人がいかにお国の為に全生命を懸けて尽力してきたか、有難さが身に沁みて分かります。又天照大御神の宇宙的壮大なご神徳が天から降ってくる感があります。
あの史上稀に見る日本海海戦の神懸かり的な大勝利は東郷元帥、秋山真之参謀の指揮もさることながら、天照大御神の国を守るご加護があればこそと考えられる。
秋山参謀も運の良さ即ち天の力を強く意識され、秋山参謀の長男は神主に進まれた逸話があります。
日本は生まれ変わる!
宗忠教祖が幕末に出現したのは時霊(ときたま)の歴史的要請があります。仏教の台頭期には弘法大師空海が歴史に登場しましたが、
今世紀の地球の大変動期には神人の宗忠教祖が、縄文時代の太陽信仰への原始的回帰の祖として再度日本に復活するだろうと考えています。
太陽神を万物の命の源として魂の根源・故郷とみなす宗忠教祖の考え方です。日本人が縄文の冬至の伝統を繋ぐ日が又やってきます。宗忠教祖が冬至の日に生まれ、冬至に「天命直受」の悟りを得たのも納得できます。
天命直受は文化11年11月11日の冬至の日です。1が6つも続く珍しい日に大悟されました。三日三晩感激のあまり大きな声で笑い続けたという。これほどの徹底した大悟は禅でも見かけません。
それからの宗忠教祖はまさしく天照大御神の「太陽の子」であり、天照大御神と「同魂同体」であられました。
2024年冬至の日から日本は生まれ変わります。再度縄文の冬至祭が日本人に復活します。
人類の魂の結末は3択
もっともこれからは大変動期の二極化は避けられなくなり、今後ますますその差は開いてまいります。世界は日に日に混乱度を増して,誠に過酷で残酷な現実に直面します。
戦争犠牲者、飢餓死、病没者、薬害被害者、大小災害死者等、膨大なる地球人が今後この地を去っていきます。又3次元者、唯物論者は別世界、他の星へ離れていきます。
実はスピリチュアルな世界でお互い(3次元者・唯物論者と5次元者・霊性信奉者)が別々の世界に移り住むということが、どうしても理解できなかった。
明らかに考えの異なる人々は近くにいるし、朝晩交流しているのにどうして別な世界に分離して住むことになるのか。
これが具体的に理解できなかったが、その答えは今後約30年間(2020~2050)に渡り、徐々にゆるやかに棲み分けがなされ、別々に離れていくとのバシャールの言葉です。死別、気の合う同士の共同生活が地区別、地域別になるのでしょう。
そして永遠に死後も会えなくなるそうです。人類の魂の選択がなされていく過程です。
浅川嘉富さんは本「コロナ・終末・分岐点 魂のゆく道は3つある」の中で述べていますが、今生きている人類の三分の一は魂を消滅させられるとのことです。二度と輪廻転生がなく未来永劫に抹消させられるという。
はるか過去から転生を積み重ねてきた人類の魂の決着は ①高次元世界への転生か、②3次元世界に戻って出直しか、③魂の抹消がされて原子・分子に戻るのか、この3択だそうです。
総身に鳥肌立つような話です。それほど大事な時期( 13000年毎の大変革期 )に我々は生を享けているということを自覚しなければなりません。
確かに世の中有象無象(うぞうむぞう)が多すぎます。何十回、何百回生まれ変わっても、一向に進化向上が望めなければ、大掃除され魂が消滅させられてもやむを得ない。
人類80億人(スイス人ビリーマイヤーと交信しているプレアデス星人は実際は100億人の人類がいると言っています。彼らは瞬時精密に世界人口を計算できる驚くべき能力と技術の持ち主です。)は遙か過去から生まれ変わりして、究極の決着時の現在に生きている。
この大事な時期においてすら、悪心、極悪行、強欲、怠惰な者達が地球上を勝手に支配し居座り続けているが、彼らがあちらの世界へ行ったら消滅対象になるのだろうと考えております。
そしてその対象はおびただしい膨大な数に上るでしょう。「地獄の閻魔大王のほうが消滅されるよりまだマシだよ!」と正直そう思う。
人類の3択は地球だけでなく宇宙全体の各星団、星にも適用される法則だろうと考えています。この法則が各宇宙人の霊的進化を促したのではないでしょうか。
明日死ぬかもしれないのに、お金、地位、権力、名声のために血みどろの努力の空しさ、しがみ付く愚かさに気付くべきです。
今は各人が魂磨きに徹しましょう。これが大きな決定的分岐点となります。アセンションして高次元へ進むのです。
地球自体は5次元へ進化するので、それなりの霊性の高さでないと新地球に生まれ変われる資格がありません。今までは低い魂も地上に輪廻転生できたが、今後は弾き出され他星へ転生するか又は消滅させられる。尤も他星への転生は指導者としての立派なお役目の魂もあります。
エササニ星のバシャールは2026年頃から宇宙人、つまり地球外生命体との交流も始まると言っています。高い霊性の異星人との邂逅は、地球人の思考を一掃する程の影響を与えるでしょう。それが楽しみでもあります。相手は神に近い存在ではなかろうか。
多次元世界の地球外生命体は我々の物理的思考方法をはるかに超越して、数百光年でも一瞬に移動できます。地球人より数万年、数百万年先をいく高い霊的、技術レベルの大先達者です。愛と調和の高波動の持ち主と言われています。
hinomoto(小生)は多くの地球人が宇宙人との平和的交流を繰り広げる光景を見届けてから、この地球を去りたいと願っています。そして大和の国の日本が、地球外生命体との出会いの先陣を切るような気がしてならないのです。
孝明天皇と宗忠教祖 下記をご覧願います。
国難突破 日本人のほとんど知らない歴史秘話 赤木忠春高弟
Gokaibi – About the Miracle of Okayama, Where It Hasn’t Rained for Several Years
Oyasama (Munetada Kurozumi )
Gokaibi are the days on which Oyasama’s “Speaks”. He had decided on 2 and 7 days of the month for the monthly gatherings, and gave the sermon six times a month (Gokaibi *on 2, 7, 12, 17, 22 and 27th of the month).
However, when it began to rain during the lectures, the people who came to the lectures often began to murmur in the hall.
In Okayama, where a lot of igusa is grown, people were most afraid of rain when they were cutting and drying the igusa.
When it rained in the middle of the day, some of us would get ready to leave, and the meeting would become restless and uneasy. There were many people who still did not really understand the main intention of the path, so they would sometimes rush home, causing the meeting to become crowded with people in a hurry.
At that time, Oyasama said, “Don’t worry, everyone! It will never rain from today on. Listen to me until I tell you what I have to say! Listen to me until you feel at ease!”
The Divine Virtue of Amaterasu
As he said, even on rainy days, the weather turned out to be fine, six times a month, 72 times a year, and for several years (reportedly five years), it never rained.
For this reason, it was spread throughout the neighborhoods without anyone’s knowledge, and the people came to firmly believe in it. People began to say, “It never rains on Gokaibi,” which means it never rains on the Gokaibi.
People began to believe that there was no fear of rain, and they were able to go to meetings with peace of mind. Even on days when it was cloudy in the morning and there was a fear of rain, people would dry their sorghum in peace because today was a good day for the meeting.
However, a few years later, he suddenly thought that although it had not rained once since then, he should decline because it is truly a fearful thing to have the weather be so conveniently influenced by the weather.
Since then, it has been possible to have rain even on the day of Gokaibi.
Even today, there are many days when the weather is fine on Gokaibi. It is nothing short of marvelous that Amaterasu, through Oyasama, has demonstrated Her vast divine virtues to such an extent that even the weather of a region can be affected for a long period of time.
Thus, the divine virtues of Amaterasu are vast and boundless. Oyasama , who has brought such divine power to the Okayama region, is an existence that is beyond the scope of human beings.
The Deity’s Rarely Seen Deity’s Writing in Japan
One year, Mr. Katsusuke Fujita, a senior vassal of the Bizen clan and a student of Oyasama, came to the New Year’s celebration.
Oyasama said, “I have written the divine name you have requested for some time. I wrote this divine name with the heart of an 18-year-old. Oyasama said, “I wrote this divine name with the heart of an 18-year-old.
Fujita-sensei received it gratefully, and on his way to Kyoto, he stopped at a house in Kyoto to have his work done there, as he had just arrived in Kyoto that year. He stopped at a house in Kyoto on his way there, which was the home of an expert in judging ink color.
When I showed him the scroll, he said, “This is a truly wonderful calligraphy, probably one of the rarest and most virtuoso brush strokes of all time in Japan.
However, there is one thing I cannot agree with. It is puzzling that a person who has accumulated such great virtues should have reached the age of 20 years old.
Perhaps a person who has acquired this great virtue must be 60 to 70 years old, but this brush stroke is not above the age of 20. At any rate, it is a fearfully virtuous brush! It is said that he was amazed at the calligraphy.
On another occasion, one of his students wanted to test the value of a painting by Oyasama and asked a famous connoisseur for his opinion. The connoisseur looked at the calligraphy carefully and was greatly impressed.
I don’t think anyone since “Sugawara no Michizane” has been able to write like this. Only a person of very high virtue could have written it like this.
Masaharu Yamada, author of “Kurozumi Munetada, God-Man of the Sun,” says in his book that when he saw the hanging scroll of “Amaterasu God” displayed in the treasure house of the Kurozumi Sect headquarters, he was truly surprised by its power and elegance, and involuntarily applauded and worshiped it.
Calligraphy is a direct expression of a person’s humanity, and there is no way to deceive it. When I was young and devoted to Zen, my teacher gave me a lecture on Hakuin’s ink seki during the Edo period (1603-1868).
Among the many calligraphic works of Hakuin, there is a famous Zen painting depicting an Iron Bar, which has been a topic of discussion among Zen practitioners since ancient times.
The painting is so powerful that even if it were displayed in a living room, it would be so overwhelming that it would be impossible to keep it there.
Hakuin’s overwhelmingly powerful calligraphy was once described as “so powerful that even if it were displayed in my living room, it would be so overwhelming that I would not be able to display it. Hakuin is indeed a rare Zen master who is considered the founder of the revival of the Rinzai Zen sect in Japan.
In this way, the power of Hakuin’s works can be felt even after several hundred years, and his humanity is faithfully reflected in his writings. The handwriting of Sochu is characterized by virtue and elegance, and differs from that of Hakuin.
Emperor Meiji’s father, Emperor Kōmei, was a great devotee of Sōchū Oyasama and designated Munetada Shrine in Kyoto as the sole place of worship for him in 1885. Emperor Komei was deeply devoted to Oyasama.
The number of people who believed in the shrine increased one after another, including the Kujo family, the Nijo family, the Rokujo family, the Kanroji family, and the Tokudaiji family, as well as the nobles. Sanjo Sanetomi, who contributed to the Meiji Restoration, was one of them. This was due to the activities of his younger brother Tadaharu Akagi.
It is said that Admiral Togo, who defeated the Baltic Fleet in the Russo-Japanese War, trusted in Oyasama and fought with all his might while chanting Oyasama’s Shinto Songs in his heart.
The victory of the Battle of the Sea of Japan, a rare victory in history, was not only due to Admiral Togo’s command, but also to the blessings of God.