⑨大いなる奇跡と霊験について 数年間雨が降らない史上空前の壮大なる奇跡!On Great Miracles and Spiritual Experiences

岡山の集会日に数年間雨が降らなかった霊験です。気候も左右する程のご神力は宇宙大です。

 

御会日びより 数年間雨が降らない岡山の奇跡について

宗忠教祖

御会日とは、宗忠教祖が「お話をされる日」のことです。月の集まる日を2と7日と決めて、月6回(2,7,12,17,22,27日)とご講釈されていました。

 

しかし途中から雨になるようなことになりますと、参集の人が会場でざわつきだすことが往々にしてありました。

 

岡山ではたくさんのイグサを作る土地柄ですので、イグサを刈って干す時に雨が降ることを最も恐れていました。

 

途中から雨になりますと中には帰り支度をしたりして、会がザワザワして落ち着かないことがありました。まだ本当に道の主意が分かっていない人も多くて、帰り急ぎをしてざわつき混雑することもあります。

 

その時宗忠教祖は「皆さま、ご心配はいりません!今日から雨は決して降りません。安心してしまいまで話をお聞きなさい!」と言われました。

当時の岡山地方の地図

 天照大神のご神徳

 

その通り雨模様の日でも、天気になり月6回 年72回、数年間(5年間とも伝えられる) 一度も雨は降ったことはありませんでした。

 

そのため誰云うともなく近郷近在に言いはやされて、人々も固く信じるに至りました。そこで御会日は雨が降らない「御会日(ごかいび)びより」と人から言われるようになりました。

 

人びとは雨の恐れがないことを信じ切って、安心して集会に行かれるようになったということです。朝曇って雨の心配がある日でも、今日は「御会日(ごかいび)びより」だから安心してイグサを干したということです。

 

しかし数年後ふとお考えになりあれから一回も降らないのではあるが、天候を都合よく左右するということは実に恐れ多いことで、ご辞退すべきである。

 

これは過ぎたる恩寵であり、特別の恵みでもあると宗忠教祖はお考えになってから、時には御会日にも雨が降ることも起きるようになってきました。

 

今日でも御会日は天気がいい日が多いそうです。長期間 地域の天候も左右するほどの天照大御神の広大なご神徳を教祖を通じて、発揮されたことは唯々驚異としか言いようがありません。

 

このように天照大御神のご神徳は広大無辺に及ぶものです。このようなご神力を岡山地方に及ぼされた宗忠教祖は、もはや人の範疇を超えた存在と言えるでしょう。

 

宗忠教祖 地面に草履の跡が付かない不思議 

 

教祖の門人に土肥右近という武士がいました。池田藩でも一目置かれる幕府側の4200石の御目付役でしたので、池田藩でも特別待遇でした。

 

土肥家の紋所船が各地の港に来たら、最優先に航路を譲らなければならない掟もある高禄の名門です。

 

土肥右近は教祖を招いて道の話を聞いた後お帰りの際は、必ず玄関まで見送り履物をそろえて門人としての礼を尽くしました。右近は教祖を大変尊敬しておられ、たびたびお宅にご招待されてお道の話をきいておられました。

 

ところが土肥の家臣野呂俊介はこのような主人の行動を快く思わず「如何に崇敬しているとはいえ、4200石取りの大家の当主が、たかが田舎神主の履物をそろえるのはいかがなものか」と不満げに言いますと、

 

右近は「わかった!」とうなづき、又教祖が訪れるとやはり以前と変わらず履物をそろえました。家臣の野呂は主人に強く苦情を申し立てました。

 

すると右近は野呂氏に向かい静かに命じました。「玄関から門までの先生がお帰りになった跡を調べてみなさい」

 

野呂氏はしぶしぶ帰られた玄関から門までの掃き清められた砂地の道を見ると、教祖の下駄の跡が全くなく、箒の目がきれいに残っていました。

 

遠くに教祖が歩いているのに履物の跡がどこにも残されておりません。これを見て全身冷水を浴びたような感に打たれたのは野呂氏です。

 

「ごもっともでございます。教祖様こそ生き神様でございます。殿まことに申し訳ございません」深く詫びられて、野呂氏も又教祖の門下に入られ熱心な信者になられました。

 

野呂氏の神文(正式入門)は文政5年です。

 

追記 

後に宗忠教祖が石尾乾介高弟にあてた土肥右近氏についてのお手紙に、思いもよらぬ事が起きたという便りがあります。

それは土肥氏が高所より落ちて死亡したことです。さすがにこの件については宗忠教祖は少なからず、ショックを受けられたようです。

奥様の亡くなられた時と土肥氏死去の時の2件が、存命中とても心を痛められたようですが、すぐに気を取り直しておられます。

 

一日間かかる5社参りを、早朝の一時間でお参りされたこと

 

この他にも通常は一日間もかかる5社参りを、早朝の一時間で行うこともされています。宗忠教祖自身「わが身ながら不思議だ」と言われています。

 

少なくても短距離選手並みのスピードで5社参りをしないと不可能な距離と時間です。しかも当時はでこぼこ道で、宗忠教祖は100キロ近くも体重があり袴と草履姿ですから絶対にあり得ない事です。

 

明治時代になってこの不可思議な話の裏付けを、お道の教師達は探していたそうです。伝え話として広くこの話は知られてはいましたが、本当にあったのかその証拠が見つかりません。

 

後に教祖が石尾高弟宛に詳しく書かれたお手紙が見つかった時に、当時の教師達は二拍手して喜んだそうです。

 

暗闇でも本が読め、提灯が無くても不自由なく歩けた宗忠教祖

 

赤木忠春高弟の直弟子であった本田応之助(幕末の剣術家)の「誠勤徳顕録」に誠に不思議な記述があります。(一部意訳してあります)

 

『夜の闇中にても書物などご覧になり、真っ暗闇を提灯なくても全く平気でお歩きになり一向に不自由しないご様子でした。此のことを人々が不審に思い尋ねたことがありました。』

 

それに対して『何も別に子細はございません。日々御蔭を賜り幽明界へ通う事を(天照大御神より)得たる故、夜光の玉を得ております』と大笑いして仰せられたそうです。

 

誠に真っ暗闇の中でも読み書きができ、灯りがなくてもずんずん歩ける不思議な出来事は、宗忠教祖の説明を聞いただけでは分かりません。

 

「夜光の玉」とは何なのか?ここまでくると人間離れして理屈をはるかに超越した御方です。このことについて教祖のお言葉があります。

 

『日の神を背に負い奉りて歩けば、いかなる山中又は荒海にても少しも心配なく安全です。その心直に日の神と一体なり。天地に敵する物更になし』とこの通りに天照大御神を背に負われていた方です。

 

宗忠教祖と太陽神の関係について (太陽の神人より)

 

ここで最も大切な事があります。それは歴史上有名な霊能者(シュタイナー,スウェディンボルグ、出口王仁三郎)のように「神話神」が感応して霊言を広めているのではなく、とてつもない高い「太陽神」のエネルギ―が教祖に感応していることです。

 

神話神とは神話という因果(カルマ)の影響を受けた神々で、太陽神は地球上のカルマの影響を受けていない根源的な神です。

 

この点が決定的に他の歴史的有名な霊能者と宗忠教祖と異なるところです。太陽神と繋がりのあるのは、歴史的には宗忠教祖お一人だけと山田雅晴先生は述べられています。

 

だから宗忠教祖は徹底して高次元のインスピレーション形態をとりました。それが湧かない場合はどんなに多くの聴衆がいても、「今日は一向に浮かびません!」と正直に述べさっさと高座から降りました。

 

金星のエネルギーを呑み込んだ空海も含めて、人類の歴史上太陽神と数多く感応できた人間はいません。ここに教祖が不世出の神人(釈迦、キリストと言った人類の師)と言われる根拠があります。

 

日本でも稀なる徳筆のご神号

宗忠教祖のご七カ条 日々の戒め 腹を立て物を苦にする事等

備前藩の重臣で宗忠教祖の教えを頂いた藤田勝介先生が、ある年の正月年賀に上がりました。

 

教祖から「かねてご依頼の御神号( 天照皇太神宮 )をお書きしました。この御神号は18歳の心で書きました。」と仰せになりました。

 

藤田先生は有難く頂かれ、ちょうどその年京都詰めになられたので京都で表具しようと、途中京都のある屋敷に寄られました。そこは墨色を判定する名人宅でした。

 

その幅を見せたところ、その人が言うには「これは恐らく日本歴代の中でも稀な徳筆でまことに素晴らしい書です。しかしひとつ合点がいかぬことがある。これだけの徳を積んだ人が20歳になるかならぬかという事はどうも不可解です。

 

恐らくこの偉大な徳を積む人は60から70の年を重ねなければならないが、この筆勢は二十歳の上ではない。とにかく恐れ入った徳筆です!」とその書を驚嘆しきりでした。

 

藤田先生はこれを聞いて「そういえば先生は、18才の気持ちで書いたと言っていたな」とその時のことを思い出して当時のいきさつを名人に話しました。

 

その名人は一層驚いて筆跡をまじまじと見つめ、「うーん」と言葉にならぬ感服をあらたにしたという。

 

又ある時門人の一人が宗忠教祖の書がどれくらいの価値があるのか試したいと思い、著名な鑑定家に意見を求めたことがあります。その鑑定家はじっくりと手蹟を見つめて、次のように言って大いに感嘆したそうです。

 

「なんとも驚き入った筆蹟ですが、思うに菅原道真公以来このような書を書ける人はいないと存じます。とても高徳の人でなければ、このように書けるものではありません」との驚くべき鑑定でした。

 

平成の「太陽の神人・黒住宗忠」著者山田雅晴先生は、黒住教本部の宝物館に展示されている「天照皇太神宮」の掛軸を見て、その力強さと優雅さに心底驚き思わず拍手して拝んでしまったと本に述べられています。

 

書はその人の人間性がそのまま発露されますので誤魔化しようがありません。小生が若い頃禅に傾倒している頃師匠が、江戸時代の白隠和尚の墨蹟について講話した内容です。

 

数多くの白隠墨蹟のなかで「鉄棒」を描いた書があり、古来とりわけ禅者のいろいろ話題にされてきた有名な禅画です。

 

この書について「あまりに禅定力(本来の気迫・精神力)が強くて居間に飾っていても、ものすごい原爆みたいな迫力なので、飾っておれない程圧倒される掛軸です。いずれ西洋人の中でこの白隠墨蹟の鉄棒の真価を本当に理解できる者が現れて、日本に禅を学ぶに来る時代が到来するだろう

 

と白隠の圧倒的力量のすごさを評されたことがありました。さすが日本の臨済禅宗復興の祖と言われる稀代の禅者です。

 

このように墨蹟は数百年経っても肌に感じられる迫力があり、人間性が書にそのまま忠実に反映されます。宗忠教祖の筆跡は徳と優雅さに特色がありますので、白隠禅師とは趣が異なります。

 

又明治天皇の御父上の孝明天皇は宗忠教祖を厚く信仰され、明治18年京都の宗忠神社を唯一の勅願所として指定されました。孝明天皇が心より深く帰依された神人でした。

 

天皇が民間の一神道家を勅願所として扱うことは異例中の異例のことで、日本の歴史上に例がありません。そのため幕末日本が生んだ不世出の神人として「仏教に弘法大師空海あれば、神道に神人黒住宗忠あり」と讃えられています。

 

さらに九条家、二条家、六条家、甘露寺家、徳大寺家と続々公家達の信仰する人々が増えていきました。明治維新の功労者三条実美もそのうちの一人です。これは赤木忠春高弟の活躍によるものです。

 

東郷元帥の活躍

 

尚日露戦争のバルチック艦隊を撃破した東郷元帥も母上の影響で宗忠教祖を熱心に信じて、日本海海戦の最中でも宗忠教祖の御歌をひたすら胸中で唱えながら全身全霊で戦ったと言われています。

 

東郷元帥は海戦前に黒住教の東京教会所を訪れ「どのような心構えで戦ったらいいのか」教えを受けており、その時授かった教祖の歌が下記にあります。

 

身も我も心もすてて天つちの

         たったひとつの誠ばかりに 

 

神国日本の興廃をかけて戦った乾坤一滴の覚悟の神歌です。元帥は全国民の必勝祈願の重みをこの歌に託してロシアと戦ったといえます。

 

現代の我々もこの御歌を口ずさみ、東郷元帥の命懸けの心境を少しでも垣間見るのも、大切な経験と思います。

 

先人がいかにお国の為に全生命を懸けて尽力してきたか、有難さが身に沁みて分かります。又天照大御神の宇宙的壮大なご神徳が天から降ってくる感があります。

 

あの史上稀に見る日本海海戦の神懸かり的な大勝利は東郷元帥、秋山真之参謀の指揮もさることながら、天照大御神の国を守るご加護があればこそと考えられる。

 

秋山参謀も運の良さ即ち天の力を強く意識され、秋山参謀の長男は神主に進まれた逸話があります。

 

 日本は生まれ変わる!

 

宗忠教祖が幕末に出現したのは時霊(ときたま)の歴史的要請があります。仏教の台頭期には弘法大師空海が歴史に登場しましたが、

 

今世紀の地球の大変動期には神人の宗忠教祖が、縄文時代の太陽信仰への原始的回帰の祖として再度日本に復活するだろうと考えています。  

 

太陽神を万物の命の源として魂の根源・故郷とみなす宗忠教祖の考え方です。日本人が縄文の冬至の伝統を繋ぐ日が又やってきます。宗忠教祖が冬至の日に生まれ、冬至に「天命直受」の悟りを得たのも納得できます。

 

天命直受は文化11年11月11日の冬至の日です。1が6つも続く珍しい日に大悟されました。三日三晩感激のあまり大きな声で笑い続けたという。これほどの徹底した大悟は禅でも見かけません。

 

それからの宗忠教祖はまさしく天照大御神の「太陽の子」であり、天照大御神と「同魂同体」であられました。

 

2024年冬至の日から日本は生まれ変わります。再度縄文の冬至祭が日本人に復活します。

 

 

人類の魂の結末は3択

 

もっともこれからは大変動期の二極化は避けられなくなり、今後ますますその差は開いてまいります。世界は日に日に混乱度を増して,誠に過酷で残酷な現実に直面します。

 

戦争犠牲者、飢餓死、病没者、薬害被害者、大小災害死者等、膨大なる地球人が今後この地を去っていきます。又3次元者、唯物論者は別世界、他の星へ離れていきます。

 

実はスピリチュアルな世界でお互い(3次元者・唯物論者と5次元者・霊性信奉者)が別々の世界に移り住むということが、どうしても理解できなかった。

 

明らかに考えの異なる人々は近くにいるし、朝晩交流しているのにどうして別な世界に分離して住むことになるのか。

 

これが具体的に理解できなかったが、その答えは今後約30年間(2020~2050)に渡り、徐々にゆるやかに棲み分けがなされ、別々に離れていくとのバシャールの言葉です。死別、気の合う同士の共同生活が地区別、地域別になるのでしょう。

 

そして永遠に死後も会えなくなるそうです。人類の魂の選択がなされていく過程です。

 

浅川嘉富さんは本「コロナ・終末・分岐点 魂のゆく道は3つある」の中で述べていますが、今生きている人類の三分の一は魂を消滅させられるとのことです。二度と輪廻転生がなく未来永劫に抹消させられるという。

 

はるか過去から転生を積み重ねてきた人類の魂の決着は ①高次元世界への転生か、②3次元世界に戻って出直しか、③魂の抹消がされて原子・分子に戻るのか、この3択だそうです。

 

総身に鳥肌立つような話です。それほど大事な時期( 13000年毎の大変革期 )に我々は生を享けているということを自覚しなければなりません。

 

確かに世の中有象無象(うぞうむぞう)が多すぎます。何十回、何百回生まれ変わっても、一向に進化向上が望めなければ、大掃除され魂が消滅させられてもやむを得ない。

 

人類80億人(スイス人ビリーマイヤーと交信しているプレアデス星人は実際は100億人の人類がいると言っています。彼らは瞬時精密に世界人口を計算できる驚くべき能力と技術の持ち主です。)は遙か過去から生まれ変わりして、究極の決着時の現在に生きている。

 

この大事な時期においてすら、悪心、極悪行、強欲、怠惰な者達が地球上を勝手に支配し居座り続けているが、彼らがあちらの世界へ行ったら消滅対象になるのだろうと考えております。

 

そしてその対象はおびただしい膨大な数に上るでしょう。「地獄の閻魔大王のほうが消滅されるよりまだマシだよ!」と正直そう思う。

 

人類の3択は地球だけでなく宇宙全体の各星団、星にも適用される法則だろうと考えています。この法則が各宇宙人の霊的進化を促したのではないでしょうか。

 

明日死ぬかもしれないのに、お金、地位、権力、名声のために血みどろの努力の空しさ、しがみ付く愚かさに気付くべきです。

 

今は各人が魂磨きに徹しましょう。これが大きな決定的分岐点となります。アセンションして高次元へ進むのです。

 

地球自体は5次元へ進化するので、それなりの霊性の高さでないと新地球に生まれ変われる資格がありません。今までは低い魂も地上に輪廻転生できたが、今後は弾き出され他星へ転生するか又は消滅させられる。尤も他星への転生は指導者としての立派なお役目の魂もあります。

 

エササニ星のバシャールは2026年頃から宇宙人、つまり地球外生命体との交流も始まると言っています。高い霊性の異星人との邂逅は、地球人の思考を一掃する程の影響を与えるでしょう。それが楽しみでもあります。相手は神に近い存在ではなかろうか。

 

多次元世界の地球外生命体は我々の物理的思考方法をはるかに超越して、数百光年でも一瞬に移動できます。地球人より数万年、数百万年先をいく高い霊的、技術レベルの大先達者です。愛と調和の高波動の持ち主と言われています。

 

hinomoto(小生)は多くの地球人が宇宙人との平和的交流を繰り広げる光景を見届けてから、この地球を去りたいと願っています。そして大和の国の日本が、地球外生命体との出会いの先陣を切るような気がしてならないのです。

 

 

孝明天皇と宗忠教祖  下記をご覧願います。

国難突破 日本人のほとんど知らない歴史秘話 赤木忠春高弟

 

 

 

 

Gokaibi  – About the Miracle of Okayama, Where It Hasn’t Rained for Several Years
Oyasama (Munetada Kurozumi )
Gokaibi are the days on which Oyasama’s “Speaks”. He had decided on 2 and 7 days of the month for the monthly gatherings, and gave the sermon six times a month (Gokaibi *on 2, 7, 12, 17, 22 and 27th of the month).

 

However, when it began to rain during the lectures, the people who came to the lectures often began to murmur in the hall.

 

In Okayama, where a lot of igusa is grown, people were most afraid of rain when they were cutting and drying the igusa.

 

When it rained in the middle of the day, some of us would get ready to leave, and the meeting would become restless and uneasy. There were many people who still did not really understand the main intention of the path, so they would sometimes rush home, causing the meeting to become crowded with people in a hurry.

 

At that time, Oyasama  said, “Don’t worry, everyone! It will never rain from today on. Listen to me until I tell you what I have to say! Listen to me until you feel at ease!”

 

The Divine Virtue of Amaterasu

As he said, even on rainy days, the weather turned out to be fine, six times a month, 72 times a year, and for several years (reportedly five years), it never rained.

 

For this reason, it was spread throughout the neighborhoods without anyone’s knowledge, and the people came to firmly believe in it. People began to say, “It never rains on  Gokaibi,” which means it never rains on the Gokaibi.

 

People began to believe that there was no fear of rain, and they were able to go to meetings with peace of mind. Even on days when it was cloudy in the morning and there was a fear of rain, people would dry their sorghum in peace because today was a good day for the meeting.

 

However, a few years later, he suddenly thought that although it had not rained once since then, he should decline because it is truly a fearful thing to have the weather be so conveniently influenced by the weather.

 

Since then, it has been possible to have rain even on the day of  Gokaibi.

 

Even today, there are many days when the weather is fine on Gokaibi. It is nothing short of marvelous that Amaterasu, through Oyasama, has demonstrated Her vast divine virtues to such an extent that even the weather of a region can be affected for a long period of time.

 

Thus, the divine virtues of Amaterasu are vast and boundless. Oyasama , who has brought such divine power to the Okayama region, is an existence that is beyond the scope of human beings.

 

The Deity’s Rarely Seen Deity’s Writing in Japan

One year, Mr. Katsusuke Fujita, a senior vassal of the Bizen clan and a student of  Oyasama, came to the New Year’s celebration.

 

Oyasama said, “I have written the divine name you have requested for some time. I wrote this divine name with the heart of an 18-year-old. Oyasama said, “I wrote this divine name with the heart of an 18-year-old.

 

Fujita-sensei received it gratefully, and on his way to Kyoto, he stopped at a house in Kyoto to have his work done there, as he had just arrived in Kyoto that year. He stopped at a house in Kyoto on his way there, which was the home of an expert in judging ink color.

 

When I showed him the scroll, he said, “This is a truly wonderful calligraphy, probably one of the rarest and most virtuoso brush strokes of all time in Japan.

 

However, there is one thing I cannot agree with. It is puzzling that a person who has accumulated such great virtues should have reached the age of 20 years old.

 

Perhaps a person who has acquired this great virtue must be 60 to 70 years old, but this brush stroke is not above the age of 20. At any rate, it is a fearfully virtuous brush! It is said that he was amazed at the calligraphy.

 

On another occasion, one of his students wanted to test the value of a painting by  Oyasama and asked a famous connoisseur for his opinion. The connoisseur looked at the calligraphy carefully and was greatly impressed.

 

I don’t think anyone since “Sugawara no Michizane” has been able to write like this. Only a person of very high virtue could have written it like this.

 

Masaharu Yamada, author of “Kurozumi Munetada, God-Man of the Sun,” says in his book that when he saw the hanging scroll of “Amaterasu God” displayed in the treasure house of the Kurozumi Sect headquarters, he was truly surprised by its power and elegance, and involuntarily applauded and worshiped it.

 

Calligraphy is a direct expression of a person’s humanity, and there is no way to deceive it. When I was young and devoted to Zen, my teacher gave me a lecture on Hakuin’s ink seki during the Edo period (1603-1868).

 

Among the many calligraphic works of Hakuin, there is a famous Zen painting depicting an Iron Bar, which has been a topic of discussion among Zen practitioners since ancient times.

 

The painting is so powerful that even if it were displayed in a living room, it would be so overwhelming that it would be impossible to keep it there.

 

Hakuin’s overwhelmingly powerful calligraphy was once described as “so powerful that even if it were displayed in my living room, it would be so overwhelming that I would not be able to display it. Hakuin is indeed a rare Zen master who is considered the founder of the revival of the Rinzai Zen sect in Japan.

 

In this way, the power of Hakuin’s works can be felt even after several hundred years, and his humanity is faithfully reflected in his writings. The handwriting of Sochu is characterized by virtue and elegance, and differs from that of Hakuin.

 

Emperor Meiji’s father, Emperor Kōmei, was a great devotee of Sōchū Oyasama and designated Munetada Shrine in Kyoto as the sole place of worship for him in 1885. Emperor Komei was deeply devoted to Oyasama.

 

The number of people who believed in the shrine increased one after another, including the Kujo family, the Nijo family, the Rokujo family, the Kanroji family, and the Tokudaiji family, as well as the nobles. Sanjo Sanetomi, who contributed to the Meiji Restoration, was one of them. This was due to the activities of his younger brother Tadaharu Akagi.

 

It is said that Admiral Togo, who defeated the Baltic Fleet in the Russo-Japanese War, trusted in  Oyasama and fought with all his might while chanting Oyasama’s Shinto Songs in his heart.

 

The victory of the Battle of the Sea of Japan, a rare victory in history, was not only due to Admiral Togo’s command, but also to the blessings of God.

⑧大いなる奇跡と霊験 12時間以上の死児(3才)が生き返る!

日の出に向かい思い切り御陽気を腹いっぱい吸ってお祈りします。この地球に生かせていただく幸せを伏して感謝いたします。

 

3才の死児が蘇生した話 信 (まこと)の落穂集より

 

今まで蘇生の例をいくつか挙げてきましたが、今回は「信 の落穂集」より3才の死児の蘇生の例をご案内します。目に見えない世界を理解し思考するには貴重な実例です。

 

黒住教明神教会の「信の落穂集」から転載します。この本は昭和42年9月発行で、2代と3代所長を追加しての重版です。初版は昭和25年です。

 

初代所長石田佐吉、2代所長石田精三郎、3代所長石田佐々雄(敬称略)にわたる黒住教の奇跡的病気治療を始めとしてさまざまな話が記載されています。

 

現在、世界中を見渡しても石田佐吉先生ほどの力量の方を探すのはかなり困難と思われます。それほど卓越した稀有な人です。

 

初代の石田所長は「石田の一吹き」と言われ、信者の数多くの病を治されてこられた有名な方です。又孝養と慈愛を尽くされ、郷党の人から一心に敬意を受けられた偉人でした。

 

初代の石田佐吉先生

本そのものは小冊子の104頁ですが、序文に「この本の表紙の【信】なる文字は、西晋一郎先生(元広島大学名誉教授)の書かれたものです」とあります。尚西晋一郎先生は太平洋(大東亜)戦争の敗戦受諾に尽くされた高名な学者です。

 

hinomotoの父が若い頃この西晋一郎先生を崇拝して、先生の「晋一」の字を取り私の名前にしたと聞いていました。偶然この本を思いがけず発見し、自分の名前の由来を思い出してなにかご縁を感じる次第です。この本の表紙に鮮やかに信の一文字が印刷されています。

 

後に(2024年夏)西晋一郎先生の昔の写真が、何故か私の前に急に出てきました。半世紀前に亡くなった父親が若い頃写した写真でした。

死児を半日以上背負い、石田先生を訪ね歩く

 

池内イワと岩吉の間に生まれた二女シマは3才の時に病気にかかり、介助のかいなく脈、呼吸が絶えて医者も死亡と診断しました。明治15年4月9日午前5時のことです。親戚は埋葬の段取りを考えていたそうです。(文中の敬称略)

 

常に宗忠教祖を深く信仰し、又石田佐吉(石田の一吹きと言われ数多くの人の命を救ってきた初代所長)を慕ってきた池内の両親は石田先生から*「おかげ」( 奇跡 )をいただき、

 

死んだ子供の命を助けようと母のイワは冷たくなっている子供を背にして、夫の岩吉と共に石田所長を尋ねて家を出ました。

 

死児を背負い交通の不便な明治時代に、山道を徒歩で石田先生を探しに三坂峠の坂本村から石井村へ訪ね歩いた結果、探し求める先生は松山市の浅山という人の家にいることがやっとわかりました。

 

そして石田先生に会えたのはもう夜でした。読者の皆様想像してください。

 

子供の死亡時刻が午前5時と書いてありますから、死児を40キロ余り背負い歩いて石田佐吉先生に会えたのは夜です。すでに死亡後約12時間以上も経過しているのです。

 

その死亡した子が生き返る可能性が考えられますか? 現代医学の進んだ今の時代でも到底考えられないことです。

 

死亡直後であれば人工呼吸で息を吹き返すことがありますが、半日以上経過していれば不可能です。

 

現代医学では死亡後時間経過と共に脳組織の機能が失われ、数時間後の蘇生は回復不能との診断を下しますが、このような事例をどのように科学的に説明するのでしょうか?

 

しかし一途に石田先生を信じた両親に奇跡が起きたのです。ここに世間常識や3次元世界を超えた世界が、実際にあることを認めざるを得ないのです。

 

死児が蘇生した奇跡的事例

 

 信者の岩吉が「もし石田先生はお寄りではありませんか?」と玄関で尋ねると、石田先生は「おお!岩吉さんではないか、この夜半に何か用ができたのか?」との声です。

 

「三つになる子が病気にかかり呼吸をしなくなりましたから、先生を訪ねてまいりました!」。それに対して石田先生は「よくここまで背負って連れてきたな!さあ お上がり」と朝早くから訪ね歩いて、ようやくお会いすることができました。

 

先生がお祓いを上げられて腹に手をあて、*御禁厭(おまじない又はおとりつぎという。黒住教独特の言葉です)をされるうちに腹部が温かくなり「乳々, ちち!」と言葉を出して死児が蘇生しました。

 

なんと驚くことに半日以上も死んだ幼児が息をするようになり、生き返ったのです!あり得ないような誠に有難い霊験です。

 

黒住教ではこのような奇跡を宗忠教祖自身がよく起こされました。そのような事例を逸話に多く見ることができます。科学的に証明は出来なくても霊験は数多く起きます。

 

死児を背負って歩き続けた両親が今度は身体が温かくなり、生き返った我が子を抱いて家に帰り着くことができました。

 

蘇生したシマ女は後に菊沢縁三郎の嫁になり、その輿入れに当り母親イワから渡されたのはご神号でした。母は「お前の嫁入り道具はお粗末だけれど、これだけは尊いお道具だから大事に誇りを持って扱うように!」と渡されました。

 

菊沢縁三郎は以前の明神教会所の長老であると記されています。又母の池内イワは97歳の天寿を全うした篤信者で、群中町一帯の布教に努められた方です。

 

この本は約半世紀前に信者向けに少部数出版されたものです。先日教会に電話しましたら今この本は1冊も残っていないと言われました。

 

黒住教ではごく当たり前にこのような話が各地で伝えられ、おかげという言葉で表現されています。

 

「奇跡は起こそうと思えば起きる」とは不遜な考えですが、活物(いきもの)はこの宇宙に充満しているのでそれを掴まえよ!ということです。それは誠(まこと)の心だけで可能です。

 

面白いのは後に熱心な教えの大布教者になった方々は、最初はすべて教えを邪法、インチキの類と見ていた方々です。

 

なまじっか学問知識があるばかりに嘘の教えと考えており、「正法に不思議なし」と決め込みなかなか尊い教えに耳を傾けません。

 

赤木忠春、岡田敏子、船木敬重の大先輩等すべてそうです。3代所長の石田佐々雄先生すら最初の頃は、ごく普通の一般人と変わらぬ無関心の態度でした。

 

これは現代でも同様の反応が起きると見て間違いないでしょう。それほど天照大御神へ入門するにはハードルが高いという事です。

 

ましては戦後のガリガリの唯物論を教育として叩き込まれた日本人には、夢や幻のような信じられない眉唾話になるでしょう。だから本当に理解出るのは一部の人に限られます。

 

わが身に実際に「おかげ」が降りかかって始めて奇跡の実感というか信仰が出てくるということです。肌身が真底震える奇跡体験をしないと現実に有難さが分からないのです。

 

幕末の船木敬重(よししげ)大教正は大道宣布に半生を捧げられた実業家ですが、お道に入られる当初の頃「お道勤行記(おみちごんぎょうき)」によると「まじないの法は不知なれども、

 

赤木忠春先生より『誠心をもって天照大御神又宗忠神をひたすら祈り、一心の誠の心にてご陽気を吸い込み直ちにご陽気を吹きかければよい』とのことなり」と記載されています。

必ず治る④ 日拝治療法(2)

 

そのため最初はこわごわと 船木敬重翁はおまじないを実行されていますが、すぐ効果が表れて自分でもびっくりされている描写があります。船木敬重翁も大きなおかげを頂き入門されました。

 

ただ黒住教の「学びの友」にはまじないの法はほとんど具体的に記載されておりません。扱いは厳重なる注意が必須と考えられます。

 

神との直接対話に相当することですから絶対に軽々しく扱うことはできません。それなりの心構えが求められます。

 

石田佐吉初代所長(黒住教明神教会)の黒住教における目覚しい働きをいくつかご紹介します。

 

1.6年間の全盲が治る

 

伊予郡北伊予村の相原丈治は眼病を患い医者の治療も効果がなく、益々悪化してしまい朝夜問わず痛みがひどくなり、6年間全くの盲目になってしまいました。

 

当時26歳の妻は知人にすすめられるままに夫の手を引いて,明神教会所の御会日に参加しました。当時の交通事情の悪さから自宅を朝早く出発して、教会に到着したのは夜10時を過ぎていました。

 

参拝者は神前に溢れ足を入れる場所もなく、別の部屋で耳を澄まして石田所長の話を聞いていました。

 

所長のリンリンとした声が聞こえてきて「せめてあのお説教をしていられる石田先生のお顔が見たいものじゃ」とその方へ顔を向けると、

 

開け放しの神前のランプの光が見えてくるようになり、さらに驚いて見つめていると先生のお顔がはっきり視野に入ってきました。

 

夫婦は目が見えるようになって抱き合って喜び、人を押し分けて神前に行きお礼を申しました。そしてその場で、丈治は自ら高座に上がって

 

「この私の目が見えるようになりました…….」と感涙にむせびながら話をすると、満座の人々はどよめきわたり、感激の拍手の響きが谷間にこだましたということです。

 

以来相原丈治の信仰は固く厚くなり、伊予教会所を設立して初代所長となって活物(いきもの)の先生として、その地方一帯において数多くのご神徳のお取次ぎをしました。

 

石田所長の晩年のことです。ある家に招かれ迎えの馬に乗って門を入る際に、頭を打ち落馬して人事不省になったことがあります。

 

その時石田所長は「相原丈治を呼べ!」とうわ言のようにいい、駆け付けた相原丈治のご祈念によって正気に復したとされています。

 

盲目の方が開眼した例は下記のように多くあります。

必ず治る① 赤木忠春高弟 目がみえる!

③ 大いなる奇跡と霊験 見えるようになった! 岡田 敏子

② 大いなる奇跡と霊験 未来の霊的治療法 奥村円左衛門の開眼

幕末の黒住宗忠教祖 宗忠教祖の肖像画は非常に多く伝えられていますが、この肖像画が一番多く使われています。

 

2.目もない骨もない顔の奇形児が治る

 

松本猶二郎の娘は生まれた時から目の形が無く、骨もなく顔色は真っ黒い奇形児でした。

 

そのため両親の悩みは痛ましい限りです。そこで石田先生に御禁厭(おまじない)を願うと、先生は両親の心情を思いやり

 

「目は明朝までに出来て、10日もすれば骨も出来て、顔色も白くなる」とのことでした。果たしてその通りになり、大変な美人となって粟津村に嫁入りしました。

 

3.なくなった陰茎が元に戻る

 

ひどい花柳病(性病)を病んで陰茎の無くなった者が3人いましたが、それを見事に治して元通りになった話があります。

 

「男たちは陰茎がないため、立小便ができず大便の時のような恰好で用を足しておりました。それが元通りになって、

 

本人達は以前よりも立派なモノを頂きましたと言って有難がっています。もちろん本人よりその女房達が一番喜んでおります!」

 

とユーモラスに明るく披露話があって、皆それを聞いて大笑いしたとのことです。

 

4.見放された重症患者が治る

 

金子丈吉という方は脱腸により睾丸が裂けてしまい大便がその裂けた傷口より出るようになってしまいました。それを病院で診てもらっても治しようがなく、医者に見放されておりました。

 

ある日金子宅に招かれた石田先生は、ふさぎ込んでいる丈吉に「30日で治る!」と言い渡しました。同行していた人が「あのひどい病状の丈吉が、本当に30日で治るのですか?」と尋ねると「必ず治るよ!」との返答です。

 

果たして1か月後は全治して歩けるようになり、子供も二人出来て後に金子丈吉一族は神へのお礼として、津島教会所を建て信仰に励みました。

 

5.野津通貫大将のとめ子夫人の頭髪が見事に生える

 

野津大将が広島鎮台長の頃に、とめ子夫人を伴って伊予の道後に来られたことがありました。美しい夫人は禿頭症のため、頭髪が全部抜けてしまいかつらを頭に着けておられたのです。

 

夫人がかつらを取りますと、全く一毛すらない坊主頭です。

 

先生は威儀を正して大祓い3本、御禁厭(おまじない)をすませて「明春の4月6日は安芸の宮島に参ります。宮島でお目に掛かる時は、髪を「ぼたん」に結って御出で下さい。

 

もしその時までに今のかつらのままでしたら、そのかつらと石田の首をお取替え致します」と微笑んで辞去しました。

 

翌月5日夫人から連絡があり「頭にネズミの毛ほどの髪が伸びてきました」という報告です。更に翌年4月6日には約束通り「ぼたん」に結って来られました。

 

しかも以前の赤みのあるちじれ毛ではなく「この通り見事なものです」と神よりいただいた真っ黒い髪に大喜びだったそうです。頭に髪が立派に黒々と生え代っていました。

 

石田佐吉所長について

 

石田佐吉先生が巡回に村を訪れますと、お迎え・見送りに村から村への道筋は、大勢の人で溢れかえるほど盛大でした。

 

巡回先で先生がお風呂に入ると古いふんどしは妊婦の腹帯にお守りとして持っていかれ、代わりに新しいふんどしが置いてありました。

 

「死者が生き返り、らい病が全治した」というような多くの奇蹟に対して、人々が驚き怪しんで世間の問題になったことがあります。

 

警察は石田佐吉を呼び出し「人心を惑わすのは不都合だから、これらの所業を止めよ」と命令しましたが「天照大神の大道を説くことは、死んでも止めることはできぬ!」と応諾しません。

 

そのため未決囚として監禁され、後に大袈裟にしないようにとの注意処分で釈放されたことがあります。

 

他に30年のいざりが一度のおまじないで治ったり、腐った酒が清酒になったりと数限りない高大なるお取次ぎを行いました。

 

石田先生ほど「生き神様」として大勢の人々から親愛と尊敬を受けられた方はおられませんとは、後に土地の人々の皆語る感想でもあります。歴史上明記すべき人物で、語り継がれることと思います。

 

信の落穂集の序文について (昭和25年)

 

この本の出版にあたり石田佐々雄3代所長の序文記載は下記の通りです。

 

「 黒住信東先生から『地方でも逸事を記録してほしい。たとえば愛媛の石田佐吉先生のように数々の奇跡を起こされた事例を残してほしい』とのお言葉がありました。

 

一方当教会所でも菊沢縁三郎氏はじめ教師達から、記録の要望切なるものがあるので、資料の整理に着手したものの当初はなかなか進みませんでした。多くの資料の中から確実性のあるもの、お道の本領に添うものを採り、幾度か打ち合わせを経て精選しました。

 

初代所長は本田應之助先生(高弟赤木忠春の弟子で剣術家)の旺盛な「いき」をうけて、ご神徳の*「お取次ぎ」に身をささげてこられてきましたが、自己の能力を誇る気持ちはさらさらなく謙遜そのものでした。

 

一種の「はやり神さま」(一般社会に見られる霊能者。筆者注)に落ちなかった所以がここにあります。

 

二代所長はその真意を受け継ぎ『袴をつけた先生になるな』『名利にとらわれてはお道はつとまらぬ』と常に同僚後進を戒め、草莽(そうもう)の一信者,一介の門徒を以て自負していました。

 

『人為を去って誠の一筋に徹する』ことが本教会所の伝統であり黒住教の教えです。昭和25年晩秋 」とあります。

 

石田精三郎二代所長の面影

 

石田精三郎二代所長は「 金や位(くらい)が欲しくなったらお道は務まらぬ 」「先生になり果ててはならぬ」と口癖のように言われていたそうです。木綿の着物の尻をからげて歩くのが常でした。

 

大勢の人が迎えに出ているとわざと道を外して先回りされることもありました。二代先生のお元気であられたことはびっくりするほどでした。「一日に30里(120キロ)位歩くことがある」と言っておられたそうです。

 

一日120キロは超人的歩行距離です。知る限り山岡鉄舟という明治初期の剣術の達人が約100キロ歩いて参禅したという記録があります。

 

先生は着物の裾をからげて縄帯でくくられたまま病人の下に行かれ、「明日から痛みも止み、おかげを頂くからの !」と言って治されていました。

 

先生の着物が余りに質素なので、周りの人が「先生の装束をもう少し良いものにしたら如何でしょうか!」と申し上げると「俺が治すのであれば、良い装束でもつけて行かねばなるまいけれど、

 

天照大神が治して下さるのだから俺は木偶坊(でくのぼう)でいい!」と言われていたそうです。

 

下記写真は二代、三代所長です。

 

 

故石田佐々雄三代所長が高齢信者の夢に現れる

 

三代所長の石田佐々雄先生が亡くなられた後に重病の高齢信者の枕元に霊夢で出てこられたことがあります。今生最後のお別れを覚悟された信者がその霊夢により、見事に生き返った話があります。

 

その霊夢とは「故石田先生が重病の信者の枕元にお出でになって煙草を吸っておられました。三本目の煙草に火を点けて一口吸ったら灰皿に置かれ、すぐに私の胸に手を当て撫でて頂きました。

 

そして『石田は死んではいないよ、死んではいないよ!』と言われて、右の手を挙げて二回左右に振られました。

 

先生のこの御声を聴いた瞬間思わず『先生は生きておられる!有難うございます!』と二拍手して拝ませて頂いたのです。

 

その拍手にハッと我に返り目を開け気が付いて見たらそれは夢でした。全くの霊夢でした。その後奇跡的に回復して第二の誕生を迎えさせて頂きました。それからは全く別人のように元気回復して、思えば思うほど有難く不思議なご神徳でした。

 

老年になっても限りはない。老骨に鞭打ってこれから新しい人生の第一歩を踏み出そう。」とあります。

 

何とすごい話ではありませんか!死際の高齢重病人が新しい人生を踏み出すことになる驚嘆すべき霊験です。

 

3代所長の18年間に及ぶ布教期間に、信者がご神徳を頂いた有難いおかげ話は枚挙にいとまもない位数多くあります。

 

石田佐々雄先生は稀に見る清廉潔白な人柄で、他界される時も道の真髄を皆に説教されながら最後にうやうやしくご神水をお飲みになり、

 

昏睡状態になり自若として生を全うされました。まさしく教師の亀鑑であり最高の昇天ぶりでした。

 

石田の一吹きで有名な石田佐吉大先生の孫で、松山市教育課長も務められた愛媛県教育界の長老でもあられました。

 

告別式には国会議員、県会議員、教育界、その他名士その数1000名以上の会葬者が集まり、斎場をうずめつくしたそうです。

 

終戦後の昭和25年春に詠まれた歌一首 

 

すさみゆく くぬち(日本国)の風をよそにして 

山家の春はとこしえの春      佐々雄 

 

なんだか 2024年今の風潮にぴったりですね。

 

hinomotoが黒住教を信頼して多く取り上げているのは、教えが「誠」そのものだからです。全く嘘、虚栄がなく神の心そのものです。又そうでなくてはこのような奇跡は起きないと考えています。

 

近未来の次元上昇世界に備えるため、黒住教はその条件をすべて具備しており感謝の言葉を根本信条としています。

 

現在いろいろなスピリチュアルな世界が相当喧伝されておりますが、やはり神の道に真っすぐな誠を信条にした教えこそ、来るべき新地球の世界にふさわしい教えと思います。

 

天地永遠の教えであり、人類の福音書であり、キリスト教のバイブル、仏教の華厳経,中国古来の老子、バラモン教のウパニシャット又回教のコーランに勝るとも劣らない黒住教の「教書」こそ、宇宙の霊宝と絶賛される未来がやってきます。

 

楽しく生きるが大御神の道、面白きが大御神の教え、徹底した明るい楽天主義です。黒住宗忠教祖はキリストがなさった奇跡は全てなさった方です。

 

山田雅晴先生は「宗忠教祖はキリストの生まれ変わりではないか」と述べておられます。確かにキリストの亡くなった年に天命直受があり、慈悲と愛深い人格、無数の奇跡はキリストそのものです。

 

宗忠教祖の教えは永遠の大生命が極めて一元的に示され、永久不変の教訓そのものです。いずれ全人類が均しくこの教えを讃嘆する時が来ると期待しています。

 

尚 申し上げたいことは、人の命は奇跡的に復活することが多々あります。常識的3次元の考えを超越した神のご加護を信じて、必ず治ると確信して療養すれば苦痛も軽減でき回復もできます。

 

諦めてはなりません。諦めないことが大事です。そして疑わず信じることに徹することです。

 

尚*印のおかげとお取次ぎ等は黒住教に使用されている独自の言い回しであり、一般に使用されている言葉と意味合いがすこし異なります。特に「おまじない」は一般の意味とは全く異なります。

 

宗忠教祖は「まじない」は「まじりない」の意味と言われています。「我、欲、疑い、臆病」といった罪けがれを祓い去って、何も混じってないきれいな心になれば、たちどころに「おかげ」がいただけると仰っています。

 

又宗忠教祖は「まじない」はお取次ぎ(おとりつぎ)、ただご神徳を取り次ぐなり。この方に徳はなけれども、手でもって撫(な)で、さすりて進ぜる時はいかなる大病たりとも即座に治ること、これ道のなすところなりと説かれています。

 

「人の誠と天の誠と が相打てば、金石相きしって火を発す」のように,天地は日の神の誠のいきものが満ち満ちています。そのため人の誠があれば「おかげ」という奇跡が現れます。

 

何事もこころのままに かのう故 

     寝ても覚めても有り難きかな  と宗忠教祖の御歌です。

 

単なるお説教ではなく、私はこのような境地に実際たどり着けるように目指しております。天照大御神のご加護の下に魂の向上に努めましょう。 

 

肉体のあるうちに! 新地球の5次元誕生と共に!

 

自戒の言葉 

腹を立て物を苦にすること 

誠(まこと)の道に入りながら心にまことなき事

 

地上テレビ等を見ると、顔を背けたくなる悲惨な現実に嫌でも触れざるを得ない状況です。自分の意識を感謝行と祓いに絞り天照大御神に全てを任せて、楽しく過ごしたいと目下努力しています。なかなか難しいですが、嬉しく楽しく面白い日々を送れるように祈り努めます。 2024年10月

 

尚 宗教の勧誘は一切しておりません。個人的に黒住宗忠教祖を心から尊敬しているだけです。今の大動乱期は個人の自由選択・自己責任のみです。

 

 

静寂を楽しむ心 

幻の名作  道元禅師坐像

 

Carrying a dead child on his back for more than half a day, he visited Dr. Ishida.

Shima, the second daughter born to Iwa Ikeuchi and Iwakichi, fell ill at the age of 3. Without assistance, her pulse and breathing stopped, and doctors diagnosed her as dead.

It was 5:00 a.m. on April 9, 1882. Relatives were making arrangements for her burial. (Honorifics omitted in the text.)

Ikeuchi’s parents, who had always had deep faith in Oyasama and adored Sakichi Ishida (the first director, who was known as Ishida’s one blow and had saved many lives), received “OKAGE” (miracle) from Dr. Ishida,

In order to save the life of their dead child, the mother, Iwa, left home with her husband, Iwakichi, to visit Dr. Ishida with the cold child on her back.

Carrying the dead child on their backs, they walked on foot along mountain roads from Sakamoto Village to Ishii Village on the Misaka Pass in search of Dr. Ishida in the inconvenient Meiji Era

and finally found the doctor they sought at the home of a man named Asayama in Matsuyama City.

It was already night when I was able to meet Dr. Ishida. Imagine, dear readers, that the time of the child’s death was written at 5:00 a.m.

It says that the child died at 5:00 a.m., so it was night when he was able to meet Dr. Sakichi Ishida after carrying the dead child on his back for more than 40 kilograms. More than 12 hours had already passed since the child’s death.

Is it conceivable that the dead child could come back to life? Even in this day and age of advanced modern medicine, it is inconceivable.

If it is immediately after death, artificial respiration may bring it back to life, but if more than half a day has passed, it is impossible.

Modern medicine diagnoses that the brain tissue loses function over time after death and that resuscitation after a few hours is irreversible, but how do you explain such a case scientifically?

However, a miracle happened to my parents who believed in Dr. Ishida single-mindedly.

Here, we have to admit that there is indeed a world beyond the common sense and the three-dimensional world.

Miraculous case of a dead child being resuscitated

When Iwakichi, a believer, asked at the door, “Is Ishida Sensei around?” at the entrance.

Dr. Ishida replied, “Oh, it’s Mr. Iwakichi, isn’t it? Isn’t that Mr. Iwakichi, what can I do for you this midnight?”

I’ve come to visit you because my three-year-old child is ill and no longer breathes! I have come to visit the doctor!

In response, Dr. Ishida said, “I’m surprised you carried him all the way here on your back! Come on, get up!”

He began his visit early in the morning, and we were finally able to meet him.

The teacher performed a purification ceremony, placed his hands on his stomach, and performed Otoritsugi (a word unique to the Kurozumi-kyo sect).

As he did this, her abdomen became warm and She let out the words, “Milky, baby, baby! The dead infant was resuscitated.

Amazingly, the infant, who had been dead for more than half a day, began to breathe and came back to life! This is a truly wonderful experience that would have been impossible.

In Kurojumi-kyo, such miracles were often performed by  Oyasama . We can see many such cases in anecdotes. Even if it cannot be proven scientifically, there are many spiritual experiences.

Parents who had been walking with their dead children on their backs now became warm and were able to return home with their revived children in their arms.

The revived Shima later became the bride of Kikuzawa Enzaburo, and her mother, Iwa, gave her a sacred title as she carried him in her arms.

She gave it  her, saying, “Your wedding present is lousy, but this is a precious tool and you should treat it with care and pride! She gave it her.

Kikuzawa Enzaburo is described as an elder of the former Myojin Church. Her mother, Iwa Ikeuchi, who lived to be 97 years old, was a pious believer who worked as a missionary in the Gunaka area.

This book was published in a small number for believers about half a century ago. When I called the church the other day, I was told that there are no copies of this book left.

In Kurozumi-kyo, it is commonplace to hear such stories passed down from place to place, and they are expressed with the word ” OKAGE (thanks).”

It is an irreverent idea to say, “Miracles happen when you want them to happen,” but the idea is that the universe is full of living things, and we should seize them! It means, “Seize it! It is possible only with a sincere heart.

It is interesting to note that those who later became great propagators of the teachings were all those who at first viewed the teachings as evil or bogus.

They thought that the teachings were false because of their academic knowledge, and they were reluctant to listen to the precious teachings because they assumed that “there is no mystery in the true law.

Even the third director, Sasao Ishida, was as indifferent as an ordinary person in his early days.

I have no doubt that a similar reaction would occur even today. That is how high the hurdle is to be initiated into Amaterasu.

It is only when “thanks” actually fall on our bodies that we can feel the miracle or have faith in it.

Unless you have a miraculous experience that shakes you to the core, you will not be able to understand how grateful you are in reality.

Translated with DeepL.com 

江戸末期から明治への怒涛の流れと今の大怒涛の流れ

大激動の開始

 

今年から世界は大きく変わりました。来年からさらに一層変化が著しくなってきます。何がどのように変化していくのでしょうか。

 

それは明治維新の比ではない位大激動の時代を迎えようとしています。米国が来年からトランプ政権の共和党に変わり、既に従来の民主党政策の真逆の人事を開始しています。

 

日米地位協定の問題、わが国の財務省の在り方、厚労省の一億人以上への接種の是非、皇室の東京から京都への遷都の議論等が2025年に降って湧いたように国民に襲ってくると思われます。

 

かつてロシアに亡命した「国家機密を暴露した死刑級の重罪人」と言われたあのエドワード・スノーデン氏が舞い戻り、トランプ氏により日本対策省の長官として指名されそうです。

 

そうなったら秘密、機密事項が次々暴露されていき、日本政府、経済界全体がでんぐり返しされ真っ青になるほどの大衝撃が予想される!いわゆるデクラス(機密解除)です。

 

その中でもやはり「新型コロナ以降の全国民への接種が真に正しかったのかどうか」が問われてくる時代になってくるのではないでしょうか。

 

米国発の詳細な驚くべき事後報告に始まり、欧州からの世間に出すに出されなかった臨床事例が次々と報告されていき、日本にも大きな影響を与えるような気がしてなりません。

 

既に大量の超過死亡の報告もなされていますが、マスコミは無言を貫きこの事実を社会に報道しておりません。

 

しかしこれから国民は嫌でも応でも関心をもって向き合うでしょう。そこで人体に与える重大なる影響の大きさが順次明らかにされていきます。

 

その時政府の対応、特に厚労省の責任、医療全般の在り方、マスコミの従来の報道ぶりの是非が根底から議論されていきます。地上テレビの存在そのものが問われ兼ねません。

 

明治維新の流れと現代の流れについて

 

明治維新は今に至るまで西欧に追いつくための一大国民運動でした。しかし今後の流れは追いつくためではなく、内なる復古主義が主流となっていきます。縄文時代の平和社会がどうして一万年以上もつづいたのか。日本人とはいかなる民族か。

 

米国追随ではなく全く逆の動きとなります。日本人中心主義の時代がやってきます。世界の人々が日本を訪れる日が到来すると言われています。

 

戦後の酷い政府の内幕が2025年トランプ政権になったら次々と暴露され、ボツボツとあちこちで煙が上がってまいります。それも驚くべき政界の闇話や歴史的事件・大事故の真相が続々と明らかになってきました。

 

食生活についても同様です。吉野敏明氏の動画でも「4毒の話」がでてきます。小麦のグルテン、即ちスパゲッティ、餃子、ラーメン、パン等や乳製品、精製した植物性油が日本人の体質に合わない弊害を繰り返し主張しています。

 

我々はすべて完全に騙され搾取されていたんだ!」という震えるような怒りの感情とその真っ黒い闇が暴かれ真相が明らかにされていきます。

 

DSの解体が我々眼前で公開されていく!

 

おぞましいジェフリー・エプスタイン事件からスタートしていき、日本や世界の超有名人が挙げられ話題になっていくでしょう。

 

米国の9.11事件も国家ぐるみの虚偽が晒されて世界中が驚嘆することになります。又UFOの存在を米国が公式に発表する予定です。いよいよ宇宙人の登場が現実化していきます。

 

地球外生命体は高度な知能と技術の持ち主で、地球を監視していると元国防総省のルイス・エリゾンド氏が証拠写真を見せて公表をしているのは驚きです。

 

シリアのアサド政権の崩壊とイスラエルのシリア侵攻はヨーロッパ全土への不吉なエゼキエル戦争の足音がしてきます。まさに予言通りの筋書きになりそうです。

 

日本が世界を平和に導く時代

 

又プレアデス星のプレヤール人の言葉通りに人類は大戦争へと向かって、愚かな殺戮を繰り返すのでしょうか。予言通りであれば全ヨーロッパの不法移民の暴発が心配されます。

 

我が日本が世界の中心となり、地球の滅亡を防ぎ人類を平和に導くのが大和民族の使命です。

 

明治維新から今までの170年間、我が国は西欧のものまねにひたすら邁進してきた時代でした。京都御所から東京の江戸城に遷都され、近代国家を目指して参りましたが、逆に天皇が首都から京都にお帰り遊ばされる時代を迎えようとしています。

 

社会に余程の大事変が無い限り遷都はないはずです。今後時代は大きく変わり、人心を一新しなければならないほどの社会変化が訪れるかもしれません。それが何であるか我々日本人は固唾を呑んで見守りましょう。

 

その時には冷静に俯瞰して大所高所から対応できる心構えでしっかりと腹を据えて、待ち受けることです。今後日本は素晴らしい人材が新党を次々結成してまいります。

 

世の中が大変化していくのが分かる筈です。今までの古い政党の利権争い、お金中心、政権の奪い合いの政治から大きく脱皮して、新日本創成に向けて政治家は勿論国民の大規模入れ替えが始まります。

 

人類誕生以来の歴史の大転換点を迎えていることは間違いありません。明治維新をはるかに超えるスケールであり、地球を含む銀河宇宙の変わり目と捉える方もいるくらいです。

 

この大峠を超えれば前代未聞の新時代の扉がまさに大きく開こうとしており、明るい未来が見えてきますので楽しみです。このような時代は地道に天に感謝を尽くして時を待ちましょう。

 

大和の国日の本 万歳! 人類の平和を祈ります!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

宇宙人との出会い

 

月刊anemoneより転載しました。宇宙の広さを知りましょう!

 

もうすぐ宇宙人との出会いが始まります。どんなに宇宙が無限に広く、宇宙人が多く住んでいるか分かり易く説明してあります。

 

 天の川銀河外の知的生命体たち

私たちの住む地球は、 「太陽系」に属している惑星です。 太陽系には、同じ太陽を親に持つ 7つの兄弟惑星たちがいて、 皆、アセンションしています。 最後、地球がアセンションすれば、 太陽系そのものがもっと軽やかな上の次元に行けるという、 そんな局面にあるのが現在。 つまり、「地球待ち」なのです。

視野をもう少し拡大してみましょう。 地球が属する太陽系は、 「天の川銀河」という銀河の中心から 2万6千光年のところに位置しています。 その天の川銀河には、太陽と同じように 自ら光を放つ恒星が約2千億個も存在しています。 私たちが認識しているこの宇宙のことを 「オーム宇宙」といいますが、 オーム宇宙にはなんと、天の川銀河と同じような銀河が 約数千億個も存在しているのです。

特筆すべきは、天の川銀河以外の銀河は すでにアセンションしているのだということ。 そして、最後に天の川銀河がアセンションすれば、 オーム宇宙全体がまったく新しい宇宙に生まれ変わるという、 現在はそんなとてつもない局面にあります。 つまり、宇宙全体が「天の川銀河待ち」なのです。

 

宇宙の超壮大な構造が説かれています。このような驚くべき宇宙世界が地球以外にもあるということです。とてつもない世界が存在するということです。

 

そのなかでも格別美しい地球のアセンションは心臓の中核ともいえる最も重要な働きをしており、地球に住む我々もその一端を担っております。

 

我々の文明より数千万年、数億年、数十億年先も進んだ科学技術と霊的成長を遂げた星が無数にあり、地球のアセンションを見守っている。

 

想像しただけでも目の前の些細な事象から気持ちが開放されませんか。お金のことや地位、名誉、家柄、名声を離れて宇宙の果てしない世界へ思いを巡らし、いよいよ霊的世界を迎える準備をする必要があります。

 

ここで注意すべきは足元をしっかりしていかないと、思いだけが一人歩きする恐れがあります。だから我々地球人は一歩一歩着実に感謝を重ねて、足固めすることが求められます。

 

 

 

 

 

 

 

⑪ 大いなる奇跡と霊験 虚空蔵菩薩の神秘

 

 虚空蔵菩薩の神秘

 

虚空蔵菩薩

 

 長崎県の諫早市に天祐寺というお寺があります。そこの住職をしておられた須田道輝和尚の書かれた「虚空の神力」の本の中に、虚空菩薩の世界が述べられています。

 

そこに今後の地球の未来像が具体的なイメージとして分かるような描写してあり、今読み返してびっくりしました。

 

虚空菩薩経にはスピリチュアルなテーマとして取り上げられる宇宙人とか未来世界が、実に克明に書いてありどなたがこのような本を書かれたのか、関心を惹かれる本です。

 

 一切香の世界

 

虚空蔵経によれば,この地球から西方に向かって八十劫河沙(ガンジス川の砂の数ほどのはるか遠い距離)を過ぎたあたりにある一切香(という星)に、知性の高い生き物が住んでいました。

 

その一切香に縁起の法を説く仏が出現されて、その縁起の法は仏法の真理と同じであると書かれています。

 

一切香の世界では霊的な生命体は仙人は霞を食べて生きていると同様に、いい香りを栄養源として生きています。

 

香は霊体の先祖達の食べ物になっていますので、仏前で香をたくのです。香を供養するのは又供養する人の心身を清めるためでもあります。

 

須田道輝和尚は虚空蔵の世界は一切香と名付けられた天体が遙か宇宙のかなたにあり,単なる空想上のものではないと述べられています。

 

神秘的体験 

 

和尚が天祐寺に来られた昭和42年当時は山門、本堂は立派でしたが、境内は荒れ果てており雑草が生い茂る荒れるに任せたお寺でした。

 

須田和尚はとんでもないお寺に来てしまったと後悔しきりでした。いろいろお寺の復興について尽力を尽くされたのですが、お金がないつらさをしみじみ味われたということです。

 

そのようなある日、須田和尚さんが晩課(夜のお勤め)のお経を読んでおられたら、忽然として須弥壇(ご本尊を祭ってあるところ)の上に透き通るような神秘な光の線でえがかれた菩薩像が現れました。

 

しばらくして消えてしまいましたが、左手に剣を持ち右手に宝珠を持った威厳のある姿を、約一分近く見ることができました。

 

その後仏教図鑑を調べて剣と宝珠をもっておられる菩薩様は、文殊菩薩か虚空蔵菩薩に特定ができましたがどちらか決めかねていました。

 

それからしばらくしてある夜夢の中で、「虚空蔵を探せ」とはっきりした声の夢を見ました。目を覚ましても、その声は耳の底に重々しく残っていました。

 

そんなある日のことです。開山堂を掃除中に戸袋の中から、偶然に明代の古い大蔵経の一部を発見したのです。その中に虚空蔵菩薩経の数編が現れました。

 

このような事があって、虚空蔵菩薩の仏師に依頼して菩薩像をおまつりするようになりました。この菩薩像をおまつりして以来須田和尚以外にも信仰する人に常識を超える出来事が、しばしば起きるようになったということです。

 

虚空の神秘

 

そしてこの世はただ不可思議としか言いようのない世界で、そのような宇宙の神秘にただ有難く生かされていることを、感謝するだけだと須田和尚は述べておられます。

 

虚空が忽然として凝縮するとそこに現象が現れ虚空がもとに戻ると現象は消えて、もとの何一つない無限の虚空の広がりに戻ります。

 

こうした虚空の働きは宇宙の神秘としか言いようがなく、人知の及ぶ次元ではありません。虚空には相対的対立もなければ制限もありません。

 

合理的と思っているものは単に人間の知性に合うだけで、このお経は人間の知性を超えた次元で説いているのではないか。

 

人の知性だけでは分からない非合理世界を覚醒させるために、菩薩は出現されたのではないかと説かれています。

 

経典に説かれているように高い山から落ちても菩薩の念力によって、命を奪われないと強く信じてそれを受領する心も大切ではないかと思われます。

 

同様の話がありますので、ブログ 必ず治る② 筏仙人の話をもう一度参考にしてください。

 

今のこの大激動期の生き方を予見し、どう生きるべきかを35年前に明示された須田道輝和尚の慧眼に改めて敬服させられます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

⑩大いなる奇跡と霊験 寿命が4回延びた話

 

 

滝沢白竜宮司の奥様の大病のお話です。寿命が神により4回延命されたご神恵です。(古神道霊験秘話 滝沢白竜著より)

 

1回目の大病(36歳時)

 

昭和28年鹿児島在住の時、霧島神宮主催の高千穂山上のご神火大修法に夫婦でご参加になり、帰宅した日に奥様が大量の腸内出血をされました。

 

さっそく滝沢宮司が神伺いをされますと,奥様の祖先から身に受けている悪因縁の大修祓(だいしゅうばつ)であるとのお示しです。

 

医者にも見せずに2~3日の安静で回復しましたが、3年後に又大量の腸内出血をされました。これも重ねて伺いますと「汝の家内の命は36歳で終わりであったが、汝と結婚して深い信仰に入り、その心得(こころえ)感心するところがある。45歳まで延命してつかわす」とのお示しを賜りました。

 

この時は奥様は36歳で、この時より45歳まで命が延びました。

 

 

2回目の大病(36歳~45歳)

 

 それから8年後神より「45歳まで延ばしてつかわす」とのお示しをいつのまにか忘れていました。

 

当時、身体が痩せてきて気力も落ち「養生せんと若死にするよ」と奥様は近所の人からも言われていたのです。実はその通り45歳になって、命数が切れかかっていたのです。

 

その後に神から「汝の家内への百日間の延命祈願を行うべし」とのお示しをいただき、元旦早々に産土神社にて百日の願をかけ、これを無事に貫徹終了しました。45歳から更に10年の延命です。

 

 

3回目の大病(55歳~63歳)

 

 

 45歳から10年経過して55歳の時に心筋梗塞で、とうてい命が助からないというような最悪の診療数値が出ました。

 

普通 心筋梗塞はデータが500位ですが、奥様は3000を超えて「すぐにも心臓が停止するかもしれないので、血縁者を呼び寄せてください」と宣告され、病院でも見舞いに来た人に「今お会いになったのが最後と思って下さい」と言われるような危篤状態だったそうです。

 

奥様はもがき苦しんでおり、滝沢宮司はご神前で「実は家内が苦しみの最中です。どうなりますか」と神にお伺いしますとご神殿から大きな声でお示しがありました。

 

「心配はいらぬ。心配はいらぬ。この苦難に耐えよ、この苦難を乗り越えれば汝の家内は助かるぞ」と二声続けてありました。

 

「ああ、家内は助かる」と思って顔を覗き込むと「アー」と言って息を吹き返しました。助かった!助かった!まさに神恩感謝の一瞬でした。

 

その時奥様が言われた言葉は「明るい 明るい 素晴らしい景色の良いところに行ってきました」と満足そうな清々しい表情です。

 

人間の行ける最高の霊界に連れて行かれたのですが、現界からのたっての祈願によって又この世に戻されたのが自感(神の悟し)で分かりました。

 

そして55歳から更に8年間 63歳まで、延命のおかげを賜ったそうです。病院側では100%助からないと確信していて、医者も看護婦も完全に諦めて放置してあったくらいでした。

 

しかし死ぬまでに至らず奇跡的に命をとりとめ、入院中に病院長から「貴方はよほど生命力のある方ですな」と週一回の回診毎に7回(7回×7日 49日間の入院中)同じことを言われたそうです。

 

退院する時に婦長、看護婦さん達から「本当に良かったね。生きて帰れるとは誰も思ってもいなかったです」と繰り返し言われました。余程の瀕死の重症だったと思われます。

 

 

4回目の大病(63歳~71歳)

 

 

63歳の8月25日また発作が起きて救急車で病院に駆け付けた時は、意識不明の死人同様でした。

 

医者から死の宣告を受け、葬式の準備までしました。しかしこの時も奇跡的な神助により命が助かったのです。

 

「信者の祈願と汝の祈願を受け、汝の家内は現界に残すことに定まった。寿命は後8年」と神様からの延命のご沙汰のお示しを頂戴しました。

 

69歳の春頃ご神示があり「汝の家内の寿命は71歳まで延命されているが、神界ではもう少し延ばすよう手配がなされている。」とのことです。

 

今まで数々のご神恵を賜り、さすがに71歳で一代は終わりと滝沢宮司は腹を決めておられたそうです。

 

滝沢宮司は第二の天戸開きの任務の大事な奉仕中であり、奥様がおられないと日常神事奉仕がどうにもならないのです。神はそれを見通されて、奥様の寿命を延ばしてくださったと宮司は確信しました。

 

69歳の11月13日吹田市の国立循環器病センターで、順番待ちしているうちに又発作が起きてしまいました。

 

精密検査の結果「心臓内部の動脈が全部詰まっている。バイパスの手術以外に生きる方法はない」と言われ早速手術しましたが、この状況でも奇跡的に助かりました。

 

71歳まで今の身体は到底命がもたないと神は判断されて、69歳の時に手術するようになされたということです。「この分では70歳を通り越してもう少し長生きできそうです」と滝沢宮司は締められています。

 

この話は滝沢宮司とのご縁で神と繋がり、宮司がご神璽に奉仕されるので、その奉仕が十分できるように奥様の延命がなされたご神恵のお話です。

 

あり得ないような奇蹟の連続によって何度も延命された奥様の命は、神との繋がりの大事さを考えさせられます。hinomotoはこの話を何回も読み、神の存在と繋がることの励みにさせてもらいました。

 

滝沢宮司は「行う者は必ず勝つ、然からざるものは遂にその運命に落ちる」と数回 本に述べておられます。行えば徳を招き、そうでなければその人の定まった運命のままに落ちていきます。心して肝に銘じて実践すべき言葉です。

 

滝沢 白竜宮司については下記を参照してください。

古神道霊験秘話より 大嵐の中のご神事

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大いなる奇跡と霊験の黒住宗忠について About the Great Miracle KUROZUMI MUNETADA

 

黒住宗忠教祖は国家神道の天照大御神を個人の親神として説いた幕末の偉大な霊的指導者です。

 

大いなる霊験者の宗忠教祖のお人柄について驚嘆すべき話が、いくつか残っていますのでご紹介いたします。

 

1.放火犯を祈られる

 

ある朝教祖の家の屋根がところどころ焦げていたので、ある人が屋根に上って見てみたら7か所も火をつけられていたことが分かりました。

 

幸いに大事にならずに済みましたが燃えさしの松明(たいまつ)の残りがあり、それをもって降りてきて教祖に差し出しましたら「ああ、これはほんとに恐ろしいことでした。いやどうもご苦労様でした!」とお礼を述べられました。

 

「まことに人の家に火をつけるとは、恐ろしいことです。もし発覚したら重い刑に処せられ、火あぶりの罪にも問われるものを!幸いに大事に至らずに済んでよかった。人様にこのような大罪を犯させたことは、神様に申し訳ないことだった。

 

無事に済んだお礼と人が犯したお詫びを、神に申し上げなければならない。その人が心を改めて正しい真人間に、立ち返るようにお祈りしよう!」と燃えさしのたいまつを綺麗に洗い、塩水で清めて火をつけたその者の改心と開運のために、3週間誠意を込めてお祈りされました。

 

放火犯謝りに現る

 

すると不思議なことに3週間の満願の夕方見知らぬ男が、お宅に来訪しておそるおそる震える声で語り「私は20日ほど前にお家の屋根に上り火をつけましたが、どういうものか、つけてもつけても燃え上がりません。

 

よく乾いている草ぶきの屋根に火のつかぬはずはないのですが、7か所ばかりもつけました。それでもどうしても燃え尽きませんので、恐ろしくなりやっぱり尊いお方であったことが分かりまして、たいまつの燃えさしをそこに投げ捨てて逃げ帰りました。

 

それから相すまぬことをしてしまったと深く後悔して悩みつづけ、思い切ってお詫びに上がりました。どうぞお許しのほどをお願いいたします」と白状したそうです。

 

教祖もお祈りのご誠意が届いたことをお喜びになりまして、お道の趣旨をその者に説き諭しになりました。その者は涙を流して感激しついに神文を捧呈して、正しい道に進んでいったということです。

 

この者は修験者、祈禱者の類で教祖に帰依する者が次第に多くなり、そねみと恨みから放火に及んだという話です。「汝を呪う者のために祈れ」という尊い言葉がありますが、正しく教祖の例がこれに当ります。

 

宗忠教祖がいかに純粋で清らかな人物だったかよく理解できる話です。放火犯のために21日間誠意を込めて、お祈りされた行為が神に届いた貴重な話です。

 

2.追いはぎに金を恵まれる

 

教祖が家への帰り道に日が暮れ、人家もなく寂しい所(米倉あたりかと聞く)を歩いていましたら、物陰から現れた男が突然道をふさぎ「ぜひ10両の金が要るんだ。貸してくれ!」と迫りました。追いはぎです。

 

これを聞いておられた教祖はその男の顔を見つめておられましたが、やがて物静かに「ぜひ入用か。このような寂しい夜道に立って知らぬ者に金の無心をなさるとは、よくよくの事と思います。分かりました。お貸ししましょう。

 

しかし今は5両しか持ち合わせがありません。まあお気の毒ですが今夜はこれだけ持ってお帰りなさい。あとの5両は今村のお宮の手水鉢のそばへ埋めておきます。目印に小さな石を置いておきましょう。明日の夜お取りください。間違いなく5両埋めておきます」

 

追いはぎはしばらくは、じっと教祖の顔を眺めていましたが「見るからに正直そうな老人だ。うそは言うまい。それにしても丁寧な者だ。

 

10両と言ったらそれをそのまま真に受けて、大枚5両をくれた上に又明日の夜5両くれようとは!」とあきれ気味に感心しながらもその夜は立ち分かれました。

 

さて半信半疑で翌日の夜今村宮に行ってみると約束通り目印の石の下に5両が置いてあり「ああやっぱり正直なお方であった。

 

今時こんな神様のような人はいない!」と教祖の誠心に感じ入り、自分の間違った心、行為を深く恥じ入って、やがて門人の一人として厚く信心するようになったといいます。

 

まるで嘘のような話と思われるでしょうが、教祖は相手を非難するような気持ちは一切なく追いはぎに立ち治りの機会を与えられたのです。

 

3.濡れ衣を着せられる

 

ある親戚筋より6両の借金をされ、全額返済されましたが、相手より再度の返済催促がありました。そのとき教祖は6両という高額の催促を黙って再度払われました。

 

その時の歌です。

 

    誠をば神は見すらん濡れ衣

       人には着せじ身は重くとも 

 

「既に払った」ときっぱり言えば、誰かに疑いや詮索等のいろいろな問題を引き起こす羽目になるとお考えになって、自ら「濡れ衣」を黙って着られたということです。

 

4.横領のえん罪を甘んじて受けられる

 

ある武士に借金していた人が返済せず催促されるたびに、その場限りの言いのがれで済ましてきましたが、とうとうその武士がしびれを切らし、借金返済に自ら乗り込んできました。

 

借金を払わない場合相手を「切り捨て」しても払わせる意気込みです。困った相手はその武士が黒住先生を尊敬していることを知っており、先生にかこつけて「あの金はもう大分前に最初お話を下さった黒住先生にお渡ししてあります」と嘘をつきました。

 

その武士はすこしおかしいとは思ったのですが、相手があまり強く言い張るので教祖の家に顔色を変えて参りました。

 

玄関で武士の訪問を受けた教祖は、只ならぬ雰囲気の武士の様子を見てとっさに「確かにその金は受け取りましたが、今手持ちの金は半分しかありません。とりあえず半金だけ今日お渡しします。残りは近日中に持参いたします」となんとかその場をしのぎました。

 

そのあとで奥様が尋ねられました。「只今のこと本当なのでございますか。あなたがお受け取りなっておられたのですか。仮にも人様のお金を黙って使い込んだとあっては、人の道を説いておられるあなたとしては道の汚れとなるでしょう !」と述べられました。

 

それに対して教祖は「今あの侍の顔を見たら、血相変えて殺気だっておった!もしわしがありのままを言ったら、直ちに引き返してあの者は切られてしまう。

 

これはどうしても、わしが罪をかぶってやらねば と即座に決心して嘘をついたのじゃ。奥や まあ ありがたいことに人一人の命が助かったのじゃ!わしの名がなんだ。みんな天が知っておられることだ。これが本当の道じゃ!」と答えられたとのことです。

 

5.井戸に落ちた子猫の話

 ( 無限なる宇宙世界で自由自在に生きよ!窮屈な物質界に囚われて過ごしてはならない。)

 

岡山へご神用のためある地方へ行かれた時の話です。大勢の者が集まって何か事ありげに見えましたので、教祖も立ち止まってご覧になりました。

 

すると井戸の底に子猫がはまって溺れ死にそうにしており人々が助けているところでした。小さなザルを綱に吊るして下げてやると子猫がザルに飛び移ります。

 

それを引き上げてあともう少しで助かる井戸の先端まできたところで、子猫が道へ早く飛び出そうとしてドブンと井戸の深い底に落ち込むのです。

 

何回やっても猫が早まって飛び出すので助けられず、井戸に落ち込むのを何回も繰り返しています。

 

じっとご覧になっておられた教祖はいつしか涙目になって思わず泣かれてしまわれました。随行の銀治兵衛さんは「助けられずかわいそうですが、たかが猫一匹のことです。何も大先生のあなた様が泣かれるには及びません!」

 

これを聞いた教祖は「銀さん、子猫のことではありませんぞ!あれは人間のことですぞ!人は利口そうに見えてもあの子猫と同じことを繰りかえしています。

 

神様が助けてやろう、助けてやろうとお骨折りなさっても、もう少しじっとしておれば助かるものをすぐ自らの要らぬ自我を出し、あたら命を捨てております。

 

そして自ら深い業の淵に飛び込んでいく。神様がどんなに人を哀れと思し召しになっていることか、泣かずにおられません!」と仰せになりました。全くそのお言葉通りです。

 

天にお任せして大らかに生きれば思う通りの世界に生きられます。唯物的な独りよがりの我よしの自我を捨て去り、神のご加護の下に自由に楽しく生きることです。

 

6. あわや船の転覆を免れた話 

 

宗忠教祖が転覆沈没寸前の船より、歌を書いた懐紙を海に投じて一瞬で嵐がおさまった話です。

 

「教祖様の御逸話」には「小串沖ご難船」というタイトルで記載されています。弘化3年(1846年)3月8日宗忠教祖は小豆島方面に向かう途中、小串沖(岡山市南区)での出来事です。

 

いままで静かな海がにわかな突風で吹き荒れ、大波のため航行中の大小の船が大揺れに揺れて転覆しそうな事態になりました。教祖が乗っていた船も、転覆沈没せんとするような状態です。

 

船頭達も必死になって転覆を避けようと懸命に努力しましたが、どうにも転覆を免れなくなり、同船の客たちは助けを求めて大騒ぎとなり神仏に祈ったりしていました。

 

教祖はひとり静かに、目を閉じどっしりと座っておられます。船頭が「この船もいよいよ転覆します。どうか覚悟してください」と大声で皆に叫びました。

 

教祖はその声をお聞きになって矢立を取り出し、懐紙を開いて歌をサラサラとお書きになりました。

 

 波風をいかで鎮めん海津神(わだつかみ)

       天つ日を知る人の乗りしに   

 

(日の神である天照大御神のご神徳を世の人に広めている自分が、乗っている船を沈める気か。海をつかさどる竜神よ、波風を鎮めなさい)

 

と一首の歌をしたためて海中に投ぜられるや、いままでに嵐のような大波が一時に静まって凪のようになり海に投げ出された人々も助けられました。

 

その救われた人の中に鳥取県松崎の伊東定三郎という人がいました。この人は息子と金毘羅宮へ参拝の途中別な船に乗船していましたが、この大嵐に巻き込まれ親子共々波間に投げ出されたところを波が急におさまり助けられた話があります。

 

尚伊東定三郎は大商人の船木敬重の番頭であり、この奇跡体験の話を主人の船木敬重にして、敬重が黒住教に関心を持つ切っ掛けになった経緯があります。後の船木敬重は黒住教の大いなる資金的援助者になります。

 

急に嵐がやんだ理由が後になって、別な船に乗っておられた宗忠教祖のお蔭だということを定三郎は知って黒住教徒となりました。伊東定三郎も船木敬重もやがて教師として布教におおいに尽くされた話が伝えられています。

 

又この話と関連していると思われる話が他にもあります。かつて弘法大師が仏教を求めて遣唐使の船に乗って、唐の国に渡ろうとした時に暴風と大波に襲われ、船が転覆沈没の危険性がありました。

 

しかし大師は大和の人達を仏法の教えに導くため唐に行くのであるから、船が沈没するはずがないと全く動揺のない平然たる態度をとられたことを思い出させるものです。

 

嵐を終息させる目に見えない力が、この世に厳然として存在している証左として取り上げました。下記の古神道霊験秘話の大嵐のご神事も同様な話です。

 

古神道霊験秘話より 大嵐の中のご神事

 

There are still some marvelous stories about the personality of Kurozumi Munetada, the Great Spiritual Examiner, that I would like to share with you.

 

1. Prayer for an arsonist

 

One morning the roof of Munetada’s house was charred in some places, so someone went up to the roof to take a look and found that seven places had been set on fire.

 

Fortunately, it was not serious, but there were remnants of torches that had been set on fire, and when he came down with them and presented them to Munetada,

he said, “ Oh, this was truly a terrible thing. Thank you very much for your hard work ! It is truly a terrible thing to set fire to someone’s house.

If it had been discovered, he would have been severely punished and even burned at the stake ! Fortunately, it was not serious. I was sorry to God that I had caused people to commit such a serious crime.

I must thank God for the safe outcome and apologize to God for the person’s transgression. I pray that the person will change his mind and turn back to a righteous and true human being ! “

 

He washed the torch clean, purified it with salt water, and prayed with sincerity for three weeks for the reformation and recovery of the person who had set the torch on fire.

 

Arsonist Appears to Apologize

 

Strangely enough, on the evening of the three-week period, a stranger came to the house and said in a trembling voice,

“About 20 days ago, I went up on the roof of your house and set it on fire, but somehow, it did not catch fire even though I put it on.

It was impossible for a roof made of dry grass not to catch fire, but I lit fires in as many as seven places. I was so frightened that I realized that it was the Goddess of Mercy, so I threw the torch’s cinders there and fled home.

I was deeply sorry for what I had done, and I continued to be troubled by my regret. Please forgive me.”

 

Munetada was pleased that the sincerity of his prayer had been received, and he explained the purpose of the path to the man. The person was so moved to tears that he finally offered the Divine Grant and proceeded on the right path.

 

The story goes that this person was a kind of ascetic or exorcist who gradually became a devotee of Munetada, and out of envy and resentment he set himself on fire. There is a noble saying, “Pray for those who curse you,” and Munetada’s example is a perfect example of this.

 

This story shows how pure and innocent he was. It is a precious story that the act of praying with sincerity for 21 days for the arsonist reached God.

 

2. being blessed with money by a highway robber

 

Munetada was walking home at sunset in a deserted area (around a rice granary, I hear) when a man appeared from the shadows and suddenly blocked his way, saying, “I really need 10 Ryo of Gold. Please lend me the money! He was a robber. He was a robber.

 

Munetada, who was listening to this, stared at the man’s face, but then quietly said,

“You need it ? I am surprised that you would stand on such a lonely nighttime street and ask a stranger for money. I understand. I will lend you the money.

But I only have five cars on me at the moment. I am sorry to say this, but please take this much with you tonight and go home.

I will bury the other five by the water bowl at the shrine in Imamura. Leave a small stone to mark the spot. Please pick them up tomorrow night. I will definitely bury the five cars.”

 

The chaser looked at Munetada’s face for a while, but then said, “He seems to be an honest-looking old man. He would not tell a lie. He is a very polite man.

 

When I told him that I would give him 10 cars, he took it as it was and gave me 5 Ryo of Gold, and then gave me another 5 Ryo of Gold orrow night ! The “Mere Old Man” left that night with a sense of dismay and admiration.

 

The next night, I went to the Imamura Shrine with half a doubt in my mind and found the 5 Ryo under the stone as promised.

 

There is no one like a god nowadays ! He was deeply ashamed of his wrong mind and actions, and eventually came to have strong faith in him as one of his students.

 

It may sound like a lie, but Munetada never had any blame to the other party and was given a chance to recover from the crime of being chased.

 

3. being falsely accused

 

Munetada was once again asked to repay a debt of 6 Ryo by a relative, which was repaid in full. However, the other party demanded another repayment. At that time, Munehata paid the high demand of 6 Ryo  without telling anyone.

 

 

If he had said flatly, “I have already paid,” he would have caused suspicion, scrutiny, and various other problems, and so he silently put on the “robe of shame” himself.

 

4. accepting the guilt of embezzlement

 

Whenever a person who owed a debt to a certain samurai was urged to repay the debt, he would simply make up a perfunctory excuse, but finally the samurai grew tired of the situation and came to him himself to repay the debt.

 

The warrior was determined to make the debtor pay even if he had to “cut off” the debtor if the debtor did not pay. Knowing that the troubled warrior respected Munetada Sensei, he took advantage of his respect for Sensei and lied, saying that he had already given the money to Kurozumi Sensei, who had first spoken to him long ago.

 

The warrior thought this was a little strange, but the other party insisted so strongly that he changed his face and came to Munetada’s house.

 

When Munehada was visited by the samurai at the entrance, he saw that the samurai was in an unusual mood and immediately said,

“I have indeed received the money, but I have only half of the money on hand. For now, I will give you only half of the money today. I will bring the rest in the near future.

After that, his wife asked me, “Is it true what you just said ? Is it true what just happened ? Was it you who received the money ?

If you have spent other people’s money without telling them, it would be a disgrace to you, who preach the Way of the People !”  In response, Munetada said, “Now, that money is being spent.

 

In response, Munetada said, “When I looked at the samurai’s face, it was bloodthirsty and furious ! If I had told the truth, he would have turned around and been cut down.

I must take the blame for this, so I immediately made up my mind to lie. Thankfully, a man’s life was saved ! What is my name ? The heavens know it. This is the true way !”  He replied, “This is the true way !”

 

5. the story of the kitten who fell into the well
 (Live freely in the infinite cosmic world ! Do not spend your time trapped in the cramped material world.)

 

It is a story about a time when He went to Okayama city on a divine mission. A large group of people had gathered and looked as if something was happening, so Munetada stopped to look.

 

He saw that a kitten was stuck at the bottom of a well and was about to drown, and people were rescuing it. A small colander was hung from a rope and lowered, and the kitten jumped onto the colander.

 

When they pulled it up and almost reached the top of the well, the kitten tried to jump out of the way and plunged with a thud into the deep bottom of the well.

 

No matter how many times we tried, we could not save the cat as it jumped out prematurely and fell into the well over and over again.

 

Munehata, who was watching the scene closely, eventually became teary-eyed and cried uncontrollably. The attendant, Ginjibei, said, “I feel sorry that we could not save the cat, but it was only one cat. There is no need for you, Oyasama, to weep !”

 

Hearing this, Muneada said, “Gin-san, I am not talking about a kitten! I am talking about human beings! People may look clever, but they are repeating the same thing as that kitten.

 

Even though God makes every effort to save them, they could be saved if they would just stay still a little longer, but they immediately give up their own unnecessary ego and throw away their lives.

 

And then, he himself plunges into the abyss of deep karma. I cannot help but weep, thinking of how much God pities mankind ! “

He said, “I cannot help but weep ! ” It is exactly as he said.

 

If we leave everything to the heavens and live with a generous heart, we can live in the world as we wish. We must put aside our materialistic, self-indulgent ego and live freely and joyously under the blessings of God. 6.

 

6. the story of how the ship was saved from capsizing in the nick of time 

 

In this story, Munetada was on the verge of capsizing his ship when he threw a piece of paper with a poem written on it into the sea, and the storm subsided in an instant.

 

The story is described in “Anecdotes of Munetada” under the title of “Kogushi Oki Gosainan Boat” (A ship in distress off Kogushi). On March 8, Koka 3 (1846), Munetada was on her way to Shodoshima when she encountered a storm off the coast of Kogushi (Okayama City).

 

The previously calm sea was suddenly swept away by a gust of wind, and the large and small boats under sail were rocked so violently by the heavy waves that they nearly capsized. The ship on which Munetada was riding was also in a state of near capsizing.

 

The boatmen tried their best to avoid capsizing, but they could not avoid capsizing, and the passengers on the boat were in an uproar, praying to the gods and Buddha for help.

 

 

Munetada sat quietly with his eyes closed. The boatman said, “This ship is about to capsize. Please be prepared.”

 

Hearing his voice, Munetada took out his Yatate, opened a piece of kaishi paper, and wrote a poem on it.

 

Wadatsutsukami, the god of the sea, who calms the wind and waves
      To the rider who knows the heaven and the sun

 

(I, who am spreading the divine virtues of Amaterasu, God of the sun, to the world, do you dare to sink the ship on which I am riding? O Dragon God who controls the sea, calm the waves and winds.)

 

The stormy waves that had been swept out to sea were suddenly calmed, and the people who had been thrown overboard were saved.

 

Among those saved was a man named Ito Sadasaburo from Matsuzaki, Tottori Prefecture. He was on another boat with his son on their way to worship at Kompira-Sama when they were caught in a great storm and both father and son were thrown into the waves, but the waves suddenly subsided and they were saved.

 

Ito Sadasaburo was the chief watchman of Funaki, a large merchant, and he told his master, Funaki Keishige, about this miraculous experience, and Funaki became interested in the Kurozumi-kyo.

 

He later learned that the reason the storm suddenly stopped was due to Oyasama  on a different ship, and he became a Kurozumi-kyo member. It is said that he eventually became a teacher and devoted himself to missionary work.

 

There is another story that seems to be related to this one. Once, when Kobo-Daishi was about to travel to Tang China in search of Buddhism on a Japanese envoy’s ship, the ship was struck by a storm and heavy waves, and was in danger of capsizing and sinking.

 

However, the Master was not upset at all because he was going to Tang China to lead the people of Yamato to the teachings of Buddha Dharma, and he was completely unperturbed.

 

I have taken this up as proof that there is an invisible force in this world that can end a storm.

Translated with DeepL.com

 

 

 

 

 

 

 

 

 

⑦大いなる奇跡と霊験 ハンセン病の奇跡 言霊療法

 

 

 

言霊療法 ハンセン病が治る

 

言霊療法は今の科学万能主義からは、受け入れられない迷信の類と思われています。

 

言葉だけ信じて治る訳がないし、正しい診察も薬も使用しないで完治するはずがないとの見方が一般的です。

 

従って根本的に言霊療法を否定する人には、残念ながらその効果は全く現れないと思われます。 その理由は信じること或いは信じ切ることが、根底になければ快方に向かわないという原則があるからです。

 

その信じ切ることの大事な例が、黒住宗忠教祖の話の中にあります。

 

備前藩士で高禄家柄の人が、難病のハンセン病にかかり顔にも症状が出てきました。かねてのうわさの高い宗忠教祖のところへお参りして治してもらおうと伺いました。

 

教祖は「ご心配ありません。よくなります。しかしながら治るには、有難いということが、最も大事です。まず一日に百回づつ7日間『ありがたい、ありがたい』と心を込めて唱えてください」と仰せられました。

 

その人はそれなら簡単だと思われて、さっそく100回づつ実行しました。そして教祖に実行したことを申し上げると「では、日に1000回づつ唱えてください」と言われました。その方は一日1000回づつ7日間唱えたということです。

 

しかし病状は一向に良くなりません。そのことを申し上げると「一日1万回づつ唱えてください。必ず治りますから!」と力強く仰せられました。

 

その方は素直で純粋な方でしたから、その言葉を信じて毎日1万回づつ唱えて、ちょうど7日目に にわかに熱が出て激しく吐血して倒れこむように、寝込んでしまったということです。

 

久しぶりに全てを忘れて熟睡して目が覚めると気分もよく、なんと顔や手足のハンセン病特有の症状がきれいさっぱり取れて治っていました。

 

この人はそれ以来熱心にお道を信じて生涯2,7日(月に2と7のつく日)の御会日は一回も欠かさず参拝されたということです。

 

この話は愚直に治ることを信じて言われた通り「有難い」の言葉を言い続けることを、やり通したことで難病のハンセン病が治ったということです。

 

「有難い」の言霊はこの言葉自体の持つ高い波動が、人知を超えた奇跡をもたらしたものと言えます。

 

治った理由は ①治りたいという本人の切なる願い ②宗忠教祖への全幅の信頼 ③「ありがたい」の言霊の持つ力が、相互に作用して難病全快に導いています。

 

見えざる力の発動で、あらゆる理屈を超越した力です。「必ず治る」ことの理由を強調したい点です。

 

必ず治る① 赤木忠春高弟 目がみえる!

 

言霊の波動

 

周波数の高い言葉、言霊の持つ本来の力と本人の熱意のなせる技でしょうか。宗教的なことはよく分からなくてもただ有難い、有難いと心の中で念じていれば幸せが訪れると、宗忠教祖も太鼓判を押しておられます。

 

小生自身も感謝行を行っており、ある事が叶った経験が最近あります。このような経験は生まれて始めてのことで一種の奇跡でした。全然考えもしなかった事が突然現実に現れるのにはびっくりでした。

 

もっとも自分のこんな些細な経験より、霊的に大きな学びをしっかり経験すべきなのでしょう。しかし率直にうれしい出来事でした。

 

一遍上人や妙好人達がひたすら「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ」或いは「なんまんだぶ、なんまんだぶ」と唱えれば、極楽浄土は間違いなしと伝えられていることと同じかもしれません。

 

我々ご先祖は奈良時代から現代まで歴史的に遡り累計にして数千万の人々が、この南無阿弥陀仏の6文字を唱えることでどれだけ救われてきたことか!

 

穢多、非人、娼婦、身売り人、犯罪者等、阿弥陀様の救いの光は、彼らに等しく慈悲をお恵み下されたのです。

 

言霊(ことだま)の持つ偉大な力を、改めて考える時期が今来ていると思います。

 

 

言霊療法において基本的な心の持ち方について大事な教えがあります。

 

生きがい療法

 

がん患者に対して生きがい療法を行っている病院では、がん患者が富士山やモンブランなどに登頂してマスコミでも話題になりました。

 

患者が死ぬ前に是非とも実現させたいとの思いを、周りがサポートして登山を実現させたのです。その生きがい療法の第一に挙げられるのは、自分が自分の主治医となってがんと闘う積極的な前向きの気持ちのことです。

 

自分が自分の主治医となる意味は、自らの自然治癒力を十分に生かすことにあります。すべてを医者や薬任せではなく、自分で自分の病気は治すという明確な意思を持つことです。

 

そのことは今日の今を生きて生きられることへの感謝を、忘れずに生きることではないかと思います。

 

次に今やりたいことを積極的に実行に移すことです。富士山を目指すこともモンブラン登山もその手段・対象です。死ぬ間際になって後悔しても、実行に移すことはできません。

 

病気に負けるな!

 

宗忠教祖の病治しには奇跡的な話が多く登場してきますが、すべて奇跡的に治された訳ではありません。

 

尾形長次郎という後に黒住教の指導者として、活躍された方の話を紹介します。この方は時尾高弟と共に播州姫路方面の布教に、努力された功労者です。若い時分に肺結核に罹り、治る見込みも立たないまでに悪化されました。

 

ある日庭先の床几に腰を掛けて休んでいますと前の道を通る人びとが上中野へ参るといって、病気の治ることなど話をしています。

 

ふと老人が通りかかって「あんたも一緒にいってみないか」と親切にすすめてくれましたので、これもなにかのご神縁と思い重い症状でしたが、初めて御会日に参加されたのです。

 

教祖のお説教を聞いてその場で治る病人の有難い光景を見るにつけ会日ごとに勇気づけられて、まる一年は熱心に参加されました。

 

しかしどうにも病気の方はいっこう回復の目途が立ちません。そのためある御会日の終わるのを待って、沈痛な面持ちで教祖にお別れのご挨拶をされたのです。

 

その別れの挨拶をじっと聞いておられた教祖は、やがておもむろに口を開かれました。「尾形さん!あなたは病気に負けておられはせんですか!」とただ一言はっきり仰せになりました。

 

するとそれを聞いて、尾形さんは「一瞬何かしら雷のようなものが、頭の芯から腹の底まで貫かれたと感じると共に、不思議に心身がきれいさっぱりと清められた感じがした」といいます。

 

それから帰り道に足取りも軽く「そうか、やっぱり病に自分は負けておったんだな!教祖様のお話は頭でわかったつもりでも、

 

本当に分かっていなかったな!」と反省されて気持も新たになりますと病気のことなど忘れてしまいました。すると、次第に病気も治っていきやがて全快されたということです。

 

その後尾形長次郎先生は、お道の為ご指導に長く尽くされた方です。

 

「病気に負けるものか!」という心の強さを持つことを教えられた話です。「病気に負けるものか!」も結局は病気に向かって、ポジティブに生きることに尽きます。

 

 

静寂を楽しむ心

道元禅師坐像

 

 

 

 

 

 

 

⑥ 大いなる奇跡と霊験 死んだ人を生き返らせた話

 

死んだ人が生き返るという話です。「そんな馬鹿なことがあるものか!」と考える方がいるかと思います。しかし古来の記録には結構あります。

 

世の中には常識では考えられない奇跡的出来事は起こるものです。下記3つの例に共通の事は、必死な人の願いや思いは天や神に通じるということです。それが奇跡を引き起こすと考えられます。

 

1.  白隠禅師の延命十句観音経霊験記

 

「延命十句観音経霊験記」には、死んだ人の生き返りの13例が書かれています。

 

この本を熟読していた時期がありましたが、その中で気付いた事は生き返りの例はすべて若い男女です。年寄りの生き返りは一例もありません。

 

息を引き取った人の枕元で修行僧や周りの縁者が、この十句経だけを精魂込めて一心不乱に唱えて生き返らせるのですから、驚嘆すべき出来事です。

 

当時の人々の信仰の厚さがなければ到底不可能な事です。真剣に必死に唱えれば息を吹き返すということを、固く信じていなければ出来ません。尤も数人で一体になって唱えていますので、集中力が倍増していると考えられます。

 

共に唱える人の中には簡単な延命10句経も知らない人もいますが、唱えている内覚えて懸命にやっている様子も書いてあります。生き返った人が話すあの世の様子も様々詳しく述べてありますが、当時の時代を反映しており面白いです。

 

そしてこの霊験記は、臨済宗の名僧ナンバーワンの白隠禅師の書かれた本ですべて事実です。

 

すべて事実ですと断言しましたが、断言しなければならないほどこのような奇跡を信じることが現在希薄になって、目に見えるものだけが信頼できるものになっています。

 

理論的に説明のつかない出来事は然るべき証拠がなければ信じるに値しない、怪しいものと見なされます。最先端の学者が、この霊験記を読んで果たして受け入れるでしょうか。

 

全く人を迷わせる偽物と決めつける筈です。理由はエビデンスがない、科学的でない等々。

 

読者の皆様はいかがでしょうか? これを真実だからと押付ける考えは毛頭ありませんが、物質主義の現代には一考すべき価値はあります。

 

只今息を引き取った人の傍らで、観音経を唱え出したら医者も家族も止めてくれと即座に止めに入るでしょう。

 

実証できる、目に見えるものだけが真実な世界ではなく、この世には目に見えない精神世界のあることの大事さが求められています。今この激動期は科学万能主義の終焉と限界を迎えているような気がしてならないのです。

 

巷で言われている2極化とは見えない世界、輪廻転生、死後の世界、宇宙人を信じる グループ或いは それらを科学的でない、迷信であると考えるグループのことを指しているのかもしれません。

 

十句観音経霊験記の解説者 曹洞宗の名僧原田祖岳老師は、以下の短いお経の第一句に対し

 

 「観世音(かんぜおん)を大声で観世音と唱えよ!道理は分かっても、分からなくてもよい!ただ観世音(かんぜおん)と唱えるのみ!」ときっぱり言明しておられます。

 

「無心で唱えれば、必ず限りなき霊験を感得すること夢疑うことなし!」と仰せられました。霊験とは何かを考える切っ掛けにして頂ければ幸いです。

 

2. 三度も生き返った話 黒住宗忠教祖の霊験

 

今回取り上げる宗忠教祖の例は,白隠禅師の書かれた霊験記よりまだスケールが一段と大きい話です。

 

福田主(ぬし)は重き病に臥し給うこと年々にして、すでに3度まで身まからんとなし給う。我 天津神、国津神を深く祈り奉りければ、不思議に快くなり給う。ありがたさのあまり、かくはべりぬ。

 

三度(みたび)まで生き返る人は、また唐天竺とわが朝(ちょう)になし」と歌われました。

 

この福田丑之助(ふくだ うしのすけ)という岡山藩士は3度も死亡され、3回も生き返えられました。4度目の瀕死の時にも、教祖がゆっくり息を吹きかけて「お取り次ぎ(黒住教独特の言葉)」をおこなうとまたも息をふきかえし、そのまま快方に向かい健康になったということです。

 

確かに3度も死んで3回も生き返った例は、歴史上何処にも見当たりませんので空前絶後の稀有な例です。

 

宗忠教祖の為された生き返りの例は他にもあります。教祖は奇跡はなにも特別なことではなく、信じれば必ず起きる事だと教えられています。

 

この方の不思議な霊験は無数と言っていい程伝えられています。「教祖様の御逸話」という本に書いてあります。

 

3. 滝沢 白竜著「古神道霊験秘話」より 死んだ赤子を神法により甦らせた医者の話 

 

この話は、死んだ赤ちゃんを生き返らせた話です。この医者の名前は、大島という方で医師として長崎の保健所に勤務しておられました。

 

ある日曜日の朝、若い奥さんが赤子を抱いて診察室に駆け込んできました。診察してみるともう危篤状態で助かる望みがない状態でした。

 

すぐに応急手当をしましたが、その赤ちゃんは残念ながらこと切れてしまったのです。

 

仕方なく「お気の毒です」とお悔やみを言って引き揚げようと廊下を歩いていると、その奥さんが「助けてください!助けてください!」と泣きながら大島さんに抱きついてきたそうです。

 

大島さんもやるだけやって手を尽くしたので、方法はありませんでした。しかしお気の毒な奥さんを其のままにできず、戻って死んだ赤ちゃんの脇に立ち腕を組み沈黙していました。

 

すると自分の腕がわなわなと震えだし、死んでいる赤子の腹上に伸び、すらすらとある霊譜(神文字、印)を書いていたそうです。

 

今までにこのような霊譜の伝授を受けたこともないのに、まったく無意識に書いていたそうです。

 

しばらくしてなんとその子の顔に赤みがさしてきました。結局その赤子は助かり、奥さんはわんわん泣きながら赤子を抱いて帰っていったそうです。

 

大島医者は以前から古神道に関心をお持ちの方でした。このように信じられない話ですが、現実に起こり得ることです。

 

人の魂は不可思議です。従来の科学一辺倒の物質的な思考方法から抜け出し、信じ切ることの大事さが奇跡を呼ぶと考えられます。

 

hinomoto(小生)自身の生き返った話 

 

私は終戦直後に宮崎県小林市で生まれました。生まれて間もなく100日咳にかかり、呼吸が止まってしまい唇が青くなって、いわゆる仮死状態になったそうです。

 

私の母はグッタリした赤ん坊を抱え、裸足で飛び出し近所の医者まで連れて行ったそうです。母は神に祈りながら無我夢中だったと思います。

 

溺愛していた5歳の長男を戦時中に上海で亡くしてしばらくしてから私が生まれましたので、気も狂わんばかりに生き返らせようと天に祈ったと想像します。

 

当時敗戦直後ですから薬も食べ物も何もない時代でした。お年寄りや赤ん坊は病気になったらそのまま死んでしまう時代でもありました。

 

実際近所でも毎日みたいに人が病気、事故で死んでいったそうです。GHQが「日本人は1000万人が餓死するだろう」と宣言した頃です。

 

そして母が医者の門をくぐり戸を開けた時に、不思議にも呼吸が始まり顔に赤みがさして生き返ったと私によく話していました。

 

母の命日になったらこの話を思い出し、自分は生かされた命を頂いて今生きているんだなとつくづく有難く感謝しています。これ以外に今までに危うく命が助かった経験は数回あり、守護霊のご加護を感謝しております。

 

多くの人の支えや天からの恵みが無ければ、ここまで生かされなかったのです。生きていることが奇跡でもあります。

 

 

静寂を楽しむ心

道元禅師坐像

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 幻の名作 道元禅師坐像

 

      高岡銅器 田畑 功氏の幻の名作 道元禅師坐像

 

この坐像は約30年前に神奈川県の総持寺の専門僧のアドバイスを頂きながら制作しました。

 

特徴は坐禅の最も澄んだ高い境地の顔の表情にあります。真に深い禅定中になると口元が「へっつい口」(への字型)になるそうです。

 

その表情をブロンズにしました。高僧より「完璧な坐相である」と称賛されたこともあります。この作品は未公開作品の1体のみです。

 

今はせめて1体でも世に出して、認めてもらいという親心みたいな心情です。制作数は資金の関係上少数でしたが、すべて総持寺に寄贈しました。

 

お寺の方には高名な彫刻家 田畑 功氏の作品ということで、大変喜んでもらいました。お礼として賞状と立派な輪島塗のお盆を頂きました。お盆は今も使用せず大事に保管してあります。

 

後に知りましたが田畑氏の作品が大本山総持寺に既に設置してあり、何かのご縁を感じます。*蛍山禅師の像 6尺 / 大本山総持寺  大型のブロンズ像。

 

「坐禅の神様」と言われる道元禅師をモデルとして制作しましたが、道元禅師を売り物にすることに当時批判があり販売を諦めた経緯があります。

 

木箱のタイトルを急きょ「雲水」に変えましたが、今考えると初志を貫くべきであり30年前の苦い経験となりました。

 

この老年になると何故世間体を気にして中途で終えたのか、残り粕のような未練が今もブスブス燃え残っています。そこでこの思いを消し去ってから、あちらの世界へさっぱりと旅立しようとの決意です。

 

思い切って販売して世の中にこの坐像をお渡ししたい。勿論販売して「やっと世に認められた」という思いがあります。たとえ1体であっても満足です。

 

若かりし頃の禅への思い出

 

若かりし頃坐禅に憧れ禅を懸命に学んでいた時期に坐像制作を思いつき依頼しました。しかし坐像制作を批判され、禅すら商売道具にしている禅徒がいると批判の込められた本を今も持っています。まさしくそれは自分のことです。

 

単なる坐禅への憧れに財産を費やした無謀さは責められますが、あの時実行しなかったらこの老年になるまで後悔の念が残ったでしょう。失敗しても実行に移しただけでも良かったと思っています。

 

今世界は大きな曲がり角にきており、政治情勢、金融危機、気候大変動等揺すぶられ、煽られ、不安の気持ちで皆生きています。手探り状態で右顧左眄し何か求めながら暮らしています。

 

このような時期にはしっかり地に自分軸を立てどっしり生きることが求められています。自己への見直しが必須であるからこそ、静かに坐って悠然と静寂を楽しむ時間も必要になります。

 

「床の間においているだけで辺りに静寂さが生まれてくる坐像ですね!」とお褒めのコメントをあるご住職から当時もらったこともあります。お世辞だったかもしれませんが、懐かしく昔の事を思い出します。

 

ああ!世に役につ坐像だったのに!と少し悔やまれます。又永遠の光を放つ坐像を制作したんだなと誇らしくも感ぜられます。

 

圧倒的に読者も少ないこのブログで高価なブロンズを販売企画するのですから、ある意味では勇気の要る挑戦でもありますが、制作当時の純粋な思いは天に通じて巡り巡って誰かの手に渡ると信じています。

 

 

作品内容

① 高さ19㎝×幅14㎝×奥行12㎝ 重量3.4kg 収納箱付 

(ブロンズの後部と収納箱の裏に「功」のサインあり) 背景の木札と小屏風も含む

② 価格220,000円 一括払い 送料込み   

③ 販売数 1体(この1体のみが販売対象となります)

④ お申し込みはこの上部の「お問い合わせ蘭」よりお願いたします。お問い合わせの「内容蘭」に購入希望とお書き願います。氏名・メールアドレス・題名蘭もお書き入れ願います。

 

ご購入希望の方に郵貯の口座番号をご連絡して、入金確認後に速やかにお送りいたします。到着後7日以内は返品可です。

尚「購入する前に一度手にして見て観たい」という仮購入の方もその旨ご記入下さい。送料当方負担でお送りします。

 

2/2 高岡銅器 田畑 功 作 言霊ブロンズと坐像のご紹介 Guide to kotodam bronze

 

見事な坐相で永遠の静寂に包まれます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

⑤大いなる奇跡と霊験  黒住宗忠教祖の大瀕死からの回復

黒住宗忠教祖の肖像画は多数ありますが、この教祖画が最も知られています。生前のお姿をよく表現されているのではないかと思われます。

 

冬至日のお生まれと天命直受の日 

 

黒住宗忠教祖は1780年(安永9年)の冬至、日の出時刻にお生まれになりました。

 

安永9年の子(ね)の年、子(ね)の月、子(ね)の日に当たります。後の天命直受の日も文化11年11月11日の冬至の日でした。1が連続6つあり冬至の日です。これだけでも人知では考えられない稀有な出来事です。

 

宗忠教祖ほど冬至にご縁のある方はおられません。後年の2021年の冬至の日もご遷化200年にあたり、まさしくグレート・コンジャクションの日にあたります。この日は占星学的に人類の意識の大変化日とも言われています。

 

宗忠教祖は若い時より真の道に深く関心があり、「生きながら神になる」ことを真剣に目指されていました。

 

 生きながら神を目指す

 

宗忠教祖のお人柄、求道の一途さが垣間見られる面白い逸話があります。

 

同じ神職仲間で湯浅薩摩という方とお友達とある宿に同宿されました。その時に湯浅氏が教祖に向かい「あなたが奉仕されている今村宮の御祭神は何神様ですか?」と質問されました。

 

それまで会話されていた教祖は、その時は何も返事されませんでした。湯浅氏が繰り返し尋ねられましたら教祖はそのままゆっくり立ち上がられ、寝巻きから着物、袴に着替え口をそそぎ、まっすぐに正座され、

 

「私の奉仕する今村宮の御祭神は天照大御神、春日の大神、八幡の大神の御三神であります」と丁寧にお答えになったということです。

 

湯浅氏は神様に対する教祖の人並ならぬ思いに大いに驚き又感心されました。「生きながら神を目指す」この気概の面目躍如たるものがあります。

 

そのために20歳の頃「心に悪しきことと知りながら、身に行うことのなきようにせば、神となるべし」と悟られ、忠実に実行されたと言われています。

 

 両親との死別 

 

 

元々大事に育てられ、池田藩の中でも評判の親孝行息子でした。藩から親孝行を表彰されたほどですから、心から両親に尽くされていたのです。

 

当時はやり病(赤痢)がその地方に大流行して、その大切なご両親を懸命の介抱にかかわらず一度に亡くされたのです。

 

その悲しみは到底尋常の悲しさではなく、お墓に行ってなかなか帰ってこられないので様子を見に行くと、教祖が気絶して倒れておられるほどでした。

 

極度の悲嘆から病気になり、労咳という昔は最も恐れられた病に罹(かか)られたのです。

 

そして病は進み医者に診てもらっても、到底助からない状態だったそうです。いよいよ臨終近くなりました。

 

もう最後の死ぬ直前にお日様を拝みたいと願われ、布団の中で両手を合わされ目を閉じられました。

 

まさに息を引き取るその時に「両親はこのまま死ぬと悲しむだろう。自分は生きながら神を目指したが、果たせずに残念だ!」と思われたそうです。

 

そして大変親不幸な死に方を目前にして「申し訳ない、せめて一息、二息でも生きよう!」とお日様に向かい息をされ、息に命が込められていきました。一息そして二息と呼吸を続けられました。

 

ご生還の歌

 

有り難き事のみ思え 人はただ

     今日の尊き 今のこころ

 

それから息が続いて出来るようになり、すこしづつ命を取り戻されていきました。

 

恐らく「 一息できたぞ! 次の息もできるぞ!」と確かめながら息をされていったものと想像されます。

 

生きられる有難さを回復まで一瞬の休みもなく、教祖は続けられたのでしょう。そして2か月後に不治の病から奇跡の回復を遂げられました。医者もさじを投げていた最悪の状態から見事に立ち直られました。

 

死ぬ直前になると極端に体力が落ちて来て、体温計も持てない位に弱るそうです。又病院のドアも開けられない位に体力が落ちてくると、もうダメだなと人は諦めるそうです。

 

恐らく教祖もそこまでなられたと思いますが、そこから一息一息有難い心が大きくなって回復されていったと拝察します。

 

2か月後お風呂に入りたいと言われるまで回復し、入浴後には労咳の病も消えてなくなりました。この日を「第二次の御日拝」と呼んでいます。心の大転換による奇跡が起こり、その日に教祖は床上げされました。

 

それから今村宮へゆっくり歩いて生き返られたお礼に向かわれましたが、途中に出会った村人達は教祖のお姿を拝し「黒住の旦那様のゆうれいが出た」と言って驚いたそうです。その時はもう生きられないという噂が村中に広がっていました。

 

このことを「難有り、有り難し」(自分の大/小難が、いずれ有難いことに変わる)といつも言われておられました。

 

魂の叫び歌

 

この歌は生きていることの有難さが味わえば味わうほど、深く心にしみ入ってくる歌です。それは教祖が死と直面され、息が絶える間際の魂の叫び歌だからです。

 

小生も病床の時はこの歌を短冊に墨で書いて壁に貼り、朝晩ご陽気修行と共にこの歌を唱えておりました。どれだけ元気づけられ助かったか 本当に感謝しています。

 

治る!治る!と繰り返し、念を込めながら一途に祈り込み、毎日ご陽気を下腹で吸えば必ず治ります。

 

病気でお苦しみの方は朝日に向かい深呼吸を繰り返し、この歌を感謝をもって毎朝唱え続けていくことが大事です。絶対快方に向かいます。

 

本当に治るのかどうか疑っては効果はありません。宗忠教祖は疑って行動しては、全く成果が出てこないと強調されています。心理学的にこのことを逆勢の法則と言います。

 

だから「自分の病は絶対治るんだ!」と確信してください。これについては教祖の教えの大事なポイントになります。絶対の信が条件です。

 

絶望の際(きわ)にいる時、生きる希望を失った時

 

もしこのブログをお読みの方で「絶望の際(きわ)におられる時、助けを求めても誰も助けてくれない時、死にたいと思われた時」是非この歌を何回も口に唱えて頂きたいと思います。

 

唱えれば唱えるほど、生きる力が腹の底から湧いてくるすばらしい歌です。魂を輝かせる希望が自然に生まれてきます。生きることの有難さが実感として溢れてきます。

 

死神に取り付かれてはなりません!圧倒的なご陽気の歌で積もり積もった陰気、邪気を払うことができます!

 

宗忠教祖の超人的霊力と人間性

 

* 教祖は一般の人が一日かかる程の距離を1~2時間で歩かれた話

 

* 腐りかけの酒造り中の酒、枯れかかった竹、木、植物をご神水で蘇生させた話

 

* 暗闇でも道、本が見える等数え切れないほどの奇跡を現わされました。

 

他に難病からの回復、死人を生き返らせた話など霊的奇跡話は無数にあります。教祖は一人の肉体を持った聖人というより、天照大御神の化身とも言うべき人類の大導師です。

 

宗忠教祖はイエス・キリストの生まれ変わりではないかと山田雅晴氏は述べておられます。確かにキリストの磔の死の年に天命直受の悟りを開かれ、第二の命を生きられたのです。

 

そしてキリストに伝わる奇跡はすべて実際に、衆目のなかで行われています。土肥家の掃き清められた柔らかい長い道を草鞋の跡が全くなく、いつもお歩きになった話もあります。(池田藩家老 土肥家の玄関門へのお話)

 

教書では集会ごとに多数奇跡が起きたことを述べておられます。詳しくは「教祖様の御逸話」に記載されています。(115の逸話。上記黒住教学院発行 )

 

尚教祖以外の高弟達多くのお道づれの方は、今も昔もさまざまな奇跡を現わされています。そして多数の人々を病、災難、事故等から救っておられます。

 

黒住教では奇跡的に病が治る、運命が好転する、商売が繁盛することなどを「おかげ」という独自の言葉を使っています。この教えを実行すれば、実に多くのおかげが受けられることが実際に起こります。

 

小生が教祖の教えに非常に惹かれるのもここにあります。徹底した明るい、前向きな人生態度や嘘、ごまかしの一切ない生き方が求められます。

 

 

又宗忠教祖に特筆すべきはお人柄のよさにあります。過去聖人はたくさんおられましたが、この方ほど純粋で柔らかく優しい方はおられません。

 

唯一の欠点は他人より借金を頼まれ、随分多く踏み倒されたご経験がおありですので情に厚過ぎることです。そのため弟子達が借金依頼には一切手を貸さないように固く禁じられていたということです。

 

もともとは池田藩の由緒あるお侍ですが、それにふさわしい凛とした男性的な面もお持ちでした。多くの武芸者が武道の究極の教えを聞きに訪れています。

 

* 最後に小生は宗忠教祖をお慕いしておりますが、入会への案内意図は全くありませんので誤解なきようお願いいたします。

 

言霊ブロンズの販売

2/2 高岡銅器 田畑 功 作 言霊ブロンズと坐像のご紹介 

 

 

④大いなる奇跡と霊験 未来の霊的治療法 時尾宗道高弟の骨髄炎が治る

 

 

 目に見えない力

 

本ブログはテーマである「言霊と太陽の恵み」を主として取り上げています。

 

心の働きは目に見えないだけに、科学の証明とは相反するテーマになります。

 

魂の開発、精神作用、心の問題、すべてひと昔前までは何か分からない得体のしれない扱いでしたが、今後は目に見えない力が本当の世界であり、一方物質的な3次元の世界は補助的扱いになるのではないかと考えています。

 

これからご案内の時尾宗道高弟は宗忠教祖の下で赤木高弟と双璧といわれた方です。幼い頃より神童といわれ才能豊かな方で有名でしたが、赤木高弟と同じく難病を抱えておられて骨髄炎でした。

 

 

難病「かくしっぽう」にかかる 

 

 

28歳の時腕がしびれ筆を持つことすらできなくなり、親指ほどの穴から血膿が流れるまでになりました。当時「かくしっぽう」と呼ばれた病気で、現在の病名は重度の脊椎カリエスです。

 

時尾高弟は教祖から以前教えを聞いておられてましたが、心の弱さや いまいち信が確固たるものでなかったため本来の活きた力が発揮されていませんでした。

 

恐らく天は宗道高弟に容赦のない試練を与えられたのだと思います。

 

時尾高弟は「自分は天照大御神の大道を教祖より、教えていただいて道を自分なりに勤めてきた。それにもかかわらず、このような不治の病にかかり治らず悪くなるばかりだ!」

 

と暗澹たる気持ちで、病床に伏せておられました。

 

普段から時尾高弟をお世話していた大庄屋の中山常次郎は

 

「 克太郎(時尾高弟)元気を出せ! 教祖様も『 すべて天命である。難が幸いにもなる!』 と仰せられている!

 

お前に教祖様は 『 何事も天のなすのと思いなば 苦にも世話にもならぬものなり』とこのようなお歌をくださった!」

 

と病床で慰めました。

 

世話にもならぬとは煩わしいこともないという意味です。天命と知っても、自分に降りかかった病気は難病だけにそんな天命はとても有難く受け入れがたかったのです。” こんなに死ぬほど苦しいのに何が天命だ!” と密かに思われたことでしょう!

 

全身激痛で歩くのも苦しんでいたからです。妻の千代の介抱がなければ生きてはおれなかったでしょう。しかしそんな難病(骨髄炎)が治ったのです。

 難病治る!

 

読者の皆様想像してほしい! 

 

これほどの難病を抱えた病人が最新の現代医学をもってしても治療が困難なのに、わずかな時間で治るものなのか!

 

赤木高弟は青そこい(緑内障)で見えなかった視力が瞬時に回復しました。宗忠教祖は無数と言えるほどの当時の悩める人びとを救っておられます。

 

現代でも多くの人びとが病気だけでなく、もろもろの事故、災難、災害等から「お取り次ぎ」により守られ、命が助かっています。

 

見えない力が働いていなければとてもできないことです。即ち神のお力であり、自己の持つ生命力です。

 

さて宗道高弟は常次郎の家の集まりに重症の身ながら、教祖とお会いすることができました。

 

そこで教祖は「時尾さん、講座で話をしなさい」と命じられました。

 

高弟は言われる通り、生まれて初めて講座へ上がり無我夢中で我を忘れて何かを語ったのです。もはや時間空間を超越した心境で無心で皆に話されました。知識ではなく素直に魂のままに!

 

続いて教祖が講座に上がられ、いきものに溢れた天言がびりびりと障子を鳴らし、集会全体が有難い感謝の念に満ち溢れていました。

 

すべての陰気は完全に払しょくされて、全体が神気に満たされました。集会の皆は口々に「有難い、有難い」と自然に唱えていました。

 

お説教が終わり教祖が拍手を打ち、時尾高弟も皆と合わせて力強く拍手を打ちました。

 

つい先ほどまでは腕が痛く拍手も打てなかったのに、力強く打てたのです。流れていたウミがいつのまにか乾いて、完全に治っていました。あれほど痛かった痛みも全く消えています。

 

いつの間にか治っていたことに対して、時尾高弟は「 先生、治りました!治りました!痛みもありません!」と感激で泣きながら、高弟は教祖にひれ伏して感謝されました。

 

かくしっぽうは跡形もなく治癒していました。一座の皆も驚くべき奇跡を目の当たりにして驚嘆して共に喜び合い、大きなどよめきが一座に溢れたと言います。

 

後に時尾高弟は

 

大明神(宗忠教祖)なかりせば、われは只病に身を終わる一患なり、

 

                今は一観者なり、道に遊ぶ 

 

と述懐されました。

 

この奇跡を考え検証しよう

 

この奇跡をじっくり各自が自分のお考えで、検証していただきたいと思います。 

 

医者から見放された業病にも一点の光が差し込むのではないか!

 

薬ではなかなか治らない難病、ワク○○後遺症も希望が見えるのではないか! 

 

本ブログの目的はいろいろ治る方法を模索している人に対し、太陽の恵みを参考にしていただくことにあります。

 

嘘か本当か、自分なりに独自に工夫して努力して検証していただくことにあります。「求めよさらば開かれん」の世界です。

 

最も教祖は「この道は、病治しの道にあらず。心直しの道である」また「病は道の入り口」と教えておられます。道はまだまだ深奥です。

 

そしてとかくこのような奇跡、おかげをいただいても時間が経つと、その有難さを忘れがちになるものです。決してその有難さを忘れてはなりません。

 

自分の体験

 

小生(hinomoto)も突然訪れた2020年初の健康不調は、今まで健康だっただけに本当に治るのかとても不安でした。自ら「爺さんスプリンター」と自惚れるほど俊足、健脚だったのに一時は足元もふらついていました。

 

しかし2020年4月太陽の神人・宗忠教祖の本と出会い、コロナ下で必死に本を頼りに一日も欠かさず朝昼の日拝修行によって健康になっていきました。日の出の素晴らしさを知ったのはそれからです。

 

ある人から「あなたは病気することにより目覚めのチャンスを天が授けてくださったのよ!」と言われて、「全くその通り!」と今は納得しています。教祖の「難有り、有難し」の典型例でしょう。

 

 

宗忠教祖について 

 

バシャール、並木良和さん、国内・海外の多くのスピリチュアルなインフルエンサー達がこぞって主張する「ワクワク感の重要性」を教祖は幕末に嬉しい面白い、楽しいという言葉で絶えず説いておられました。

 

教書を見れば、面白く(ワクワク)の表現のオンパレードです。幕末にはワクワクという言葉は、一般に使われておりません。面白く、楽しくという言葉を、宗教で使用された最初の聖人です。

 

今世紀の大変動時代を的確に見据えた偉大な神人宗忠教祖は、天照大御神の化身ではあるまいかと思えるほどです。

 

必ず治る④ 日拝治療法(2)

 

 

 

言霊ブロンズの販売

1/2 剣士像・言霊ブロンズのご案内・願望達成の最も近道!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

③ 大いなる奇跡と霊験 未来の霊的治療法 岡田 敏子

 

 

 

岡田 敏子さんは黒住教東京大教会の初代設立者です。昭和6年 78歳で永眠されました。 彼女は28歳の時に、幕末の志士の夫と死に別れ幼い2児を抱えて生活していました。

 

生活に心身疲れ果てていたことが原因になったのでしょうか。不幸にも眼病にかかり手を尽くしても治らずとうとう盲目になってしまわれました。

 

 絶望のあげくこれから長い間人の世話になって生きるより、二人の子供と一緒にいっそ死んでしまおうと思われたのです。

 

婆やの登場

 

そしてご霊前に暫時お別れのお祈りをされてから泣いている兄の方を引き寄せて、いざ一突きと動かれたその刹那でした!

 

子供の泣き声を聞きつけた婆やが現れて

 

「まあ暫くお待ちください。 あなた様の御目さえ治れば、よろしいのでしょう。 近頃黒住様といって、有難いお話をなさる先生がいらっしゃいます。

 

どんな難病でも治るという噂です。死ぬほどの御覚悟ならどうか一週間の寿命をこの婆やにお預けください!」

 

と死ぬのを止めるように、一生懸命説得されたのです。

 

「分かりました。それでは1週間だけ思い止まります。後は決して止めないでください。」と仰って、婆やのすすめるその先生のお話をお聞きになりました。

 

 

            見えた!   見えた!   見えるようになった!

 

 

始めはさほど関心も湧かず、一向にお話しが耳にも入らず、早く1週間が終わればいいのにとその時は思われたそうです。

 

それが3日も経ちますと、ふと先生のお話が耳に入りどうにも行き詰まっていた気持ちに一筋の光が差し込みました。

 

「神様の御徳は本当にこの世にあるのではないか? 自分は考え違いをしていたのではなかろうか?」と気持ちが少し変わりました。

 

4日目からはお話が待ち遠しくなり、一言も聞き漏らすまいと熱心にお聞きになり5日目からは、今まで以上に心から有難く染み入るように感じられるまでになりました。

 

そして6日目の朝起床後障子からうっすらと日の影が漏れるのが見えて、思わず「婆や、もう夜が明けたのでしょうか?」と声をかけられました。

 

隣にいた婆やは

 

「夜が明けるのがお分かりになりましたか!お目が見えるようになりましたか!」と駆け寄り泣きながら抱きつかれました。

 

その時の岡田さんは

 

本当に目が見えるようになったのか! 夢ではあるまいか、神の御徳で見えるようになった!

 

と泣くほど感激され、その嬉しい気持ちは到底筆舌に尽くしがたいものであったと仰っておられます。

 

早速身を清めて、黒住教会に駆け付け神様にお礼を丁寧に申し上げられ「今後一生をかけてこの道のために捧げます」と固く誓われたそうです。

 

それから大車輪の如き長い半世紀の活躍の幕が切って落とされました !

 

 岡田さんの次男が満州の戦いで敵弾の破片2~3片が頭部に刺さったそうです。後頭部にあたりましたが、脳摸の最も危険な寸前で破片が止まっていたそうです。危うい所で即死を免れました。

 

「薄紙一枚で助かるとは奇跡そのもの」と軍医が言っていたといいます。これも偶然の幸運ではなく、母の無事を祈る一途な祈りのお蔭であると書かれています。

 

お亡くなる直前まで重病人の夫婦のためにお祈りされて、そのお祈りのおかげで重病の夫婦は回復されました。最後の言葉は「有難う、有難う、有難う」の3回の感謝の言葉でした。

 

 

東郷元帥の日本海海戦

 

 

興味深い話として、日露戦争の日本海海戦時に「皇国の荒廃この一戦にあり!」と全艦隊に号令した東郷元帥が、日本の運命に関わる大戦を前にして黒住教の東京教会に来られたのも、岡田敏子さんの時でした。

 

元帥の母親が熱心な黒住教の信者だったご縁から来られました。ロシアとの決戦に向けての心構えを尋ねた東郷司令長官に授かれた歌は

 

身も我も心もすてて

         たったひとつの誠ばかりに 

 

という宗忠教祖の歌でした。長官は海戦時旗艦三笠艦上にて、この歌を海戦中終始一心に唱えながら戦ったそうです。長官は身を捨てて指揮を執り、その結果敵のバルチック艦隊に対して史上稀に見る大勝利を収めました。

 

まさに神懸かりの空前の大勝利に寄与したのも天照大御神の御神徳ではなかったかと思われます。後に長官はお礼として黒住教に自筆の額を送られ、今も飾ってあります。

 

日本は天照大御神のご加護がある国なのです。そして我々個人も天照大御神を深く信じれば必ず守られます。

 

 

天照大御神!お願いだから助けてください!

 

小生の最も好きな言葉で岡田さんの「神の御徳は目にも見えず手にも取れないけれど、御すがりさえしていれば必ずお蔭が頂けるものです。神は外にあるのではなく自分の心が即ち神なのです。」という珠玉の言霊があります。

 

苦しい時、悔しい時、どうにもやるせない時、希望が見えない時これを何回も口ずさんでどれだけ助かったか、ホッとする癒しのやさしいお言葉です。自分を優しく包み込んでくれます。

 

大御神に御すがりすれば安心感が湧いてきて落ち着いてきます。尤も禅では「すがる」という言葉は絶対タブーでしたが、大いなる神は時には折れそうな弱い自分を助けて下さるのです。自分の中の神ですから。

 

必ず治る④ 日拝治療法(2)

 

 

言霊ブロンズ

1/2 剣士像・言霊ブロンズのご案内・願望達成の最も近道!

 

 

② 大いなる奇跡と霊験 未来の霊的治療法 奥村円左衛門の開眼

 

            3年間一度も欠かさず熱心に拝聴

 

奥村円左衛氏は宗忠様のお説教を毎月6回 3年間(計200回以上)盲目を治そうと、一度も欠かさず熱心に拝聴された方ですが、

 

結局自らの盲目は治らず宗忠様に最後のお別れのご挨拶をされて諦めようと決意されました。

 

「わたしは業が深いため、先生のおかげ(奇跡)をいただきませんでした。先生からじきじきの(おとりつぎ)を数多くいただきながらもわたしの目は開きません。

 

今日を限りにお参りを差し控えたいと存じます。」と沈痛な面持ちで思いを述べられました。

 

黙って聞いておられた宗忠様は「なんと広大なおかげを頂かれたものですな!有難い!」とパチパチと拍手をお打ちになって仰せになりました。

 

その盲人はあわてて「いや、おかげがなかったと申すのでございます」その言葉を抑えて宗忠様は、

 

「何を言われる!よく考えてごらんなさい。月6回の御会日を丸3年欠かさず参られた。その間ただの一回も病気なされず、無病息災で元気で参られた。家族や親類、近所のだれか病気してもまた何かあっても参れません。

 

それがなにひとつなく参られた! まことに広大な「おかげ」ではありませんか !  実にありがたいおかげを受けられたものだ!」と言ってまた拍手をお打ちになりました。

 

              なんと目が見えるようになった!

 

じっと黙って聞いていたその盲人は宗忠様の拍手とお言葉に「先生 間違っておりました!有難うございます!有難うございます。」とただありがたい感激が沸いてきて、何もかも忘れて玄関に飛び出しました。

 

そして感動の気持ちのまま杖を突くのも忘れて歩いていましたが、涼しい川風が顔に吹くのを感じて「川に近いらしい、ここはどこだろう?」とふと周りを見る気になったその時、たくさんの船の光景が両眼に現れ見えてきました。

 

「おお なんと目が明いた!見えるようになった!信じられないことだ!」と今までに経験もしたことのない大歓喜をその時始めて体験されました。

 

心の目が開いた結果、肉眼が見えるようになったという逸話です。なおこの話の主人公は岡山藩士 奥村円左衛門氏であると伝えられております。

 

           どうして目が見えるようになったのか考えよう!

 

円左衛門氏の目がどうして見えるようになったのかについて、あくまで個人的な見解であることをご承知おき願います。

 

まず3年間も休まず教祖の集会に参加する神への一途な誠の奉仕が挙げられます。そのおかげは本人のみならず周囲の人達にも及んでおります。

 

そしてその広大なおかげに気付かされ、感謝の思いが深く大きく湧いてきたその刹那に目が見えるという有難いおかげが生じました。

 

普段からの神への感謝の念がいかに大事であるのか考えさせられます。神へは誠のみが伝わるということです。ご神徳が如何に広大で深いかということに真に気付けば、本人の抱える病気は治るのではないか。

 

「一途な個人の祈りは天に通じて、ご神徳が得られ必要なものは与えられる」ということです。これから近代的医療に加えて日拝治療法(自然免疫力アップ法)が大いに活用される時代が来ると思います。

 

 

 

言霊ブロンズ

1/2 剣士像・言霊ブロンズのご案内・願望達成の最も近道!

 

 

 

 

 

① 大いなる奇跡と霊験 未來の霊的治療法 赤木忠春

 

 

「宗忠教祖の病説法」は病気治しの最も基本的考えです。 これをご理解の上、下記霊験をお読み頂ければ一層理解がすすみます。

必ず治る(14) 宗忠教祖の病説法

 

人の身体は病気に罹っても「医者と薬」だけに頼っていてはなかなか治りません。 今までの3次元だけの固定的治療法から新たな治療法を紹介していきます。

 

又吉野先生が主張しているように体に良くない小麦、植物性油、乳製品、甘いものを取らないことです。

 

未来の地球社会はますますこのような画期的で、霊的治療法又は波動治療法を研究し取り入れると考えます。 数千年間の物質世界から軽やかな精神世界へ移行していきます。

 

現代医学ではとても考えられない難病が治ることが奇跡として起きています。

 

「医者と薬」だけが唯一の治療世界から見ると、恐らく嘘に近い話かも知れません。 しかし今後注目される治療方法になる可能性を秘めています。

 

勿論近代医学を否定することではありません。 人は霊的存在であることの自覚が絶対必要です。

 

 

 赤木忠春高弟の目が見える!

 

どうして盲目が治ったのか考えよう。 このような驚くような奇跡を我々も体験したいものです。

 

赤木忠春と言えば黒住門徒の中でも、宗忠教祖が最も信頼された高弟のお一人です。現代でも難病であり治すのはほぼ不可能と言われる緑内障が即座に見えるようになった奇跡の話です。8年間の長い盲目期間でした。

 

この苦しい現状を打破されたのは、高弟の叔父が宗忠教祖の病気治しのお話をされ「一度教祖にお会いなされてみては!」と行くのを渋る高弟を宗忠教祖に逢いに行くように強く薦められました。

 

奇跡そのものを否定し、自分の失明がそう簡単に治るわけがない。治るなんていうのは怪しげな宗教の勧誘であると、知識人特有の猜疑心から思い込んでおられました。

 

「叔父さん、せっかくですが私の8年間の失明は、医術の力ではどうすることもできません。田舎の神主さんのおまじないで簡単に治るものでもありません」と何回も断りました。

 

なぜなら赤木高弟はかなりの仏教、易、儒教の本を読破した当時の最高のインテリだったのです。知識があるが故に理屈が先に立って奇跡で病が治る話をデマの類と見なしていました。

 

余りにも高弟が断るので、最後は叔父はカンカンに怒って縁切り話まで持ち出したということです。そこまでされては仕方がないので、とりあえず話を聞こうかと渋々一緒に集会場に行かれました。

 

高弟は集会場で宗忠教祖のお話をお聞きになり、次第に教祖の筏仙人の話に引き込まれ激しく心を打たれました。

 

何と8年間の盲目が見えるようになった!

 

そして大感激のあまり「この尊いお方はどのような方か!」と宗忠教祖の方を振り返られると、なんと今まで見えなかったお姿がはっきり見えてきて長年の失明がその場で回復されました。

 

「おお不思議だ! 目が見える、見えるようになった!8年間の盲目が見えるようになるとは!」と感激のあまりその場で大泣きされ、周囲の人もその様子を見て大感激されたそうです。

 

後に赤木高弟はこの奇跡的なご経験をいつも涙ながらに話され、一座の皆に自分の感激(おかげ)を伝えていたそうです。高弟の宗忠教祖に対する敬愛の深さは多くの歌に見事に表現されています。

 

又高弟の多くの門人や人々への病治しの奇跡は多くあり、京都の町に一大センセーショナルな旋風 (赤木騒動)を巻き起こしました。

 

赤木高弟はその後関白の二条家の信頼が厚くなり、幕末日本の夜明けの陰の立役者と言える尊いお方でした。蛤御門の政変における高弟の活躍振りが挙げられます。又高弟の奇跡の数々は目を見張るものがあります。

 

この奇跡が起きた理由について

 

どうしてこのような不可思議なことが起きるのか? 

 

禅には「仏法には不思議はない」という言葉があります。「奇跡的なことは起こらないから、そういうことに期待するなコツコツ励めそれが真の道だ」ということです。このような考えもありますが、一方奇跡は起きるし現に起きています。

 

宗忠教祖のお話は人の心を活かす力をお持ちの方で説教時の迫力と力強さは、普通の常識をはるかに超えて人々を感動させ、神と繋がり多くの奇跡が生まれています。

 

では宗忠教祖しかこのような奇跡は起こせないのか? いや多くの門弟達はこのような奇跡を起こして、多くの人を救っています。無数と言っていいほど病治しの話はあります。

 

「どうしてこのような不思議なことが起きるのか?」この答えは残念ながら個人が真剣に求めて、自ら体験しなければ得られないものです。自ら掴んで得るしかないということです。

 

 

「言霊ブロンズの販売」

言霊ブロンズは言霊を繰り返し唱えて願望を現実化させます。ご参照願います。 

剣士像・言霊ブロンズのご案内・願望達成の最も近道!

1/2 剣士像・言霊ブロンズのご案内・願望達成の最も近道!

 

 

剣士像・言霊ブロンズのご案内 

 

引き寄せの法則!

*あなたの夢を引き寄せるブロンズです!

*現実化するためには、言霊にして宇宙に宣言することです!

 

願望達成するためには目標に向けてひたすら努力奮闘するだけではなかなか達成できません。

何回も何回も繰り返し繰り返しあなたの言霊を唱えれば、必ず達成できます。宇宙は無窮の豊かさを用意しているからです。この言霊の壮大なる無限の力を信じてください!

 

特徴 

1.竹刀の取り外しができるようになっており、スペアの竹刀1本がついております。

2.付属品の金属アルミプレートに叶えたい願望を刻字して下さい。他に金属プレートは金、銀、真鍮、銅、木、プラスチック、紙何でもお好きな材質を貼付できます。

3.台座に貼り付けするために台座の後ろ部分の作者サインは省いてありますのでご了解願います。同様に収納箱の表面も所有者主体の見地から白地となっています。

4.制作年度は30数年前です。従って包装布、収納箱、ブロンズ像等は経年劣化が見られます。

 

重量、寸法、材質

重量 1.5kg  寸法 高さ24cm 幅7cm 奥行6cm  材質 銅 

付属品 

① 収納箱 高さ27.5cm×幅10.5cm×奥行12.5cm

② 竹刀2本(スペア1本) 12.5cm 

③ 黒色アルミプレート2枚(正面/側面)  1枚 6.4×2.7 / 1枚 4.7×2.7 cm 

 近くの金属刻字業者にて依頼できます。ブロンズの脇/後に飾る「小屏風、白地の木札」はアマゾン購入。(写真の刻字は大阪市のジョイタス(株)に依頼)

 

田畑 功 

日展審査員 西望賞受賞 彫刻界の第一人者であり重鎮として有名 全国主要駅の広場、歴史的肖像、記念碑、仏像等に1000体以上の制作実績あり 

1955年 富山県に生まれる 

1982年 日展で初入選となる 

2003年 西望賞受賞 

2011年 日展審査員となる

2015年 日本彫刻会展で審査員となる 

代表作 

前田利家騎馬像、 細川忠興・玉夫妻像、白虎隊群像、米国ドジャーズ球場イーグル像、大本山総持寺蛍山禅師像、松尾芭蕉と曾良の像、大日如来像、他多数

 

収納箱 

尚この木箱の表面は白地となっています。ブロンズの所有者があくまでも主体ですので、御自分の名前を自筆で書くようにするために白地となっています。

くせ字、下手でも個性の大事な表現ですので自筆でご記入下さい。

 

価格

1体 32,000円  2体以上お買い求めの方は1体につき25,600円(2割引き)

一括払い 送料込み  

尚到着後7日以内に返品可です。(メールにてその旨のご連絡を頂き、返送料はお客様ご負担となります)

 

販売数 

収納箱付 10体   

 

申し込み方法 

このページ左上の「お問い合わせ(お申込み)」蘭をクリックの上お申し込み願います。折り返し当方の郵便の口座番号をご連絡いたします。

  ご入金確認後すみやかに発送いたします。ご質問もこの「お問い合わせ」蘭よりご連絡願います。

 

記入方法

① 氏名         漢字名の他 カタカナ名もお願いします。

② メールアドレス このメールアドレスにて発送連絡等のご連絡差し上げますので正確にはっきりお書き願います。

 題名       ブロンズ購入とお書き下さい。ご質問の場合はその内容をお書き願います。

 内容蘭     お振込予定日をご記入願います。例えば「本日より3~4日以内又は1週間以内」とお書き願います。

 

下記ご参照願います。ブロンズの背景を書きとめました。

高岡銅器 田畑 功 作 言霊ブロンズと坐像のご紹介

 

 

 

剣士像・言霊ブロンズの写真は以下の通りです。

 

 

 

 

 

 

 

ご自分の名前、出身地、家族の系譜、信条、遺言等を箱の表面や側面に書き残してください。墨字は数百年は残ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2/2 高岡銅器 田畑 功 作 言霊ブロンズと坐像のご紹介 Guide to kotodam bronze

 

 

金属プレート貼り付け(貼り付け材は紙でも可)言霊ブロンズと坐像のご案内

 

2019年背骨の圧迫骨折と抗生剤の副作用により病気知らずの健康体から一転、一時は歩行も困難になる程の不自由さを味わいました。

 

心残りだった20数年前の計画を思い立ち、このブログで言霊ブロンズを販売することにしました。販売というのも大袈裟ではありますが、小生の冥途への土産話にしたいと考えています。

 

我が肉体を脱ぐ時、後悔の念が湧かないように行動し、すこしでも安心して神の下に行きたい気持ちです。

 

又国内の重鎮であり一流彫刻家の田畑 功氏(高岡市在住)のほぼ未公開の秀逸な作品のご案内でもあります。

 

制作をお願いした当時はお若い頃でしたが、今や国内では最も著名な銅像作家になられました。随分とご苦労をおかけし、申し訳ない気持ちです。

 

勝手ながらお電話差し上げたら、当時のことをよく覚えておられたのには感激しました。当方の細かい変更を何回も快く承諾された懐の深い芸術家です。

 

今振り返ると迷惑も顧みず、些細な直しをお願いした事が恥づかしく思われます。

 

販売数が10体ばかりの小規模販売ですが、昔脱サラして心血を注いだブロンズ制作を少数でもいいから世間に知ってもらいたい、認知して欲しいとの願いからです。小生が亡くなれば処分され、永遠に葬り去られてしまいます。

 

少数でもいいから販売して、中途挫折した我が苦心作品に報いたいという長年の気持ちがありました。当時貯金、退職金すべてをはたいて情熱込めて制作した作品です。

 

もっとも安価で販売すれば売れるのでしょうが、意地でも安売りしたくないのです。作品の制作者が高名な彫刻家ということもあり、それなりの価格で売れて始めて世に認められたと納得がいきます。

 

 

 

坐像はすべて寄贈し中途挫折した!

 

 

後にご紹介する坐像は若き日の道元禅師の姿ですが、尊敬するある禅師より「禅を商売道具にするのは如何なものか」と問い詰められ、苦心惨憺して作り上げた坐像販売を中止し、中途挫折した経緯があります。

 

結局坐像は神奈川の大本山総持寺にすべて寄贈して坐像販売を諦めた次第です。今思えば家族もあるのに若かったと後悔しています。あくまで断固決行すべきでした。

 

ある高僧より坐禅の神髄が表現されている坐像と称賛されたこともありました。それは最も禅定の澄んだ時に出る脳からのシータ派としての「しっぺい口」が特徴の坐像です。このような坐像は歴史上ありません。

 

今手元に2体のみ坐像が残っており、1体は自分の遺品として残しておきます。従って販売数は1体のみです。

 

同時に剣士像も販売をあきらめましたが、高段者からは高い評価を頂きました。それも高段者の方の監修の下に厳格に制作したからです。このために何回も細かいリクエストを田畑氏にお願いしました。

 

この剣士像も10数体位は売れたことを記憶しています。販売方法も調査研究せず市場の構造、需要もよく知らないままに制作を企画したことは誠に未熟でした。又個人の限られた資金内での制作数もわずかでした。

 

この時の剣士像約10体を販売しようというのが今回の目的です。それ以外に収納箱のない剣士像が10体ばかりあります。昔移転の際に息子が「引っ越しの邪魔だから木箱を捨てちゃったよ!」と言われたのは大ショックでした。田畑氏の「功」の銘入り収納箱でしたから。

 

 

脱サラ失敗後又サラリーマンに再び舞い戻り、このブログで当時の営業体験を書きました。そのブログ初投稿が下記です。

生まれて始めての営業経験より

 

以後四苦八苦の生活が続き、人生の苦労を嫌というほど味わうことになりますが、やっとしみじみ生き方を探索できる時期を迎え幸せです。感謝行を死ぬまで続けて参ります。

 

高齢者の再挑戦そして新たな夢を実現したい

 

そして現在ブロンズ販売を数十年振りに再開します。後期高齢者の小さいな再挑戦でもあります。さあー結果はどうなるでしょうか?

 

世にすこしでも希望を届ける仕事をやって過去の因縁をゼロにしたい、そんな気持ちです。できれば日拝の太陽神の無限の素晴らしさと霊験を届ける仕事も同時にやりたいです。

 

日の出本の小冊子と霊験の多くの実話を出版することを企画しています。

 

朝方日の出を待ち、ご来光までのワクワク感とご来光出現の言葉に尽くせぬ素晴らしさを是非味わいましょう!

 

日の出を拝み徹底信じきることにより、生命力と自己免疫力を上げることは間違いのない事実です。その他物凄い信じられないような奇跡が次々現出します。

 

正直今の自分はそれをかなえたいと願っている未熟なレベルですが、広めるお役目を自身自覚しています。そのためこのブログで太陽神の奇跡の数々とマトリックスからの目覚めを数年間投稿してまいりました。

 

向井千代子さんの最近の本「人は何により生かされているのか」に人と神の関係が詩として見事に歌いあげられています。感激しました!神聖なる自己の魂と大いなる神との一体感は素晴らしい。

 

この言霊ブロンズのキャッチコピーが以下です。まさしく自分もこれを感謝行と共に時にはよろよろと転びながら実行中です。くれぐれも転んで二度と立ち上がれないことがないように現在必死で真剣にやっています。

 

あなたの願望、願い事を紙や金属プレートに刻字して、その言霊を繰り返し唱えれば現実化します。必ず実現します。絶対に天はあなたの願いを叶えてくれます。

 

皆様に感謝申し上げ、皆様の平安を祈念いたします。

 

言霊ブロンズのご案内 

 

 

Metal Plate Paste (paste material can be paper) Words Bronze and Seated Statue

 

In 2019, a compression fracture of my spine and the side effects of antibiotics turned me from a healthy, disease-free body to a crippled state that at one point made it difficult for me to even walk.

 

I decided to sell the Word Bronze on this blog as a reminder of a plan I had 20-odd years ago. It is a bit of an exaggeration to call it a sale, but I would like to make it a souvenir of my journey to the underworld.

 

When I leave my body, I want to do so with no regrets and go to God with as much peace of mind as possible.

 

This exhibition is also an introduction to the excellent, almost previously unseen work of Isao Tabata, a leading sculptor in Japan and a resident of Takaoka City.

 

He was a young man when we asked him to create the sculpture, but he is now one of the most prominent bronze sculptors in Japan. I am sorry for all the trouble I have caused you.

 

When I took the liberty of calling him on the phone, I was very impressed to find out that he remembers those days very well. He is an artist with a deep sense of nostalgia who willingly agreed to our minor modifications.

 

Looking back now, I feel ashamed that I asked him so many times to make minor changes, without regard for the trouble it would have caused.

 

The reason for this small-scale sale of only 20 pieces is that I want the world to know and recognize the bronze works that I poured my heart and soul into,

 

even if it is only a small number of pieces, after quitting my job as a salaried worker. When I pass away, they will be disposed of and buried forever.

 

I put all of my savings and retirement money into creating this work with passion.

 

I am sure it would sell well if sold at a lower price, but I do not want to sell it at a discount. Since the sculptor is a well-known sculptor,

 

it is understandable that the work was recognized by the world only when it sold at a reasonable price.

 

 

 

 

 

 

 

 

黒住宗忠教祖の御逸話から

燕のひながもうすぐ旅立ちます。手前の紐とビニールはカラスよけです。

黒住宗忠教祖の御逸話から今回から宗忠教祖にまつわる話を取り上げていこうと思っています。多くの逸話が残っており、どれもが学ぶべき心の教訓が伝えられています。

 

その前に小生が何故宗忠教祖に惹かれたかその理由を簡単に述べようと思います。

 

それは教祖は楽しい、嬉しい、面白いを全面的に教えとして打ち出している方だったからです。自分の学生時代18~19才の頃に安心を求め、精神盤石の境地に憧れ禅にたどりつきました。以来50年満足ゆく結果はどうしても得られませんでした。

 

しかし宗忠教祖の底抜けに明るい人生謳歌の道を知り、本を読み学んで死ぬまでにどうしても全身で味わいたい教えとして間違いない確信を老年ながら得たことから始まります。禅から天照大御神への転換でした!

 

今基礎から学びながら皆様にキリストにも匹敵する方が現実に岡山に生まれ、幕末に活動された逸話をどうしてもご紹介したいと考えておりその機を得ました。

 

神国日本の有難さ

 

 幕末に倉敷市玉島に中野屋庄兵衛という信仰の厚い方がおられました。この方はひとえに宗忠教祖を信じて修行も重ねられた篤信家です。

 

この人が重い病にかかり死際に「天命なら仕方がないが、最後に教祖様の[おかげ]を受けて死にたいものだ。叶えて欲しい!」と切なる言葉を残してとうとう亡くなってしましました。

 

家人は衆議一決してあれほど望んでいたのだから、せめて死後に教祖様をお呼びして弔ってもらおうということになりました。

 

呼ばれた宗忠教祖は事切れて相当時間も経過して、完全に冷たくなってしまった庄兵衛さんに向かいご祈念を始められました。

 

当時の事を松岡清美先生が詳細に記述しておられます。宗忠教祖から「松岡さん、私がご祈念しますから一緒にご祈念願います」と頼まれたそうです。そして宗忠教祖は悠然とお祓いを始められました。

 

松岡氏は「死体に触るとひんやり冷たいし、これで果たして生き返るのかな」と思われたそうですが教祖のお祓いのリンリンたる澄んだお祓いに励まされてお祓いを始めました。

 

だんだん時間経過とともに死相がはっきりして、もうお祓いも止めてしまおうかと諦めかけておられたそうです。一方教祖はお構いなくお祓いを力強く、繰り返し繰り返し唱えられていました。

 

何本目かのお祓いが終わり最後の「とおかみえみため」が終わった刹那に、不意に力強くウンと声を発して冷たくなり切った死人が生き返ったのです。まことに広大なご神縁が現れたのです。

 

そのあとで教祖がしみじみと松岡先生にお話になりました。「松岡さん!ご神徳は有難いものです。この日本は神国です。神国日本の有難さは格別で、なんとご覧のとおり死人が生きかえりました。

 

既にことぎれた死人がよみがえる。まことに不思議ですが全くご神徳のありがたさであります。思えば思うほどありがたいことです」との教祖の強きお言葉の威に打たれて、思わず松岡先生は頭を深々と下げられたといいます。

 

このような死人がよみがえるお話はひんぱんに逸話や教徒のお話に出てまいります。このような奇跡を信じられないと思われるでしょうが事実です。小生が無限の力を感じる次第です。

 

死後12時間以上も経過した赤ん坊の蘇生した話が教徒の昭和の小冊子にあります。黒住教ではこれらを「おかげ」と言っています。無数の驚くべき奇跡のおかげ話があります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日拝の力!天才から神人へ 羽化登仙の時尾宗道

2024年は太陽フレアが最も強く覚醒の時です!

わが物と思うは人のまよいなり

      天照る神の 宮代(みやしろ)の身を

 

時尾宗道は自らの病の全快祝いの席にて「生き通しの舞」を終えて座った時に、百数十名の見舞客の前にて忽然とその姿が見えなくなったというのです。

 

全快祝いの宗道の舞姿に一同は拍手も忘れて感激し、宗道はずっと集った人々を見まわし静かに再び開くことのない瞳を閉じました。端座したそのままの姿にてその姿が見えなくなりました。

 

これを羽化登仙といい中国では仙人が肉体を去る時に、肉体を残さずにあの世に旅立つことを言います。

 

このことは人間でありながら神人しかできない事で、まさしく時尾宗道は人としての肉体を持ちながら、神人として齢46才でこの世を忽然と去りました。全快祝いの席がそのまま宗道の葬儀の席になったということです。

 

時尾克太郎は岡山生まれで幼児より神童と言われ生来温厚、謙虚そのものの人でした。宗忠教祖より「時尾さん、慢心のきわまでお進みなさいよ!」と常に教えられるほど物静かな性格でしたが、宗忠教祖亡き後は高弟7人衆の一人として布教に大功績のあった方です。

 

若い頃の瀕死の骨髄炎から奇跡的回復を宗忠教祖から頂き、道の教えに活躍された方です。

 

八千筋に迷える人を一筋に導き玉う宗忠の神

 

と歌にあります。青春を道に捧げ尽くした人にふさわしい終焉でした。そして時尾宗道高弟の「日拝の力」を世界に紹介して人類の魂向上に役立てたいと思います。

 

時尾宗道 骨髄炎が治るをご参照願います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神聖なる宇宙へ

神聖なる宇宙へ

 

 

日の出のエネルギーは圧倒的です。思い切りご陽気を吸い込み、大御神のお力をいただきましょう!

目指そう!神聖なる宇宙へ  令和5年7月  

 

人類の意識分化

 

 

世界は2極化されて目覚める人と眠り続ける人に完全に分かれてしまい、古い地球の人達とはいやでも別れざるをえません!

 

我々は5次元の新地球を目指して進みつづけましょう。前へ前へ一歩,二歩前進です!コロナ以前の人々の意識がコロナ後に、こんなに変わるなんて想像もできませんでした。

 

自らも日記帳をつぶさにチェックすると心境も変わりました。以前はお金や見栄、世間体にこだわっていましたが、それがかなりなくなりました。思い出すとおかしい位です。

 

過去の因習や虚飾、古き習慣にすっかり呑み込まれていた自分でした。周囲の環境、テレビ、新聞からの影響でしょうが、そんな「小さいこだわりの自己は捨てよう」と決意し大祓い修行に努めています。

 

まだまだ不十分な未熟な自分ではありますが、物質社会から魂中心の生活、神聖なる宇宙を目指しています。個々が変わるから日本という国も変わっていきます。

 

そして日本という素晴らしい国家を本来の姿に戻しましょう!1万年続いた平和で幸福な縄文の大和に戻ろう!

 

今後は「太陽神」という宇宙の神聖なる、楽しく生き生きした生活を世に伝えて、自らも多くを学びながら日本や海外の人に太陽即ち天照大御神の素晴らしさを知ってもらいたいと切望します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日拝の力 難病ネプローゼの奇跡的治癒について

今回は絶望的ともいえる症状だった難病ネプローゼの奇跡的治癒の例をご案内します。新型コロナやワ○○○後遺症に悩む方に、是非ご参照頂きたい内容です。

 

 

 

ある黒住教の信者のお子さんが、難病ネプローゼにかかり6年7か月間の闘病生活が続き、死も覚悟した絶望的症状から克服された奇跡的な話です。

 

小冊子「この祈り この奇跡」より抜粋してご案内します。

 

 

長男が難病ネプローゼになる

 

小5年の長男がネプローゼ症候群という病気に罹りました。症状は全身に著しいむくみがあり、尿に大量の蛋白が出る病気で疲れやすく顔色は青白くなる病気です。

 

幼児や学童期に多く療養に数年に及ぶ場合もあるということです。国立病院に入院して血圧200、頭痛があり食欲もなくなり、尿量は一回50ccにも足りず、子供ながら10か月の妊婦のようになり、睾丸まで風船のように腫れました。

 

子供を見る人は、もうこれきりかと思われるような状態だったそうです。子供の方から「お母ちゃん僕もう死ぬかも知れないね」と口をきくようになり、この言葉に母親の私は胸も張り裂けんばかりでした。

 

「死なないよ。今に必ず治るから!」と励ましたものの、誰の目にも良くなるとは見えませんでした。

 

病院に5か月入院して容態が少し良くなり退院しましたが、しばらくすると蛋白が300ということでまた入院しました。

 

小5年より病院生活の繰り返しで、いよいよ中学校という時に入学式に倒れて又休学しました。風邪にかかるとすぐに喉が腫れ、蛋白が出て食欲がなくなり入院という繰り返しです。

 

信仰の道に入りお祓い修行を行う

 

此の闘病生活中に母親は、信仰の道に入り黒住教の教えを受けることになりました。通信講座を受け熱心に拝読して,お祓い修行を欠かさず行いました。

 

お祓い修行が大事な修行であることが分かり、息子のために「一万本のお祓いの願」を立てられたそうです。

 

尚この一万本のお祓い修行は驚異的です。子供を何が何でも治してあげたい気持ちが、この一万本の大祓いを上げることを決意した思いに、ひしひしと伝わります。

 

話は変わりますが、hinomoto(小生)も大祓いを毎日唱えています。一本4~5分位かかり、一日6~7本がやっとです。千本目指して2か月で400本です。数に集中せず、一本づつを心を籠めるようにしています。

 

1300年の昔から我が国の神社に、綿々と大祓いは唱えられてきました。「大祓いは一体何の役に立つのか」と考えられる方もいらっしゃると思いますが、不思議な「おかげ」が確かにあります。

 

そうでなければ1300年も伝わらないと思います。全く不可思議で有難い大祓いです。又後にこの件は別に書きます。

 

尤も 真のみ教えは「おかげ」即ち「御利益(ごりやく)」だけの世界ではないことは言うまでもありません。

 

長男の尿が真っ黒の色の時は、絶望観に襲われましたが、信仰を始めてからは「この黒く濁ったものが体内にあるから悪いのだ。体からこうして出して頂いて有難い」と考えるようになりました。

 

一進一退が続き恐れていた風邪を引いて、ひどい状態になりこの時ばかりは死を覚悟しました。子供は「病院は嫌だ、どうせ死ぬなら家で死にたい」と入院を断り家で絶対安静を守り療養しました。

 

奇跡が起きる

 

その間火の如きお祓い修行を続けましたが、12月1日にいよいよ子供の体調は最悪の事態を迎えるまでになりました。祈りながら一睡もせず夜を明かし、ひたすら祈りに祈りを続けました。

 

12月3日「おかげ」を頂き尿が出始め、300cc、500ccと大量の尿が出るようになって見ていた医者が「おかしい!別になにか薬を使っていますか?」と聞かれたそうです。

 

12月7,8日にはもうほっそりして、元の姿に戻り「あ母ちゃん、足が軽いよ、こんなに軽いよ!」と小走りして、皆一同それを見て驚き喜びました。

 

「お母ちゃん、治ったみたいよ」と子供の嬉しそうな声を聴いて、これほど感激したことは今までにありませんでした。

 

夜に「お母ちゃん、おしっこがこんなにすんでいるよ!」と見せにきて、尿は水のようにすんでいて濁りが全然ありません。

 

命掛けの必死の祈りで奇跡が起きたのです。医者も「全く信じられないような回復です!」と驚いていました。願いが神に通じた瞬間でした。

 

又この奇跡が生まれるには、この長男も回復を願って熱心に大祓いを唱えていたという記述もありました。母子共にお祈りされていたということです。

 

   病む我が子の朝 始めての尿の色すめば

                                                    明るし今日が始まる

 

中学2年生になり無事登校できるようになって、欠席もなく過ごすことができるようになりました。

 

中学3年生になり九州へ修学旅行があり、学校の方は同行は困難という意見が強く職員会でも何回と話合いがありましたが、小学生の時も行かれず、せめて中学生の時だけは,行かしてやりたいと思っていました。

 

それも思い切って出発して無事笑顔で帰宅でき、お土産まで買って元気に帰りました。

 

修学旅行は無事帰りましたが、心配なことは冬にかけての風邪が心配でした。

 

難病が完治する

 

過去風邪から入院を繰り返した生活だったからです。この冬も風邪にかかりましたが、検尿の結果蛋白ゼロです。医者は「こんなに喉が腫れているのに不思議だ」と首をかしげているほどです。

 

ご神徳で治った病は再発しないと言われています。その後の日赤の検査でも蛋白ゼロとの結果で、それ以来十数年検尿から蛋白を見ることはなくなりました。

 

神様は「腎臓は完全に治してある。心配するな」と申されんばかりに風邪を引かせて頂いて、我々に自信をつけて下さいました。

 

それ以降何回か風邪を引きましたが、蛋白の異常はありませんでした。

 

    信仰と安静の二つ守りいて

                                   長き子の病 今たたむとす。       

 

このお道は病治しの道ではなく、心治しの道である。又心に成就すれば、形となって成就するという教えが、肌に感じるように有難くなりました。

 

何回か死をさまような再発に苦しみ悩み、現代医学では手の付けられない病気であり、確たる治療法もない中で信仰によるご神徳の有難さ、黒住教宗忠教祖神の偉大なる神業です。

 

教祖神が「師を慕う者は見殺しにせむ」との言葉があり、多くの人々がこの言葉通りに命が助かって参りました。

 

 

 

重度の貧血と白内障が治る

 

尚 母親ご自身の十数年悩まされた重度の貧血症が、いつの間にか治っていたそうです。それまでは貧血の度毎に寝込んだり、嘔吐があったり、誰か傍にいないと危ないようなひどい状況でした。

 

それが息子の病が縁で、必死の祈りを重ねたお蔭で自らの貧血がいつの間にか、全くなくなっていたということです。

 

その他に白内障を患いましたが、目薬をやめ代わりに教会の御神水を目にさしているうちに病院の手術を受けずにすっかり治り、かすむこともなく今に至るまで鮮やかに見えるようになったそうです。

 

以上 難病やワクチン後遺症等で苦しむ人びとにとって参考として、現代医学の限界を超えた治療不能な病が「心の在り方」で治る例を抜粋してご案内しました。

 

 

病気治しの奇跡について

病気治しの奇跡

病気治しの奇跡について いわゆる心と体の関係について

 

このテーマを書くことについて少しためらいがありました。 理由は「世間一般は医者と薬剤が絶対的という唯物論的考えが主流である」という思考方法に真っ向から対決しなければならないからです。

 

心という精神力で病気を治癒することは、あり得ないというのが一般的な考えです。しかし病気は薬だけではなく、本人の心構えで治ることもあるということを今まで例を挙げてきました。

 

ジョセフ・マーフィーは「人生の法則は信じることの法則に外ならない」と述べています。 本当に信じ切ることは、病気が治ることになります。

 

逆勢の法則について

 

祈りや願望が実現しないのは「逆勢の法則」があるからだと言われています。 つまり「疑いが生じる」と実現しないのです。 「本当に治るわけがない」と思ってしまうと途端に効力はなくなってしまうのです。

 

たとえば神を信仰している人から手を当ててもらうと、病人は有難いという気になりその人の身体に治癒力が、活性化して本当に治ってしまいます。

 

治るという確信と安心感から、心の躍動感が生じてその結果病人の生命力が活発になります。 その場合如何なる病も治り、病原菌も死滅するのです。 癌すら退縮してしまいます。

 

この信じ切るかどうかが大きなポイントとなります。ワ○○○後遺症も遺伝子レベルでの病といえども奇跡が起きると信じています。

 

人間の信じる力は無限大であり、計り知れない能力を有しているからです。信じる力で病を克服できることを確信しています。

 

癌も本人の意識で治る

 

九州大学医学部心療内科において、入院中の癌患者21人について何れも癌の進行がひどく、かつ高齢の為手術もできずあと1~2年の命といわれ、治療らしい治療もしなかった患者についての興味ある報告があります。

 

その患者たちの癌組織が消失したり、大幅に退縮したりして癌進行が止まった例があります。そしてそのままの状態で長い間生き続けて、他の病気が原因で死亡したということです。

 

これらの患者に共通した生活態度は、ガンに対する恐怖、不安がなく何らかの生きがいを見出して、積極的に前向きに生活をしていたということです。

 

つまり癌の悪性度よりその人の心の持ち方次第で、大きく寿命が左右されることが判明しました。もう一つの例を挙げましょう。

 

これはスピリチュアルなインフルエンサー並木良和さんの本に書かれてあったことです。

 

ある整形外科医の「有り難い不思議」というタイトルに記載されていた内容ですが、それは気功で脊髄まひの患者さんを「覚えたての気功で治してしまった」ことが書いてありました。

 

このような例は無数にあります。自分の敬愛する黒住教祖の病気治しでは、数え切れないほどの話が残っています。今の医学常識では絶対治らないような病人が現実に治っているのです。

 

こういう例を書籍ではありますが、丹念に調べてきました。奇跡は本人次第で起きるということをご案内したいと思います。実はそのことは当たり前であり、ごく当然のことです。

 

このブログでも取り上げていますが、読者の方も関心のある方は実際に試されることを是非お薦めします。

 

 

 

日拝の力 難病より奇跡の生還

荘厳な朝日が昇ります。この瞬間が大好きです。

日拝の力 難病より奇跡の生還

 

「鎮守の杜の神々」から 奇跡の生還 

 

医者から見放された病人が奇跡的に助かった話です。

 

江藤さんには子供が無くて姪の佐喜子さんを幼い頃幼女に貰い、家族3人で暮らしていました。夫に先立たれて後は奥さんは佐喜子さんを頼りにしておられましたが、高校卒業前に結核性の腰部関節炎にかかり療養しておられました。

 

その療養中に急性盲腸炎になりさらに手当が遅れて手術前に盲腸が破裂してしまい、病状が悪化して危篤状態までになってしまったのです。手術も3回も重ねて体力も衰弱して、医師はもう助かる見込みはないと診断しました。

 

江藤さんは平素は信心のない人ではありましたが「この上は神様にすがるしか道はない。近所に住んでいながらいつも無信心で、神に頼みを聞いてはもらえないかも知れないが、どうにかして娘を助けてやりたい」と必死の思いで頼みに来られました。昭和30年8月のことです。

 

潮宮司はその依頼を受けて平癒の御祈願を申し上げました。神示は「幸いにも一命を取り止める」ということです。

 

電話で早速その旨を伝えましたら「本当に助けて下さるのですね。有難い 有難い」と江藤さんは絶句され喜ばれたそうです。

 

というのは、先ほどから佐喜子さんの容態が一変してにわかに快方に向かい、その急変ぶりに医師がけげんの面持ちで信じられない表情であったということです。

 

「佐喜子は助かった、助かった。神様のお蔭で救われた!」と思うと急に熱いものがこみ上げてきて涙が、とめどもなく流れ落ちたそうです。

 

佐喜子さんはそれから20日目の9月8日に退院しました。養母に付き添われて参拝に来られた佐喜子さんは殊の外元気そうな顔でした。

 

その時19歳であった佐喜子さんはその感激が忘れられず、以来月並祭には必ず参拝されたということです。

 

そのうち足を折り曲げることも難しく、ほとんど不治の病と思っていた関節炎の後遺症も次第によくなり半年後には全快したということです。

 

毎年新春には大阪から帰ってきて、お礼のお参りを欠かさなかったそうです。神の有難さが身に沁みて感じられた佐喜子さんは、新春の社頭に深々と額ずく姿が見られました。

 

 

 

奇跡と霊験 「鎮守の杜の神々」 潮 武臣著より 拝神の記

 

奇跡と霊験 「鎮守の杜の神々」 潮 武臣著より 拝神の記

 

この本は山雅房より昭和55年に発刊された興味深い本です。ここで取り上げるのは著者が「神は実在するか」という自己の問いに対しての記述です。

 

誠に深い記述であり、単に我々レベルの神が実在するかという三次元的問いの発し方ではありません。終戦直後のご自分の経験を詳細に述べられています。

 

著者が神明奉仕に一生を捧げることを決意し、終戦の翌年周囲の反対を押し切って、田舎の本社務所に家族6人生活することになりました。

 

未だ人の住んだことのないような場所で、多くの困難があったそうです。電気もなく汲む井戸もなくかまども 風呂もない社務所で、更に訪れる人もいないような寂しい神社でした。

 

唯 木立に鳴くせみ時雨だけが昔の風情を留めていました。おまけに一家の生活は窮乏にあえぎ、終戦直後の為生活するすべもなかったそうです。

 

そのような中で「神とは果たして実在せられるものであろうか?」という疑問がふつふつ湧いてきて神の実在を確かめようと、今思えば不遜な決意だったことを述懐して書いておられます。

 

早春の2月の凍りつくような寒い真夜中に、一人神前に端座してひたすら神の姿を求めて修行されました。熱願すること30日目の夜遂に悲願は達成されて、肉眼でもって神姿を拝することになりました。

「仰ぎ願わくば速やかに御尊影を顕現し給わい、我をして御神姿を拝さしめ給わむことを!

 

伏して祈り奉る、神明坐しまさば昭鑑を垂れ給い我が至誠を納受し、希驗(きけん)を顕現し給わむことを!」

 

との願文を神前に奉献して、ひたすら拝殿に端座して深い祈りを捧げ続けられたということです。真夜中に奏上する大祓いの詞が一言一句身に沁みるように感じられ、いつになく心の隅々まで清められて熱い生命が全身に躍動するのを覚えたということです。

 

著者の内省の思いはかなり長く文に綴られておりますが、ここでは省略させていただきます。

 

そして「私は誰にも果たされない使命を天から与えられている。その使命を果たすためにここまで育てられてきたのだ」とそう思うのと

 

「神」という文字が一瞬鮮烈な光を放って心の中で見えたのとは同時であった!その時である。

 

静かに重々しい声が何処からともなく聞こえてきて「気がついたか、それでよい、それでよい、わしが産土(うぶすな)神じゃ」と心の中に聞こえてきました。

 

その時にそこに異状な光景が現れ、著者はハツと息を呑まれたそうです。「頭に頭巾(ずきん)を召され温容に長く白髭を垂れさせられ、長剣を杖にして立ち給うお姿」は言語に絶するような神々しい神そのものでした。

 

やがて神殿に向かって音もなく歩まれ、静かにお消え遊ばされたそうです。著者は余りのことに茫然自失して平伏することも忘れ、ようやく我に返ってその場に平伏して時の過ぎるのも分からなかったと書いてあります。

 

当時は産土神が如何なる神であるかは知る由もなかったが、25年後の昭和48年秋 自分が見たご尊影と寸分違わない神像が本殿に安置せられてあるのを拝して大いに驚嘆したとのことです。

 

ご神像には由緒書が添えられ「大三輪神(おおみわのかみ)にして天平末、友兼山麓大樹の下に老翁現れ給い、立ちて神託し給う。故にその神姿を彫刻して神体と成し奉る」と書いてありました。

 

日拝の力 必ず治る⑰セロトニン活性法

必ず治る⑰ 日拝の力 セロトニン活性法「命の教え」山田 敏雄著より

日拝の力はセロトニン効果

 

日拝は脳内にあるセロトニンを活性化する最も効果的な方法です。

 

セロトニンは脳内にある情報伝達物質で、このセロトニンが不足すると「うつ病」になりやすくなり、十分にあると緊張がほぐれてリラックスできる、集中力が高まる、腹が立たなくなるという効果が見られます。

 

日の出の時だけにセロトニンが十分造られるので日拝はお薦めの心身健康法です。又笑いはセロトニンを増大させる効果があり、落語、お笑い等は大いに心身の役に立ちます。

 

無理してでも笑うことは大事で、可笑しいから笑うのではなく、日々よく笑うから可笑しいのです。笑いの習慣はまさに「笑う門には福来る」の諺どうりです。

 

笑うことによって癌を退縮させた話は多くあり,免疫力を高める効果が病を治すのです。

 

私の敬愛する宗忠教祖も絶えず「嬉しい、面白い、有難い」を勧めておられました。5次元新地球への道も「明るさ、笑い、ワクワク、面白い、嬉しい」の気持ちがどのスピリチュアルな指導者からも口を揃えて我々に勧めている重要キーワードです。

 

声を出して自ら聴く

 

自律神経失調症に効果的な方法の一つとして、声を出すことの大事さが昔から効果があると言われ、医学的にも証明されています。

 

自らの声を自分で聴くことは自律神経を鍛えることに繋がります。カラオケ,合唱で歌う、お経や祓い言葉を唱えることはとても大事です。

 

私は大祓い詞を朝夕唱えていますが気持ちがすっきりしますし、以前は夢の内容が暗くてうなされていることが多かったのが少しづつ明るく変わっていき、楽しい夢をたまには見る事もあります。

 

恐らく潜在意識まで変化を及ぼしているのでしょう。そうすると効果のほどが自分で確認ができ励みになります。

 

日の出のセロトニン効果は、夕日にもあり、更には日中のお日様にも散歩中は頻繁に太陽エネルギーを下腹まで呑みこむことが習慣になりました。

 

朝夕二回の散歩中計10数回は繰り返して日の光を呑み込んで、生きている感謝の念を天照大神にお送りしています。

 

感謝して明るく楽しく過ごすことは最大の免疫療法ですので、苦しい中にも意識して行いましょう。継続は力なりです。必ず効果があります!

 

 

山田敏夫氏の「いのちの教え」は下記を参照してください。

 必ず治る⑭ 宗忠教祖の病説法

 

 

 

神秘力への憧れ

神秘力への憧れ

 

今までに多くの奇跡にまつわる話を取り上げてきましたが、ここで注意しなければならない事があります。

 

単に自己満足だけの霊能力への憧れだけは,少なからず危険性があることを喚起する必要があるということです。

 

そういう自己満足の霊能力開発は、高次元のものではなく、低級霊魂のとりこになってしまう恐れがあります。このことは光明波動の五井昌久先生の繰り返し何度も念押しされたことです。

 

当人がそれに気が付かず、人の運命が分かったり、神のように霊魂の声を聴けるようになってきて、念願の霊能力を得た満足感に浸っている場合が多いとそのような危険性に陥ると聞いています。

 

いったんそうなると,その低い波動圏の世界から逃れることがむずかしくなり、普通人と異なった幽波動をまとった生活になってしまうのが怖いと五井先生は警告されています。

 

そのような人はなんともいえぬ変な雰囲気を醸し出し、常識的でない行為の傾向が見受けられるといいます。いろいろなスピリチュアルな世界でも多く見受けられます。

 

自己を人より高くみせようとする想念を目的とする霊能力や神秘的能力開発は絶対避けるべきものです。とかく人は一般にこの傾向性に陥りやすく、惹かれがちになりますので多くの人の弱点とも言えます。

 

一番大切な基本は霊能力や奇蹟は、個々の精神生活を深める為のもので、どんなに霊能力が優れても、謙虚・感謝の念がなくなると低い世界に落ちてしまうものです。

 

世の中が2極化した現在において、スピリチュアルな世界が、急に多く様々な面で出現してまいりましたが、この点は大事なポイントですので、心して惑わされないようにしたいものです。

 

「我の入った奇跡・霊力」は「見えない世界」として実現できたとしても、本質的に真の道とは異なる別世界ということになります。

 

真の道は魑魅魍魎(ちみもうりょう)を語らず、恐怖、地獄世界を語らず、自我を超えた大いなる調和と感謝、歓びの世界です。全体を俯瞰してなんとなく暗いイメージか明るいかで判別できます。ご注意願います。

 

 

必ず治る⑮ 宗忠教祖の弟子 星島宮子の生還

必ず治る⑮ 宗忠教祖の弟子 星島宮子の生還

「いのちの教え」山田 敏雄著より  

 

 

 

6月25日

病気にかかった時

 

今回は以前書きました「いのちの教え」山田敏雄著より「こころ」のあり方について紹介いたします。

 

当ブログのテーマの一つは「病治し」ですが、今まで紹介した内容はすべて「目に見えない世界」を扱い「こころ」について論じてきました。今回は「どのような心構えが必要か」について案内いたします。

 

闘病という言葉があります。病と全面対決して治していく方法です。確かにhinomotoも風邪を引いた場合は、自分の中の風邪と対決姿勢をもって「風邪に負けるもんか」と強い気持ちで闘って治してきた自己実績があります。

 

それも一度や二度でありません。風邪を引いた場合気持ちを引き締め、気持ちが「だらけない」ように過ごし気合で治してきました。

 

これは病気が軽い場合は効果はありますが、かなり重症の場合は効果は少ないと思われます。そこで教祖は病と闘うのではなく「こころのあり方を変えよ」と説かれています。

 

瀕死の重病を「こころのあり方で治した事例」を挙げます。

 

1.危篤の弟子が立ち上がった! 

 

宗忠教祖の弟子で女流三傑と呼ばれた星島宮子は、大病を患い挙句に危篤に陥ってしまいました。大病を患い「おかげをいただきたい」と教祖に懇願していましたが、多忙を極めていた教祖はすぐ駆け付けることができず、宮子が危篤状態になって訪ねることができました。

 

そんなある日のこと玄関に人の気配がしたので看病の者が「どなたでしょうか」と問うと、よく響く澄み切った声で「黒住左京でござる!」とリンとした声です。

 

その声を聴くや否や危篤だったはずの宮子がむっくり起き上がり、玄関まで走り寄って「ありがとうございます!」とあとは言葉が続かず、じっと頭を下げて教祖を迎え入れました。

 

この様子を見た教祖は「あなたは大病で伏せておられると聞いていましたのに…」とここで始めて我に返った宮子は驚き「ああ、ありがとうございます!」と全身に感謝の念が溢れ、改めて返事をしました。

 

周囲の者も危篤状態で動くことさえできない宮子が、教祖を玄関まで出迎えたこの出来事にただ驚くばかりだったのですが、その後宮子の病気は信じられない早さで回復に向かいました。

 

実は宗忠教祖と宮子の師弟関係はまことに密なるものがあり、天照大御神と一体の教祖に対する尊崇の念は人一倍深いものがあったということが指摘できます。

 

宮子は危篤状態ではありましたが、心待ちにしていた教祖の直接の見舞いを受けて、その時の感激と感謝は驚くほど大きく潜在的自然治癒力を一気に驚異的に高めたものと思われます。

 

2.心臓発作が治る

 

同じような奇跡的に治った話が1950年(昭和25年)の夏女性信者の方にあります。その方は流産による出血の際に使用された麻酔薬によって、日々心臓発作に襲われるようになりました。

 

ある夜脈が数えられない程早くなり、息もできない状態に陥ってしまい、このまま死んでしまうと思われたそうです。ところが傍らで寝ている長男の顔がふと目に入り「この子を残して死ぬわけにはいかない。死にたくない」と強く思われ神棚にあった「道のしおり」を夫に取ってもらい、薄れそうな意識の中で懸命に大祓詞を上げて祈りました。

 

「 宗忠の神様この幼子を残して死ぬわけにはいきません。どうかこの子が成人するまで私に命をください。助けていただいたら、どんな辛い目にあってもどんなに貧乏になっても泣きません 」

 

すると大祓詞を7、8本上げたところで苦しみがサッと消えました。

 

その後何日か経って、苦しみの中で一生懸命お祓いを上げていると玄関の方から「ごめんください」と声がして紋付羽織姿の宗忠の神様が現れました。

 

ハッとして目が覚め夢だったことに気が付きましたが、有難さともったいなさで胸がいっぱいになり涙がとめどもなく流れ落ちました。

 

その夢を見た時から、薄紙をはがすように発作が治まり起き上がるまでになりました。その後さらに二人の息子に恵まれ当時3才だった息子も今は60歳近くになりました。

 

上記2例に見られる「ありがたい」の心は「天照大御神の永遠に生き通しの御心」そのものです。それが一つになった時に奇跡は生まれます。

 

生き死にも 富も貧苦も 何もかも

 

 心一つの用いようなり    宗忠教祖の歌です。

 

⁂ 尚現代医学で治せる病気は、当然ながら薬等を用いて治すのが最善と考えます。

 

「いのちの教え」の著者山田敏雄氏は黒住教徒の方で、この本は2008年9月株式会社テーミスの初版発行です。現在販売されているかどうか分かりませんが、宗忠教祖の教えが、詳しく分かり易く説かれています。

 

下記を参照してください

 

必ず治る⑭ 宗忠教祖の病説法

 

 

 

 

油井真砂 不可思議能力の禅者

もうすぐ夏至です。

見えない世界への紹介 

 

このブログの目的は「必ず治る」を主テーマにしております。特に難病、長期療養等でなかなか治りにくい病気、精神的うつで悩む方に対して、元気になるための「太陽を呑む」ことを提唱にしていますが、自分なりに工夫してコツを掴み、心の準備が必要です。

 

そのためには「目に見えない世界」と「心の開放」等の理解をより深めていただくことが必要です。その理解の上に立って「太陽を呑む」ことを実践していただければ、真の「必ず治る」に繋がるとの信念からご案内しています。

 

「目に見えない世界」は、決して人を惑わす迷信や怪しい話の類ではないことを分かっていただきたいと願っています。

 

いずれ来る地球のグレートリセットへ向けて関心のある方も是非お読みください。

 

 わが見神記 油井真砂(ゆい まさご)述より抜粋 

 

 

この本は二部構成になっており、一部は青山阪本病院の阪本孫重氏の序による「この人生」(住職の弟正智著)と二部は油井真砂氏の「信心と坐禅」から成り立っています。

 

二部後編の「信心と坐禅」は、かなり高度な仏教哲学的思索の濃い内容で相当難解です。そのため案内は一部が主となります。一部前編は弟の住職正智氏によるものです。

 

弟の住職さんは「姉の油井真砂禅尼そのままの歴史を誇張もなく書きました」との一文があります。

 

序 阪本孫重

 

氏は高等学校時代に当時死病と言われた肺結核になり、精神的にもノイローゼが重なり衰弱していました。

 

そこで巡り合って治してもらったのが若い頃の油井先生で、それから亡くなるまで40年間指導してもらいました。

 

肺結核が治った時に「阪本さん! あんたも結核をとうとう卒業しましたね !」と言われた時は自然に涙が流れ落ちました。

 

それからすっかり健康になり医者として開業もしましたが、健康になると大変無理を重ねて、大東亜戦争の最中に田舎道を自転車で往診をするハードな毎日でした。

 

余りの無理が原因で心臓を悪くして途中坂道を動けなくなることも再三で、またしても油井先生にお世話になりました。

 

そのころ油井先生が「阪本さん、薬師様からあなたに使命が与えられましたよ。それは一万人の難病患者を治せとの使命です」と言われ

 

「先生今日にも発作が起きたら死ぬかもしれないのに一万人もの人を治せとはどういうことでしょう」と先生に言いますと「そうね!使命ですからそれを果たすまでは死なないでしょう!」と言われたのです。

 

「以来20数年、有難い事ですが、毎日患者を治療し続けて70歳半ばに至りました」と13回忌に出版される本の序に述べられています。

 

前編 「この人生」 より抜粋 肺結核を病む

 

 

 油井真砂(敬称略)は信州佐久で育ち6人兄妹の一番上の長女です。父が選挙で大金を使い果たし、その上父の女性問題等と母親は筆舌に尽くしがたい苦労を重ねました。

 

そのなかに、てきぱきと男勝りに働き、多くの借金取りの矢の催促や父の女性との縁切り、事業失敗の借金処理等の幾多の問題を天性の頭の良さと男性並みの度量を生かして、上手に処理し一家を救ってきた話が記載されています。

 

明治40年真砂は医道を目指し上京して勉強して故郷で開業するに至りましたが、無理に無理を重ねて体も痩せて、とうとう肺病を病むようになりました。

 

当時の真砂は痩せて骸骨のようになり、村では噂が立ち「あそこにに行ったら、病気が移るぞ」と言われ、皆が診察所に敬遠して近づかないようになりました。

 

絶対絶命まで追い込まれ永平寺の森田悟由禅師に会って渾身の力を振りしぼり、必死の真砂は「何故このように病のために悶え苦しみをしなければならないのか、死んで何処にいくのかそれが知りたいのです」と問えば

 

「断崖絶壁に追い込まれた人間がそこを飛び越えるか、超えられないかは自らが知ることであって、他人に聞いても分からないぞ。自ら悟ることだ。死ぬ覚悟だ!」と禅師は答えられました。

 

禅師の回答に真砂は死ぬ覚悟ができて信州に帰り、なんと細窪の岩穴に藁(わら)と布団を持ち込み、岩穴に藁を敷き詰めその上に布団を引いたということです。

 

恐らく当時肺結核は死病と恐れられ女医の真砂は周りに感染を危惧して、誰にも迷惑をかけない方法を取ったと考えられます。

 

布団の上で坐禅を組み7月でも寒い信州の夜1週間が過ぎました。ある夜激しい雷雨になりいよいよ迫った死の苦痛に耐えかねて洞穴から転げ出し、雷雨の中を苦しさの余りのたうち回り大喀血して気を失ってしまいました。

 

この時の壮絶な体験を曹洞宗中野東英老師が教化資料として、宗務庁から全国曹洞宗寺院に「命新たに」と題して頒布されています。

 

肺結核治る!

 

 

翌朝目を覚ましてあれほどひどい喀血をしたので、自分が生きているのか確かめようと自分の両腕をさすり撫でてみて体温もあるし、衣服から湯気も立っています。医者ですから脈を診ても正常です。気分も爽やかです。

 

喀血した血が地面にどす黒く固まって、微熱も消えていました。思わず「治った!治った!」と叫び爽やかな朝を全身で感じて、命あることの歓びが沸き上がってきました。

 

家族も諦めていただけにその日から元気に歩く真砂のあまりの変化を見て、驚きというより恐ろしく感じとても信じ難い光景でした。

 

絶望的状況から一転起死回生の真砂を見て、著者は人間業ではなし得ない事象で不思議としかいいようがないと述べておられます。

 

恐らく瀕死の重病の患者が大喀血してその後すぐ復活して見違えるように元気になることは、医学の進んだ現代でもあり得ない臨床例かもしれません。

 

この日を境にして真砂に不可思議な力が授かるようになってきました。

 

これ以降不思議な老人との出会いにより筑波山での修行を経て、実に多くの霊力を有するに至りました。

 

今東光氏は「今昔物語入門」(光文社刊昭和43年4月15日発行)の40ページに「現実にいる魔女」と題して次のように書かれています。(以下抜粋)

 

「油井女史は一種の魔女で霊力を持っていた。透視もするんですな。その代わり人間の低劣な物質的欲望を満たすようなことは、決してやらなかった。金をどれだけ積んでも「だめ」という。」と続き

 

「彼女は全然泳げないんだ。海水着を着ている彼女を、みんなで担ぎ海へ放り込んだ。ところが沈まないんだよ。すまして波の上にすわっている。これにはみんな一言もなかった。この話はほんとにあったことです」との今東光氏の文です。

 

その後の真砂の活躍は政財界・曹洞宗にかなりの影響力を持ちましたが、あくまでも無欲、潔癖、清廉の一筋を貫く一生でした。昭和34年9月21日73歳 坐脱による遷化。

 

*尚洞穴で嵐が吹く中、肺結核が治った話は、必ず治る⑫のハンセン病の治った例と酷似しています。

 

読者の皆様はどうして治ったのか、その理由をご自分でお考えいただくことをお勧めいたします。

 

 

 

高橋宥明上人神変記より

高橋宥明上人 明治37年 大正3年57歳にて示寂

高橋宥明上人神変記 大橋博吉著より

 

原田祖岳老師の序について 

 

この本に序を書かれた原田祖岳老師(内容は一部略)は、この本の作者・大橋大佐と長年参禅の師匠・弟子の間柄です。又大佐は神通力を持った高橋宥明(たかはし ゆうみょう)上人とお知り合いで、この和尚さんの神変不可思議な多くの実例談を昭和10年に本にされました。

 

「私(原田老師)も他に数名の方から宥明上人の話は聞かされており、極まりない通力の持ち主であったことを確認しました。

 

仏教に天眼通、天耳通、宿命通、他心通、神境通、漏盡通の6通があり、本記に100近くの奇跡事例によって判断すると天眼、天耳、神境、他心通の4通に通達しておられることは明白で、稀に見る道者です。

 

唯物論化し実利主義化し、個人主義化した現在にとって実は科学知識の及ばない世界が限りなくあり、我々の本質には無限の霊能と無限の世界が存在しています。

 

しかし宥明上人の神変力を以てそれを宗教であるとか、如来の真の通力であると考えてはなりません」と述べておられます。見えない世界を肯定しつつも釘を刺すところは注意喚起しておられます。

 

この宥明上人の稀に見る力と見えない世界を、もっと世の人々に知ってもらいたいとの願いからブログにまとめました。上人は高野山の弘法大師と過去世に深いご縁のある方と拝察します。

 

大橋大佐と宥明上人の関係

 

本題にはいりますが興味深い話の事例をいくつか案内する前に、大佐と上人(和尚)の関係を説明します。

 

大佐が山形連隊に奉職していた明治31年に、隊から夕方下宿に帰り,座敷の障子を明け放し机に向かっていました。その時突然法衣を着たお坊さんが,縁側の先にニコニコしながら立っています。

 

何だか変な坊さんだなと思い、「どうぞお上がり下さい」と申しますと「明日又くる」とお坊さんは言って出ていきました。

 

今思い出すとその場所から忽然と消えたのではないかと思われ、表に歩み出た様子がなかったのです。ただし別に気にも留めずに翌日出勤しました。

 

帰宅後煙草を吹かしていましたら、例の通りニコニコしながら「お前は今日職場で心にもない事を喋るのは良くないよ!」といきなり初対面で内心をズバリ注意されたのです。

 

確かに今日帰宅前に戦術研究で論戦を試み真っ当な正攻戦術に対して、敢えて反対論の立場で大いに議論しました。そこを指摘されました。

 

そして「お前の所に居ていいか」と聞かれ、「いいですよ」と答え二人で食事をしてその日は寝ました。それからというものは2日位居たかと思うと、3日ないし7日位は不在したり或いは数十日は滞在したりの生活が2年経過しました。

 

このお坊さんは山形県の荻という寒村で生まれて少々足りない方であったらしく字が読めなくてお経も全く知りませんが、真言陀羅尼だけはいつも繰り返して唱えていました。

 

神変1 投げ筆

 

 投げ筆はどういうことかと言うと、書いてもらいたい自宅において何も書かれていない和紙を丸めて帯封をして仏壇か神棚に安置します。

 

そして離れた場所から宥明上人が念じながら筆に少し墨を付けて、頃合いを定めて1メートル近く離れた畳の上か廊下等に投げ入れますと、離れた家の和紙の上に龍の絵とか大黒天王,梵字,カラスとかが描かれているということです。

 

字が書けた時は筆の先が前方に向き、たとえ投げた時に筆の先端がこちらを向いていても字が書けておれば筆は自然に先方に向き直ります。

 

出来上がった龍の字もことごとく異なり同じものがなく、尾の方が威勢よく上がったり二つに分かれたりしています。

 

大佐の知合いの産婆で石井(東京都中野区)という人が是非龍の絵を書いて頂きたいと頼むので、和尚に話しますと了承して石井家に紙を置きましたところ、投げ筆で描かれた龍の絵は尻尾二つに分かれていました。

 

これを見て和尚は「今に家は二軒に分かれるよ」と申しましたが、現在増築してその通りになっています。

 

神変2 雨に濡れない

 

大佐の家に遊びに来る将校連中の間にも、不思議な和尚の存在が噂に登るようになってきました。ある日皆と話をしていたら、和尚が一度隊内を見たいと頼みますので「午後4時以降なら暇だから来い」と申しましたら翌日参りました。

 

中を案内して二人で営門から帰途につきましたが、あいにく雨が降ってきました。雨具は二人とも持参していなくて、雨はそれほど強い降りではありませんが、家まで距離があるので相当濡れるのです。

 

和尚が「早く早く」と言いますので、急ぎ下宿について驚いたことは私も和尚も共に濡れていないことでした。

 

神変3 巡査の足の切断

 

和尚は大変巡査を怖がります。話によると石川県であまりに不思議な事をするので、警察に連れていかれ取り調べを受けて巡査に足を蹴られました。

 

その蹴った巡査はその晩から足が痛みだし、やがて爪先から腐り始め遂に病院で膝下を切断したそうです。又他の事件で免職になって,乞食同様に落ちぶれていきました。

 

和尚は取り調べ中弘法大師の悪口を言われて、自分のことはともかく大師への悪口は許せないと憤慨していました。

 

神変4 人の体に墨を付ける

 

ある朝宥明上人の兄(兄は欲深くて、無欲の上人からお金をよくせがんでいた!)自宅に来て、「宥明が止まっているか?」とソワソワしながら訪ねてきました。

 

「今いません」と答えて、その落ち着かない様子を見て「何か急用ですか」と尋ねると、「私の顔に墨を付けました」と顔を指さすと、右の顔に髭らしき墨がついてどんなに擦っても取れないそうです。それで弟のせいだなと駆け付けた次第です。

 

和尚がだれかに墨を付けてやろうと思ったら、その人の皮膚に墨が付いて洗っても落ちません。和尚が紙でその上を拭いますと綺麗にとれるのです。

 

大佐はどうやって墨が付くのか観察していたら、大佐の煙草盆(たばこぼん)の片面を木炭でごしごし擦って、それを払いながら付けたい人に思念を送れば付くのが分かりました。

 

神変5 空中移動

 

和尚が連隊に遊びに来て高所にかけてある梯子を下駄のまま登りますので、下から「危ない危ない」と声を掛けましたら、かなり高い所からそのまま飛び降りました。

 

その時連隊長も一緒でしたので、多分連隊長も危ないと叫んだと思います。しかしそのまま姿が見えなくなって消えてしまいました。

 

すぐ下宿に帰りましたら和尚は火鉢の前で煙草をふかしながら、私を見て「どうだ連隊長さんも驚いただろう」と申しておりました。「今度は軍艦の帆柱から、華族様の目の前で飛び降りて見せたい」とも言っておりました。

 

神変6 水面を歩く

 

和尚が福島の町から伊達に行くには、どうしても阿武隈川を渡らなければなりません。和尚が船で渡ろうとした時には、大勢乗せた渡し船が、ちょうど岸を離れて出発した時でした。

 

和尚は例の茶目振りを発揮するつもりだったのか、川の上をすたすた歩いて向こう岸に渡ったそうです。「船の乗客がこれを見て驚いていたよ、実に気持ちがよかったね」と話していました。

 

そこで大佐は「それなら、この自宅前の池を今すぐ歩いてくれ」と言いましたら、「 訳はない 」とそのまま下駄をはき、池の上を歩いて向こうの便所の方へ行きました。

 

大橋大佐の妹の話

 

大佐の妹で平田満恵という方の話がありますのでこれも紹介します。和尚は妹さんを可愛がっていたそうです。

 

私が初めて宥明さんとお会いしたのは、19歳の時で兄が山形連隊に勤務しているときの知合いということで、最初は薄気味悪く思っていましたが、実際は誠に子供のような純真な方です。

 

又半面恐ろしいところもお持ちでした。非常に私を可愛がってくれて「投げ筆をしてやるから」と申されました。

 

少し離れた4畳半の床の間に紙を置き、私を別な場所の縁側に立たせて私の後ろから筆の先にちょっと墨を付け、光明真言を唱えながら私に筆を持たせました。

 

「それ投げろ!」と言われて投げましたら「それ!叶ったぞ!床の間の紙を取ってこい」と言われ、離れた部屋の4畳半の紙を取ってきて広げてみると、なんと紙の中央に梵字が書いてあり上にはカラスが2羽描かれています。

 

この時和尚の申されるには「このカラスは良い事があると、家人に聞こえるように3度鳴き、悪いことがあると家人に聞こえるまで幾度でも鳴くから気をつけているがいい」との事です。

 

私が平田家に嫁いでから何年か経ち、ある時茶の間で子供と話していたら「ジイージイージイー」と3度鳴きました。初め何かと思いましたが、投げ筆のカラスが鳴いたのだということが後で分かりました。

 

それは「主人の勤務が岡山に変わった時でした」と続きます。恐らくご主人の栄転でしょう。

 

妹さんはかなり不思議なことを他に数多く体験されていますが「話しても誰も全く信用してくれないでしょうが、正しく事実そのものです」と書かれています。

 

* 尚高橋宥明上人のことは検索すれば見られますのでご興味のある方はお調べください。

 

この世には常識では測れない世界があることの事例です。今後世界の大変動に際して、新しい時代に入るには、今の三次元・物理世界の考えだけでは乗り越えられないと考えます。

 

これらの事例は見えない世界と無限の可能性を人が本来有していることの理解に役立てていただければ幸いです。

 

「2028年頃から、透視能力、空中浮遊、瞬間移動、念力等の特殊能力を持った子供達が多く生まれ、これらの超常力が一般的レベルまで認知されるまでになるだろう」とスピリチュアルで有名な並木良和さんの言葉もあります。

 

超常力が不思議な力ではなく、当り前の世界になる日が来るのが今から楽しみです。

 

原田 祖岳(はらだ そがく) 

1871年福井県小浜市生まれ 1911年から1923年まで駒沢大学教授 曹洞宗の修行法を基本として、臨済宗の公案修行を取り入れた折衷派として知られる。非常に厳格な人物で90歳まで接心を指導した高名な禅僧。

 

 

必ず治る⑭ 宗忠教祖の病説法

宗忠教祖の病説法について 「いのちの教え」山田 敏雄著より抜粋 

 

心を強くすることの重要性

 

宗忠教祖の高弟河上忠晶が著した「宗忠大明神御伝記」に病を得た時の心構えを,説いた宗忠教祖の説教です。現代でも十分通じる内容になっています。

 

 

そして黒住教の教えは「祈れ、薬(くす)れ」と祈りと薬の活用の両方を、病気治しに最大限活用する立場をとっています。

 

このブログでは、心を重視した治し(なおし)を参考として紹介していますが、最新医学を軽んずる考えは毛頭ありません。医学上薬で治る病気は当然ながら使用すべきです。

 

宗忠教祖も薬等は積極的に使用されていましたが、病気になった人の心理に対して次のようなアドバイスをされました。

 

病気の際の心構え

 

『 皆さん、身の悩みはどれほど耐え難くても、それをものともせず、思いをしずめて、わが魂を動かさないようにすることを、病気にかかった時のこころ構えとしなければなりません。

 

世間の人は体だけを大事と思い、心の大事なことを知らないから、体の養いは厚くもてなしても、心の養いは薄くします。

 

心が主であり、肉体は従です。

 

たとえば心は正実(しょうみ)であり、体は粕(かす)です。粕を尊んで、正実を軽んずるのは本末転倒です。心が強ければ体も強いのです。心が弱ければ体も弱くなります。

 

心の弱い人は、病気のために自分の体を失うことを、ついつい恐れて、心を悩まし苦しめるために、心はいよいよ弱く小さくなっていきます。体が弱くなれば、薬も役に立たない程になり、もろくはかなく体も消えてしまいます。

 

若死にと長寿の分かれ目になる境目があります。それが「とどまり」という考えです。

 

その「とどまり」とは、病気で体が亡くなることを恐れる思いを打ち捨てて、病気にかかっても心に思わない気にしないことです。

 

世の中の死者の大方の原因は病気を恐れる思いが深くて、薬よ! 鍼よ! 灸よ !と心配するあまり大事な心を弱く小さくするためです。本来ならば100年後まで保つはずの身を、夕べの露としてしまうのです。このことをよくよく心得てください 

 

以上

 

この説示では[肉体は従であり、心が主である]ということです。これは全くその通りです。このところをよく理解してくださいと詳しく説いておられるのです。

 

白隠禅師が夜船閑話での説教で「少しの病気を、あたかも重病のように深刻に考え、気もそぞろになり精神の安定を欠き、その結果本当に重病に陥ってしまう」ということと全く類似しています。

 

病気になったら、くよくよ心配する癖がついて逆効果になっていることを反省しますが、一念発起してこころを強くする習慣づけをしたいと思っています。

 

 瀕死から生き返った伊東左兵衛の奇跡 

 

宗忠教祖がある弟子にあてた手紙に伊東左兵衛なる人物が臨終の床から生き返った例があります。

 

「この5月頃、伊東左兵衛殿が26年来のりゅういん(胃の病気)で治療の施しも出来ないくらいの重病になられました。治療もいろいろされましたが、その効果もなく食も薬ものどに通らなくなり、お亡くなる寸前までになりました。

 

ご本人も覚悟を決められておられましたが、私(宗忠教祖)に頼みがありお話をさせていただいたきましたので、ご本人に向けて

 

『ご覚悟はもっともです。しかし「病を気にして心を痛めてはなりません。心は天照大御神と一緒ですから天にお任せする」ということに気持ちをお決めください。

 

そうすれば病気もすぐ治ります』と申しましたところ不思議にも26年来の病気がそのまま治りまして、20日振りに藩邸に出勤されました。まことに夢のようです。」という内容です。

 

病は気からといわれますが、たとえ瀕死の状態でも教祖の教えを信じ切ることで奇跡が起きたと言えます。このような奇跡譚を軽んじてはならないです。

 

 

旧石器時代~縄文時代からの太陽崇拝

 

下記を爽やかな日の出時に、昇りゆく圧倒的エネルギーの太陽を見ながら、祈り唱えますと実に気分が爽快に、晴れ晴れとします!日本人に生まれて良かったと実感します! 

 

天照大御神様!(アマテラスオオミカミ)様 

 

 どうぞ* わがご分心(ぶんしん)を

 昇る朝日のようにもっと大きく 

 いきいきとしっかりお鎮(しず)めください。* オーー オーー オーー

 

* オーオーオー(神へのごあいさつ。オーは長く伸ばしてオーーーーと真剣に心を込めて発声すれば本当に神と会話できるような気持ちになります。実際に発声する必要はありません。)

 

尚上記以外唱えやすい言霊を各自創作しても構いません。大らかな気持ちで5~6回 (心の中で)唱えます。又雨雲の場合でも日の出・日中時間いつでも出来ます。

 

 

 

古神道霊験秘話より 大嵐の中のご神事

古神道霊験秘話より 大嵐の中のご神事

 

 

   この話は、海上におこける神事に起きた非常に不思議な話です。

 

上記の古神道霊験秘話には不可思議な話が多く載っていますが、特にこの海上神事は滝沢宮司が「あまりにも不思議なことなのでここに記(しる)しました」と述べられています。尚滝沢宮司は全国150近くのご神事を奉仕されてこられた方です。

 

  神事の目的

 

 

この神事を執り行うことは神界からの御使命によるもので、高千穂神界(伊勢神宮の御神璽が高千穂山頂に鎮座されている)と海洋神界との一大結縁の最重要神事です。

 

その目的は魔性の海洋浄化を目的として人類滅亡阻止、地球救済の大神策です。魔性の反撃が強力であるため、魔払いの秘法を神々より授けられていました。

 

滝沢白竜宮司は昭和29年9月18日夜八幡神社大神よりお呼び出しがあり神社に参拝いたしますと、八幡神社の大神と豊玉姫大神がお出ましになられ、山川沖海神界神事の御示しが下されました。

 

山川港より出発

 

宮司は山川港より神事の目的地の神之瀬(かみのせ、開聞岳と佐多岬神社を結んだ線の中間点、鹿児島湾入口。鹿児島湾内の神瀬灯台ではない)に向かいました。

 

神之瀬は海神の竜飛命(りゅうひのみこと)が祀られています。引き潮時に波の上に岩がわずかに出るところで、出入りの船は用心深く航行する場所です。

 

出発時は晴天無風の理想的な日和で、皆この恵まれた天気を祝福していたのです。山川港から参加者全員出発して、船は静かな海を順調に目的地に向かって行きました。

 

突然大嵐に遭遇する

 

かれこれ15分位走ったかと思う頃何の前触れもなく、突然爆発が起きたような突風が吹き始め大暴風雨となって海が逆巻き真っ暗になって荒れ始めました。

 

この山川沖神事は神より「可成りの邪魔を覚悟せよ」と明示され、神界重秘の「破邪の剣法」を予め伝授されていました。

 

これが魔性の大反撃とは気づかず、いわゆる自然現象とばかりに思い込み宮司は船酔いの最中でした。「まったく霊的には素人同然で恥ずかしい次第です」と後に言われています。

 

相当大きな船に乗っていましたが、大揺れに揺れて沈没の危険もあり全員が真っ青になったのです。

 

大波浪が逆巻いて船は大波で突き上げられ次は逆落としにどしんどしんと海面に叩きつけられ、不安と恐怖で婦人子供らは「キャー助けてー」の叫び声が船内に次々と上がりました。

 

嘔吐する者もいれば、もう中にはぐったり死んだように船の揺れに合わせて右、左にごろり、ごろり動く者もいます。宮司は激しい船酔いの為10回以上の反吐を繰り返し、それをチリ紙で拭いぐったりと壁に寄りかかっていました。

 

この異変を鎮めるには祈願修法をするにもひどい船酔いのため思うように出来ません。そのとき家内に「もしものことがあれば、私達の責任ですよ!」と強い調子で言われましたが、もうどうにもできない状況です。

 

佐多丸の船長は「鹿児島湾で相当長い年月航海をしているが、こんなひどい嵐は始めてだ!」とのこと。

 

上甲板の上にある船長室の窓ガラスが大波浪で叩き割られ、血だらけの手で舵(かじ)を握って操縦しています。神事に血は厳禁、魔性の神事への大反撃です。

 

しばらくすると水先案内人から「着きました!」の大声が上がりました。その瞬間我に返って大揺れの船室を這いながらやっと船長室に安置してあった神物と神饌を手にもって、よろけそうになりながら甲板に移動できました。

 

「山川沖の大神様、現場につきましたが、ご覧の通り正式の祭典奉仕ができません。左舷にご神物、ご神饌を放り込みますからお受け取り願います!」と丁寧にご祈念しました。

 

一転 静かな海になる

 

そして逆巻く怒涛の中にドブンドブンと放りこんだのです。そうしますと今の今まであれほど猛り狂っていた暴風雨が、ものの見事に瞬時に消え去り、出発時と同じく無風晴天に戻ったのです。

 

それはまことに魔術みたいでした。一同この信じられない現象に気が抜けたようにポカーンとして、口もきけないほどです。

 

これはこの場に居合わせた者でないと、とてもその暴風雨から突然無風晴天に変わった状況がつかめません。

 

やがて方向転換して山川港へ帰り始めたころ一同がやっと正気を取り戻しはしゃぎ出し歌さえ出始め、まさに地獄と天国を味わった気分になりました。

 

そして山川港に帰り着いてみると、雨の跡が僅かにぽつぽつあるだけで平穏そのものです。我々があれほど悩まされた大暴風雨など全く別世界です。

 

神のお導き

 

真っ暗な暴風雨の中をどうして目的地までたどり着けたか、その理由を滝沢宮司は次のように述べています。

 

今回の水先案内人は黒島玄吉氏で九州商船の課長さんです。鹿児島湾入り口の神之瀬を正確に教えてくれたのもこの方です。

 

大嵐の暗黒な中で全く見通しがつかず、船長の勘だけを頼りに進行していましたが、黒島氏がそろそろこの辺りではないかと船長と話をしていると、真っ暗闇の前方300メートル先に直径3メートルほどの黄金色の柱が立ち、こうこうと海面を照らし出したそうです。

 

「あそこだ!」と船は猛スピードでばく進して、船長室より「着きました!」と叫んだ次第です。これは正に神のなされる業(わざ)です。ご神事決行を魔性から守り給うご神徳です。

 

いままでの神事ではこうしたことはしばしば起こっていましたが、これほど激しい魔性の反撃に出会ったのは稀な事でした。

 

さすがは高千穂神界と海洋神界の結縁線を、邪魔して断ち切ろうとする魔性の反撃は想像以上です。魔性はこのご神事を邪魔するために大暴風雨を起こしたわけです。

 

その後八幡神社に参拝してこの度の山川沖神事の目的達成をご報告いたしますと、大神が出てこられご機嫌麗しくニコニコ顔でねぎらわれて「ご苦労であった。汝に褒章(ほうしょう)を取らす」と仰せられました。

 

そして目も覚めるほどの黄金の御装束一揃いをお授けになり、無事海洋神事が完了したということです。

 

尚滝沢宮司はこの大事な神事前に準備として「神々のご啓道により慎重なる祈念、修法と無言潔斎21日間」という朝に夜に厳重な修行を神より課せられた記述があります。

 

滝沢白竜宮司のように以前から世界平和と繁栄のために人知れず各地で神事を、長年重ねてこられた多くの方々のご奉仕に対して深く衷心より感謝いたします。

 

そして新型コロナからウクライナ戦争、今の大激動期に向けすでに70年近く以前から、周到に世界平和に向けてご神璽活動を長年真摯に継続された滝沢白竜宮司に頭が下がります。

 

* 滝沢 白竜(たきざわ はくりゅう)  明治42年長野県生まれ 戦後に神道天行居の鹿児島教会長に就任。昭和49年奈良県葛城山麓に葛城天剣神社を鎮座し、同宮司に就任。古神道の昂揚運動に尽力した。神道活動は50年以上に及ぶ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

必ず治る⑪ 接種した方へ 自然免疫力復活

 

 

必ず治る⑪ 接種した方へ 自然免疫力復活

 

 

 

 

 

 

 

これから接種の後遺症は増加していくと思われますので、上記の「日の出健康法」と共に参考にして下さい。

 

人の自然免疫力に重点を置いた治療法です。今後もっと多くの人に注目され 驚くべき効果も発表されると期待しています。「必ず治る」とタイトルにはありますが、むしろ後遺症からの「苦痛軽減」を目的にしていますのでご了承願います。

 

勿論究極的には本人の意思と決意次第では、後遺症から「治る」即ち「脱却できる」と信じています。ワク打ちの細胞の中の遺伝子レベルでも変革できる可能性があると信じています。

 

以下日拝治療法も参考にして下さい。又健康の秘訣も書きました。

 

必ず治る➂ 日拝治療法

必ず治る④ 日拝治療法

 

   健康になる大きな秘訣は、一言でいえば余りクヨクヨしないことです。

 

黒住宗忠教祖は善人にありがちな正直で真面目一方ですが、小さな事をいつまでもクヨクヨと思い悩む傾向のあることを、特に無くすように指導されました。

 

そこで歌われた句があります。

 

      むずかしく思うこころぞ地獄なり 

 

                やすく楽しきこころ極楽 

 

極端に言えば小さい事をクヨクヨ悩むくらいなら「大泥棒の石川五右衛門の豪気」を学べとまで言われています。

 

何か自分自身のことを、ズバリと言われているような気がしてならないのですが、とかくスピリチュアルな面に関心の高い人は純粋な反面、繊細で傷つきやすい神経を持っています。

 

この細かさが、健康や運命に少なからず影響しています。やはり心の強さ雑草の強さは必要です。意識して、訓練次第で強くなることは必定です。

 

こころの持ち方次第で、人生はどのようにも変わる

 

宗忠教祖自身小さい頃より、神を目指されたくらいですから、真面目過ぎるくらいの性格で繊細な方だったと想像されます。そのため大きな病を招き、死ぬ寸前まで事態は悪化したのです。

 

そして絶対絶命の状況下において全て天にお任せの心境になり、太陽のご陽気をいただいた途端にガラリと局面が打開され、別次元の歓喜の境地になられました。

 

このことはこころの持ち方次第で、人生はどのようにも展開していくということです。

 

宗忠教祖も「こころ一つにて苦楽は勝手次第なり」、「海あれば山もありつる世の中に、狭き心をもつなひとびと」と表わされています。

 

笑いで大病が治ってしまった話

 

心の持ち方次第で病気が治った面白い話があります。

 

宗忠教祖がある病人に向かってこう仰ったのです。「あなた様の御病気は、自分で治せます。まずあなた様の周りの立ち込めた陰気を、吹き払うために大いに笑ってください。今日から笑うことに努めてください。」と言われたのです。

 

当の病人は「笑えと言われても、おかしくないのにどうして笑うことができるのか」と思っていたそうです。

 

それでも治りたい一心で笑おう笑おうと努力しましたが、どうしても形の上でしか笑えませんでした。

 

そのことで悩んでいましたが、ある夜ローソクの明かりで笑おうとしていた自分の顔の陰が、障子に滑稽な姿にふと写りそれを見て思わず大笑いしました。

 

その笑い声に家族が夜間に何が起きたのかと集まってきて、笑いの理由が分かったら全員大笑いになって、一気に陰気な雰囲気が払われ実際に病気がすこしづつ治っていったということです。

 

現代でも笑いの効果は医学的に研究され実証済みですが、やはり分かっていてもなかなか笑えないものです。

 

ただ心の持ち方を変えていくには笑いは工夫次第によって習慣化でき、体と精神にとって最大の有効な方法であることは疑いのない事実です。

 

笑いはクヨクヨ善人が、強く変わるための最大の武器となるでしょう。

 

古典落語、お笑い番組、笑いのサークル、川柳等、笑いの修行は楽しくやれば、幸運をもたらし病気も治し、くじの一億円当選をはるかに上回る効果があります。

 

ひとつの例ですが、笑いを習慣化する方法としてかなりの効果が見込めるやり方があります。

 

大黒・恵比寿の木彫りの面を、部屋に飾ってあるだけでも笑いが自然に喚起されます。

 

木彫り面を、毎日せっせと磨き、愛着が自然に湧いてくるように大事に扱います。飛騨高山の少々値が張る木彫り面をお薦めします。

 

 

面を見て腹の底から笑いの練習をやり続けると、いつの間にか本人の潜在意識下にしっかり刷り込まれるそうです。

 

そうなればしめたもので病気も治るし、運気も上がるのは間違いありません。まさに 笑う門には福来るです。

 

他にもいろいろあると考えられますが、工夫すればなにかいいヒントが得られるでしょう。

 

 

 

 

必ず治る⑨ 宗忠教祖の天命直受

文化11年11月11日冬至 日の出時刻の 天命直受!

 

教祖は一息毎に感謝され、一日毎に有難さに溢れて過ごされました。 やがてお風呂に入ることができるまでに回復され、その後に完治されたということです。

 

そのときのご様子は星島良平著「教祖宗忠神御小伝」に「強いて湯あみして、日の神を拝し給うに、長年のやまい朝日に霜の消ゆるが如く、一時に全快し給えり」と書かれてあります。

 

瀕死のご日拝から2か月目のことになります。 教祖はすぐ床上げされ、今村宮にお礼参りをされましたが、途中出会った村人は「黒住の旦那様のゆうれいが出た」と皆がびっくりした話が残っています。

 

それからの日々は、天命直受の日まで喜び溢れて過ごされたとされています。

 

 天命直受

 

文化11年11月11日冬至朝 いつもの通りお祈りを捧げられていましたが、山の端から昇ったお日様が突然大きさを増し教祖めがけて飛び込んできました。

 

教祖は思わずその大きな日の光を、そのまま「ごっくん」と吞み込まれました。

 

呑み込まれた時の気持ちは大歓喜大感激され、到底言葉に形容し難いほどの大きな喜びであったとのことです。

 

三日三晩呵々大笑(かかたいしょう)されました。家の前を通る人にも聞こえるほどの大きな声で笑いつづけられました。

 

古来禅の達人たちの大悟された時の呵々大笑の様子が、いろいろありますがさすがに3日連続の呵々大笑は、記録にないと思います。

 

禅の悟りでは長年の修行後悟って嬉しさのあまり、一晩中池の周りを踊り歩いたとか、

 

寺の境内の古い大木一本一本が「おめでとう」と歓喜中の本人に、語りかけてくれたとか、

 

全宇宙が、祝福してくれるような別次元の喜びと表現されています。

 

教祖宗忠神御小伝には「その年の冬至の朝、日の神を拝し給うに、陽気胸元に徹し、有難く、嬉しく、思わず日の光を呑み給いしかば、心にわかに快活(いさぎよく)になり、初めて天地生々の活きものを摑まえ給えり。教祖35歳の御年なり」と書き記されています。

 

 太陽の恵み 

 

 

教祖は「我元来父母の死を悲しみて心を痛め、陰気になりしより大病になりたるなり。面白く、楽しく、心さえ陽気になるならば病は自ずから治るはずなり。」と天命直受という神人一体の境地を会得されました。

 

「一切万物の親神が、天照大御神であり、人は天照大御神の分け御霊(みたま)をいただいている」ということを悟られたのです。

 

釈迦は大悟の際金星が口に飛び込む経験をされ、又空海も明けの明星を同じく飲み込む経験をされました。

 

我が尊敬する五井先生は、宗忠教祖をとても尊敬されていました。おそらく歴史上稀なる神人が、わが国にお生まれになったと言っていいでしょう。

 

船が沈没を免れた話

 

嵐の海をあわや船が沈まんとする時に、その船に乗船されていた宗忠教祖が和歌の懐紙を嵐の海に投げ込まれて、一瞬にして海が静まって船が沈没を免れた話があります。この話はこれで終わりません。

 

当時付近の小舟も嵐に巻き込まれて、中には沈んだ船もありましたが、たまたまその沈没船に乗っていた人の話です。

 

船がどんどん沈んでいって、それから人だけ海底から海上の上空まで、一気に5~6メートル近くも、投げ出されるように上昇し奇跡的に助かった話があります。

 

後で助かった人伊東定三郎がどうして助かったのか分からず、助かったのは別な船におられた教祖のおかげだと後から知り、熱心な信者になられました。

 

このようなお働きの神人誕生が、天命直受でした。

 

 神人とは

 

ここで神人という言葉は「太陽の神人」の作者山田雅晴先生によると、歴史的神秘家 ルドルフ・シュタイナー、イマニュエル・スエデンボルグや偉大な霊能者とはもう一段上の人類の師といった釈迦、キリスト級を指しています。

 

恐らく日本ではあの空海と双璧をなす別格のお方と考えられます。

 

 共に目指そう

 

小生は学生時代から悟れば真の歓喜があることを、禅から学んで知っていました。

 

呵々大笑の底抜けに明るい世界は、師からよく聞かされたものです。禅の古典類は悟りの歓びと高い境地が多く書かれています。

 

その歓喜の世界に憧れて坐禅からその喜びを得ようとひたすら坐禅に励んだ時期がありましたが、結局果たさずじまいに人生を終わろうとしています。

 

せめて教祖の万分の一でも本当の活きものを掴まえ、頭ではなく確かな実感として神人一体の境地を掴みたいと願っています。

 

 

 

大変動時代への移行 自分軸で行動する

 地方から世界へ

 

 

 

宗忠教祖の目指された理想は、日本だけではなく、世界中の人々が、幸福になって欲しいという念願をお持ちでした。

 

それを裏付ける話があります。信者の備前藩の大阪蔵屋敷の目付だった三沢左兵衛は、教祖が、当時備前や作州といった田舎ばかりをお説きになって、大阪のような大きな町で、お説きになることは、されていない事を、もったいないと思われていました。

 

三沢氏は、大きな町で、お説きになれば、道は次第にもっと、各地に広がるだろうと期待されたのです。

 

そこで、教祖に大阪での布教を、懇願されましたが、教祖は「ご厚意有難うございます。私は、田舎ばかりで、効果が、あがるかあがらないか、そんなことを考えている暇はありません。

 

私は、たとえ一生田舎回りでも、多くの人を見捨てて、大阪、京都で働く気にはなれません。三沢さん! 恐れながら、天照大御神の大道は、やがてわが日本のみならず、世界中の国々で皆が、信じる時が必ずまいります」ときっぱりお答えになったと伝えられています。

 

 

この話は、天照大御神の御徳は、いずれ世界中に、必ず及ぶと信じておられたと思います。

 

 

 大変動期を迎えて

 

 

今世界は大変動期に入っています。政治、経済、金融、医療、教育、宗教、すべてが根底から変わろうとしています。

 

新型コロナを契機として、ウクライナ戦争、政情不安等から、人類は大激動に突入し、2極化を経験して、新世界に向かっています。

 

いままでの上からの指示に、盲目的に従い、周りを気にして、空気を読むことだけに長けた同調時代は、終わろうとしています。

 

 

 自分軸で考え、行動する時代です。

 

 

今の日本のテレビ報道・新聞記事だけに、しがみ付いていては、世の中の真相は、何一つ分かりません。

 

世界は、大変動を迎えています。根底からひっくり返る想像を超えた世界に向かっています。

 

この激動期に、天照大御神のお力が、いよいよ発揮される時代が到来していると実感しています。

 

日本人として生まれ、日本から世界に向けて、我々は、今大和の調和と愛を発信するタイミングが来た!そう信じています。

 

この大和魂が他国からの侵略を防ぐ唯一の力となります。いつまでも平和ボケしては国土は守れません。

 

宗忠教祖は、世界に向けて、大御神の調和と愛の力が及ぶことを、確信しておられました。

 

 

 大転換点時代の働きかけ

 

 

その大いなる働きが、ご誕生日から240年後の今日に、実現される時を迎えたと思います。

 

2020年は、お生まれから240年経過して、還暦60年を4回数えて大還暦を迎えられました。2020年は、占星術のグレート・コンジャンクションにあたります。

 

地の時代から、風の時代に移り、大きく時代は変容していきます。すべて人智を超越したタイミングでのお生まれの不思議さです。

 

お生まれが、冬至の日の出時刻、天命直受が冬至の日の出時刻、大還暦が、数百年の変わり目のグレート・コンジャンクションです。

 

 「太陽の神人」の山田 雅晴さんによれば、宗忠教祖は時霊(ときたま)の要請によって出現され、歴史的な大きな役割を、担った存在であると述べられています。

 

700年続いた武家社会から、明治新政府への大きな時代の転換点に活躍されました。

 

今地球的視点から見ると、お生まれの星回りから、地の時代から風の時代への今大転換点時に、天界で、働きかけておられるように感じます。

 

 

太陽の恵みで病気を治す

 

 

現代においても、太陽が、多くの人の病気・難病を治して、それを契機として太陽の恵み即ち天照大御神のお力を、信じる方も増えています。

 

健康は、お金より大事です。健康と心のケアに太陽の恵みは必須です。

 

個人から人類へ! そして宇宙の大調和まで、無限の恵みが広がります。

 

 

 

 

国難突破 日本人のほとんど知らない歴史秘話

国難突破  物語「赤木 忠春」より  日本人のほとんど知らない歴史秘話

幕末の国難についてまだ多くの方が知らない歴史秘話があります。それは蛤(はまぐり)御門の変のことです。

 

1864年長州藩は兵を率いて入洛し武力をもって京都御所に押し入ろうとした事件です。事前に京都守護に当たっていた会津・薩摩の兵と長州の兵が衝突して、京都中が全焼の恐れがありました。

 

戦いが始まり孝明天皇のお住まいの御所近くに、砲弾が落ち御所内が大混乱に陥りました。

 

このままでは天皇に危険が及ぶ恐れがありましたので、御身の安全のため比叡山へ一時逃れる案が討論されました。

 

結局結論が出ず斉明天皇が普段敬愛しておられる宗忠神社に「この大事をいかが思うか」とご神慮をお伺いになることになりました。

 

 

 

 

国難を救った赤木忠春高弟 今まで殆ど知られていない幕末の秘話です。我が国は天照大御神のご加護で救われてきました。

 ご動座無用!

 

御所の使者が神楽岡宗忠神社に早馬で向かい「主上のご動座いかに? ご返事あれ!」と問いますと、

 

事前からこの件を潔斎して祈念していた赤木忠春高弟は

 

「主上のご動座無用!万一ご動座なされば、天下麻のように乱れましょうぞ!断じてご動座なきように!」と大声で使者に返事されたということです。

 

孝明天皇は比叡山への避難を即座に中止され御所内に留まることになり、その結果薩摩・会津連合軍が勝利を収め長州藩が朝敵になったのです。

 

孝明天皇は日頃から宗忠神社の宗忠教祖を深く敬愛しておられ、

 

   玉鉾(たまほこ)の道の御国にあらわれて、

      日月(ひつき)とならぶ宗忠の神 

 

と伝えられている歌をお詠みになったくらいです。御所内で緊急事態が起きるたびに宗忠神社を正式な勅願所としてご神意をお聞きになられていました。

 

このご動座中止の御判断が京都を救い、ひいては明治維新の歴史が大きく変容したかもしれない可能性を阻止できたことになりました。

 

もし比叡山へ動かれたら会津・薩摩の連合軍は戦意を失い、戦いの形勢は逆転し混乱の極に達し、御所と京都は火に包まれ日本の歴史は大きく変わっていたことでしょう。

 

神楽岡神社は「天照大御神とご一体の宗忠教祖を祭る神社」です。そこで命掛けの祈念をされた赤木高弟は大御神・宗忠教祖からのご神慮による動座中止を宣言され、そのことが京都や日本を守ることになりました。

 

この事実を知る人は少なく隠れて表に出ておりませんが、実は日本にとって大きな出来事でした。

 

まさに天照大御神がわが国を守る宇宙大の働きのご発動でした。こうして神国日本は天照大御神より守られ、しっかり守護されていることを国民は感謝しなければなりません。

 

2024年以降 日本は新たな国難に向かう!

 

今後国内外の状況が複雑化して災いが我が国に及ぶ状況になっても、国民が一つになり大御神の下に我が国土を必死に守っていくことが大切です。

 

2024年秋中国による台湾有事や感染症爆発も想定されます。又自民公明の退潮で政権の交代時期でもあります。どうなるか分かりませんが、このような国家的危機に対して、国民はどう対処すればいいのか真剣に対処すべき時期が差し迫っております。

 

意識を変えて国民の力を結集すべきです。一致協力し国難を乗り越えて、平和国家を目指すべきです。

 

今後我が国は世界を平和に導く世界のリーダーになろうとしています。日本は世界と地球を救う重大なる責務を太古の縄文時代から、大和国の運命として背負っております。

 

日本なくして地球の平和はあり得ない。ここを自覚して古代からの霊的エネルギーを継承して発揮する時代が必ず到来します。

 

恐らくそのような新時代が到来するまでに、地球上の人類は相当の割合が消えていなくなるでしょう。極めて厳しい淘汰をくぐり抜けて、どうしても子孫のために生き通さなければならない。たとえわずかな生存者であってもです。

 

勿論日本という国だけではなく、地球そのものも天照大御神から守護されてきました。それは古代人の太陽崇拝の痕跡が、世界中のあらゆる遺跡から多数見つかっていることが何よりの証拠です。

 

宗忠教祖は太陽を生命ある愛の意識体として見ておられました。教祖は自らの心を悩ますことが親神の大御神をも傷つけるものとお考えでした。単なる物質的核エネルギーではなく、人の心に多大なる影響を与える祖神です。

 

「本(もと)を忘れまいぞ。その元と申すは畏(かしこ)くも天照大御神の御事なり。誠に尊きこと極まりなく、有難きこと限りなく、天地の間一切を生じ一切を司(つかさど)り、

 

一切を統(す)め給う大御神にまします。ご神徳によれば一切何事も成就せずということなし」と宗忠教祖は称えておられます。

 

というのも我々は3次元の物質主義の考え方を、そろそろ卒業しなければならない時代を迎えています。五次元の新地球(精神世界)への移行期に今いることを我々は意識し、行動しなければなりません。

 

そうして尊い地球を平和に導き、明るい世界を築くことがわが日の本大和の大使命です。

 

⑨大いなる奇跡と霊験について 数年間雨が降らない史上空前の壮大なる奇跡!

 

必ず治る④ 日拝治療法(2)

 

 

朝日を飲み込む (日拝治療法) 

 

朝日を見て、まずできるだけ長く静かに息を吐きます。それから自然に息を吸い込みます。

 

吸い込む際にゴクリと水を飲み込むように、下腹に息を静かに押し込むようにします。

 

そして呼吸を整えて手を合わせて深く感謝します。これを5~10数回繰り返します。

 

朝日だけでなく散歩中でも日が高く昇っても、お日様に向かって何回も行います。そして「有難うございます」と心の中で、お礼を言います。

 

そして病気を治したい場合は「必ず治ると信じること」が大事です。本当に治るのかどうか疑っては効果が半減します( 逆勢の法則 より)。

 

この一連の行為をサッと無理なく無心でやれる様に習慣化します。

 

 

 

*  感謝と呼吸はいつも一体化して行います。人や車が側を通っても、そちらに気をとられないように集中してやっていきましょう。

 

* 日拝で肉体・精神共に健康になられた方々は、過去数え切れません。この点は自分の体験上自信をもって保証できます。感謝して日の光をいただければ、必ず活きた力を授かります。

 

*うつ病や気分の落ち込みにも効果があるといわれるのは、お日様を見て脳内のセルトニンが活性化する為で、うつ病療法や気分を明るくするやり方として昔から日本や西洋で有名な治療法です。

 

聖なるお日様が全ての生物を育て成長させてくれることを肌感覚で分かるようになると、明らかに気分が変わって嬉しくなり感謝の気持ちが自然に湧いてきます。

 

又難病やワ○○○後遺症にもとても有効で、薬ではなかなか治りにくい病も治せます。「必ず治ると信じること」がポイントになります。

 

地平線からでる朝日を、この時だけは肉眼で見てもいいとされています。雲と朝日の姿は、毎日変わり我を忘れるほどの美しい風景です。

 

ただただうっとりと見つめています。日の出の際の燕の動きが明らかに違います。捕食活動ではなく、全身で朝日を楽しんでいます。

 

燕は高所から一気に急降下したり、群れをなしたり、鳥達の動きは新鮮で実に活発です。命の躍動が最も顕著に感じられるのは日の出の前後です。

 

我々日本人は遙か太古から日の出を尊く拝んで、信仰の対象にしてきました。日本各地の山頂には太陽崇拝の遺跡が多く残されています。

 

日本を始めエジプト、ペルー、オーストラリア、英国等全世界に太陽崇拝の古代跡地があります。われわれ現代人もこの習慣を取り戻して大切にしたいものです。もう一度心が清々しくなる太陽礼拝を取り戻しましょう!

 

日拝は大自然を全身で味わいながら感謝の気持ちが、自然に湧いてくるすばらしい健康法です。自分も日拝を人生の一大目標としています。

 

自分の庭から見える太陽を画像に載せました。皆さまも日拝を実地に経験して爽やかな朝を、十分に楽しんでください。

 

皆様のご健康をお祈りします!

 

 

 

 

次に呼吸法のやり方をもう少し付け加えます。

 

 自己の長い坐禅経験から言えることは、その人に適したやり方を自分流に工夫することも大事です。マニュアル通りにやろうとすると、どこかで無理がおきることもあります。但し自己の癖を放置せず、正しいパターンに合わせることも時には大事です。

 

矛盾することを言っているようですが、要はトライとエラーを繰り返しご自分が綿密に工夫して、無理のない呼吸法を見つけていくことです。それが継続できる秘訣となります。

 

世に健康法は無数にありますが、これだと決めたら継続していかなければ全く効果は期待できません。継続期間の一応の目安は3か月、3年、10年と思います。

 

* 小生は2019年末、圧迫骨折と抗生剤の副作用のため体調不調に陥り、一時うつ気味になりましたが日拝で回復しました。

 

日光はビタミンD等の重要栄養素形成に不可欠です。他にも日の光を浴びることは人体に多大の恩恵があることが、国内外の研究結果で明らかにされています。

 

尚2024~2025年は太陽フレアが最高ランクのXレベルまでになってきましたので、太陽フレアによる精神的、肉体的影響が最も大きい年と言われています。

 

必ず治る➂ 日拝治療法(1)

必ず治る➂ 日拝治療法(1)

朝日を飲みこむ 日拝治療法  

 

 

毎朝感謝して「*どうぞ我が病気が治りますように!」と心から祈り*朝日を下腹に飲み込むことを繰り返せば、病気の類は快方に向かいます。たったこれだけです! 感謝を忘れずに!

 

本当に治るのかという疑惑は不要です。筏(いかだ)仙人の話は疑惑を徹底してなくしています。又最後の右手すら放しています。つまり「疑いと臆病」な気持ちを断固排除する必要があります。

 

この「疑惑と臆病」をなくせば奇跡は起こり、或いは一度に治らなくても快方に向かいます。どうしても最後の決めどころは、本人の覚悟と決意にゆだねられます。

 

黒住宗忠教祖は心を活かせば、肉体も生き病気も治ると仰せです。又感謝の誠に徹せよと言われています。天へのお任せと感謝が全てになります。

 

太陽の自然療法

 

お断りしておきますが、hinomotoは皆さまに奇跡の事実と魂の在り方をできるだけ多くの人に知ってもらいたいとの願いの下に書いているだけで、インストラクターでもスピリチュアルでもありません。

 

このブログを見て自ら検証し、ご縁になれば幸いです。

 

太陽の不思議というか、天照大御神の活きたエネルギーを掴み取ることを目的としていますので赤木忠春高弟のように一発で掴むような方も、どこかにおられるかも知れません。

 

見えない世界が相手ですから、ご自分で納得できるまで十分に調査して取り組まれることを望みます。

 

新治療法について

 

そして近い将来に太陽の偉大なる力が病気・精神の具体的治療法として、人類のために確立されることを期待し祈っています。

 

最後に多くの人が、陥りやすい注意すべき点を申し上げます。

 

治りたい一心で、早く治してくださいの気持ち(焦り)だけが先行してしまいますと、自我が出ますので治らない結果になります。結局中途挫折してしまいますので、ご注意願います。

 

*人によっては「病気が治りました!」と過去形にするやり方もあります。

 

*太陽エネルギーは朝日と夕日が最も強いと言われています。最近(2024年~2025年)は太陽フレアが最大級のXレベルまでになっており、聖なるエネルギーの極限値に達して5次元地球へ移行中です。

 

人類の覚醒、集団意識まで太陽光の影響が及び、人類の心のあぶり出し(高波動調整)により闇の暴かれるニュース(政界・芸能界・実業界・各個人)が世間に溢れています。

 

必ず治る④ 日拝治療法(2)

 

 

 

 

 

 

 

必ず治る② 筏(いかだ)仙人の話

赤木高弟の開眼 筏(いかだ)仙人の話 

 

 

筏(いかだ)仙人の話

 

 

昔あるところに正直正兵衛という阿呆なくらい正直な男が、仙人の住むと言われる蓬莱国(ほうらいこく)に死ぬほど憧れて、そのような国に是非とも行ってみたいと思い焦がれていた。

 

会う人ごとに「蓬莱国は知らないか」と問い回り、ひたすら旅を続けていた。だが誰も知る人もなく教えてくれる人もいない。それでもひたすら諦めずに、とうとう出羽の国(秋田県)まで探しに行った。

 

そこで悪賢い米商人と出会って、米商人はこの馬鹿な正直正兵衛を騙して利用してやろうと考えた。しきりに探している正兵衛に「教えてやるが、それには3年間米を踏んで休まず働いたら、褒美として蓬莱国を教えてやろう。」とタダ働きをさせた。

 

その話を信じて正兵衛は無我夢中で懸命に働き約束の3年の日が来た。「今日で約束の3年が経ちましたので、蓬莱国を教えてください」とお願いした。

 

米商人はいろいろ思い巡らし、騙して働かせたことを白状するどころかこの男を殺し亡き者にしようと計画した。

 

「そうか約束の3年が来たな!今晩約束通り蓬莱国へ案内しよう。ついて来い!」と近くの断崖絶壁に連れて行った。

 

「いいか、わしの言う通りにしろ。あの木に登れ!」と命じた。その言葉を信じ切った正兵衛は、断崖絶壁に突き出ている木を言われるままに素直に登っていった。

 

そして登った正兵衛に向かって「足を放せ、左手を放せ」と次つぎに命令した。そしてとうとう最後に残った右手すらも放せと言った。

 

信じ切っている正兵衛は、その右手も放してしまった。そのまま谷底に落ちていったかに見えたその時、にわかに雲が現れて正兵衛をそのまま乗せて天の蓬莱国に運び去って行った。

 

後は天上の楽の音と芳香が漂い、悪意のある米商人の心も清めたという。これが筏仙人の話です。

 

 

筏(いかだ)仙人の話の真意とは

 

馬鹿なお人よしを騙(だま)す話に見えますが、実はとても深い含蓄ある内容の話です。禅に香厳上樹きょうげんじょうじゅ)という公案(師匠より禅学徒に課す問題で理屈では解けない超難問 )があり、それとよく似通った内容です。

 

この公案は禅の熟達者向けで、究明してもなかなか難しい上級者レベル(難透)として知られています。この禅問答のほかに、高い場所で両手を放す百尺竿頭の公案もあります。いずれもギリギリの心境を修行者に問いております。

 

宗忠教祖がこの話をされたのは禅問答の心境の側面からではなく人の誠(まこと)を取り上げておられ、「信じきることの大事さ、尊さ」たとえ相手が邪悪な心を持っていようともご神力に必ず通じることを述べておられます。

 

 

赤木高弟の大感激

 

 

赤木高弟がこの話に大感激されて涙を流され、その場で「8年間の失明が治り開眼された」のは有名な話であり、やはりそれだけの理由があるように思われます。

 

宗忠様のお力と赤木高弟の大感激の誠が天に通じたことです。結局信じ切ることは全てにかなうことになります。病気が治るだけではなく一切が成就します!此のことに全てが尽くされているようです。

 

終生 赤木高弟は宗忠様のご恩に深く感謝され布教行動に邁進されました。その後の行動がすべて宗忠教祖中心であったことは、高弟の歌に宗忠教祖への一途な賛歌が多い事に集約されています。又吉田神道への命がけの「大明神」請願行動もあります。

 

初めての説教で筏仙人の話に深く心を打たれ、神のご神徳を宗忠様を通して「おかげ」を受けられたことがすべてでした。学問があるが故に疑い深い知識人だった赤木高弟が、神への信仰に大転換された話です。

 

宗忠様の奇跡的治癒には、必ずといっていいくらい大きな感動と感涙が病人側にあります。

 

現代医学や物理世界・三次元世界をはるかに超越した神(天照大御神)・宗忠様と病人の3者の高い波長が瞬時に治癒を呼び込むのでしょうか。それが誠の世界なのでしょう。

 

筏仙人の話を理性的に判断すると単なるおとぎ話になりますので、真の意味は何であるかを問い何回も読み考え、噛み味わう必要があります。

 

高弟の開眼における奇跡は特定の人だけのものではなく我々凡人でも、皆等しく体験できるものです。神が人を差別するはずがありません。神の領域に人はだれでも入れる資格を持っています。

 

医者が匙を投げるような難病すらも必ず治せることは、すべての人に現れる現象ですしその人の信念によります「どうしても治したい!治してあげたい!あなたの一途な気持ちは神に必ず通じます!」

 

今後コロナ後に多発するであろうワク○○後遺障害にも役立つものと信じています。

 

諦めないで、挑戦してみませんか!治る訳がないと思わないで、奇跡を起こしてみませんか!」

 

 

 

 

 

必ず治る① 赤木忠春高弟 目がみえる!

必ず治る① 赤木忠春高弟 目がみえる!

 

 

 

 

 

 

 

 

現代医学ではとても考えられない想定外の事例(難病が治る)が、奇跡として起きたことです。

 

医者と薬だけが唯一頼りの今の世界からは、恐らくたわごとに近い話かも知れませんが今後もっと注目される治療方法になる可能性を秘めています。

 

「今後ワク○○後遺症が発生する恐れが生じる時期」にお役に立つことを願っています。

 

過去無数といえる位の数多くの奇跡的病気治しの例が、頻繁に起きたという厳然たる事実が信じ切ることに起きています。

 

以下紹介する話でhinomoto自身は黒住信徒でもなく、教会にも属してもおりません。又入会案内への意図も全く持っていません。このことを予めお断りしておきます。

 

ただ黒住宗忠(江戸時代後期の人 池田藩の一神主でした)個人を信奉しているだけです。お慕いしていると言ってもいいし、日本のキリストの再来とも思っています。

 

注目すべきはワクワク感重視の点で、あのバシャールの伝えたい言葉と宗忠教祖は共に共通な面が多々あります。そして「嬉しい、楽しい、わくわくの世界」を始めて唱えられた方でもあります。

 

又宗忠教祖は冬至に大変縁の深いお方ですし、今も宇宙のアセンションに働いておられるであろうと考えております。

 

自分の体の不調な時期に宗忠教祖と太陽のおかげで、ここまで治していただいたと心から感謝しています。自然のものすごい治癒力を腹の底から実感しました。

 

 

 

 赤木 忠春高弟の失明が治った話

 

 

赤木 忠春高弟と言えば黒住門徒の中でも、最初に名前を挙げられるほどの高名な方のお話です。この話題を取り上げたのは現代でも難病である緑内障を江戸時代に、薬も使用せずに即座に見えるようになった奇跡の話です。

 

赤木高弟は若い頃22歳から30歳まで8年間もの長い期間失明されて、暮らしておられました。その高弟が黒住宗忠教祖のお話を会場で聞いて大感激しておられるうちに、その場で目が見えるようになった話です。

 

当時の緑内障(青そこい)は難病でした。医学の進んでいる現代でも、この緑内障はほぼ治りません。多くの医者に診てもらっても治らず、完全に失明され諦めておられたものと思います。

 

この苦しい現状を打破されたのは、高弟の叔父が宗忠教祖の病気治しのお話をされ「一度お会いなされたらいかがか!」と行くのを渋る高弟を宗忠教祖に引き合わされたことから始まります。

 

集会場で宗忠教祖のお話をお聞きになり、そのうちお話に引き込まれ激しく心を打たれました。

 

そして大感激のあまり「この尊いお方はどのような方か!」と宗忠教祖の方を振り返られると、なんと今まで見えなかったお姿がはっきり見えてきて長年の失明がその場で回復されたことです。

 

「おお不思議だ! 目が見える、見えるようになった!」と感激のあまり大泣きされたそうです。

 

後に赤木高弟はこの奇跡的なご経験をいつも涙ながらに話され、一座の皆に自分の感激(おかげ)を伝えていたそうです。

 

この奇跡が起きた理由について

 

どうしてこのような不可思議なことが起きるのか?

 

まず赤木高弟は、最初は宗忠教祖の会場へ行って「おかげ(病治しの奇跡、黒住教独自の言い回し)」を受けるようにという叔父の話を何回も断っていました。奇跡なんて迷信だと決めつけていました。

 

禅にも「仏法には不思議はない」という言葉があります。「奇跡的なことは起こらないから、そういうことに期待するなコツコツ励めそれが真の道だ」ということです。

 

奇跡そのものを否定し、自分の失明がそう簡単に治るわけがない。治るなんていうのは怪しげな宗教の勧誘であると、知識人特有の猜疑心から思い込んでいたふしがあります。

 

「叔父さん、せっかくですが私の8年間の失明は、医術の力ではどうすることもできません。田舎の神主さんのおまじないで簡単に治るものでもありません」と叔父のせっかくの誘いを何回も断りました。

 

叔父も「これだけ勧めても断るのか」と最後にはカンカンに怒ってしまい「もういい!お前との縁を切る!」と縁切り話までになった話が残っています。

 

なぜなら赤木高弟はかなりの仏教、易、儒教の本を、読破した当時のインテリだったのです。知識人が故に理屈が先に立って治る話をデマの類と見なしていました。

 

叔父の参加要請が余りに強いのでとうとう断り切れずに、一緒に聞きに行った事情があります。そこで筏仙人(いかだせんにん・阿呆なくらいの正直者の話)の話を聞いて、深く感動して文字通り目と心の開眼をされました。

 

宗忠教祖のお話は人の心を活かす力をお持ちの方で説教時の迫力と力強さは、普通の常識をはるかに超えて人々を感動させ、神と繋がり多くの奇跡が生まれています。

 

この奇跡を黒住教では「おかげ」と言い今尚多くの霊験が行なわれています。そのような霊験を叔父さんは宗忠教祖の会場にて数多く目の当たりに経験して、失明していた赤木高弟に勧めた経緯があります。

 

このような「おかげ」はどうすれば起きるのか

 

ここからは読者の皆様と一緒に考えましょう!

 

前に述べたように太陽(天照大御神)のおかげで、健康と精神力は回復できます。太陽のものすごい力、恵みは日の出参拝毎に感じています。

 

宗忠教祖の教えには何か凄い活きたエネルギーが働いており、概念・知識ではなく体(からだ)でその活き物(いきもの)をしっかり掴み取れば、宇宙を貫く無限大の力が活かせるように思えます。

 

霊が主で体が従の教えです。

 

ここから先は読者の皆様もなぜ治ったのか、どうすれば起きるのか、ご自分なりに探求・検証されることも必要と考えます。

 

活き物(いきもの)という人生の宝が、お金・名声・地位より大事なものがそこに隠されているように感じるからです。

 

「今何故このような大混乱期に我々は生を享けてこの世に暮らしているのか」このことを解き明かすカギがあると信じて毎日を励んでいます。

 

次回に、筏仙人の話を提供して、どうして難病が治ったのかの理解の一助にさせていただく予定です。

生まれて始めての営業経験より

 

生まれて始めての営業経験より


不安を抱えてのスタート

 

今まで営業をやったことのない自分が、いきなり営業会社に飛び込んで、高校生を対象とした大学受験教室の営業生活を始めた。脱サラから再度サラリーマンに舞い戻った50歳位の時の話である。

 

始めの1~2年は営業成績下位の全く自信のない営業マンだった。稼ぎも少なく、大学、高校、中学進学を控えた育ちざかりの3人の子供をかかえて、生活に苦労して途方にくれていた。

 

生活に目途が立たない不安感がいつも頭から、こびりついて去らなかった。この不安感が自分を、猛烈社員に追い立てた原動力だろうと今にして納得できる。

 

営業成績が全ての世界は苛烈なものである。社員の人間性、個性、創造力すべてが、ひたすら契約をどれだけ取るかで評価される世界である。そして上下に振れる成績グラフが、収入としてキチンと反映される。

 

仕事の内容は電話営業で関心のある生徒宅に直接訪問して、教室での少人数クラスでの指導を勧誘する仕事だった。

 

今なら個人情報に抵触するような仕事であろうが、当時はまだ規制がゆるくまた大学入学が今ほど容易ではなく、親も成績の悪い子供を大学入学させるのに苦労していた。

 

かなりの高額の授業料だった。そのことが営業をやっていて、最も心を痛めていたが偏差値のかなり低い生徒が教師とウマが合いエンジンがかかると驚異的に成績を伸ばしていき、難関大学を合格していく事実を、数多く見てきて驚いたものである。

 

頭はいいけど手の付けられない生徒が、東大に現役合格して生徒の親から「ようこそあの時うちの子を、勧誘していただきました!」とお礼のビール券をたくさんいただいたこともある。手を焼くこの生徒の直接指導にさんざん苦労をした先生を差し置いてである。

 

猛烈社員

 

そのうち営業成績も上がっていき、全国展開している多くの営業マンの中でいつもトップグループだった。この営業はとりわけ厳しい営業職種に属し、契約締結に期待できるコネ、紹介の類がほとんどなく毎月全員ゼロからスタートして、自力だけが頼りの実に苦労の多い仕事だった。

 

それだけに仕事に向かう時は、夜中まで各自アポ取り作業に真剣だった。仲間が自分に寄って来て「お前の側にいるだけでなんだかピリピリしてくるな!」とよく言われた。仲間も肌で感じるくらいの仕事振りだった。ワークホリックと陰口をよくたたかれた。

 

専務からは「君の仕事に向かう迫力はすごいね。感心するよ!」と半ば冷やかされ、ペースを緩めるように諭されたこともあった。執念がないと続けられない仕事だったように思う。当然辞めていく社員も多かった。今でいうブラック企業に近いかもしれない。

 

表彰式の経験

 

年一回の京王ホテルでの表彰式では、派手なスポットライトを浴びてひな壇の階段を駆け上り,社長から優秀カップを受け取る光栄を何度も味わってきた。

 

大勢の中で名前を呼ばれて、多数のテーブルの間をワクワクしながら、小走りでひな壇に向かう時の天にも昇るような高揚感と達成感はとても忘れられない経験であった。

 

今でも映画のアカデミー賞受賞など、規模は全く違うけれど不思議に受賞者と喜びの共感を少し浸ることができる。少なくとも斜(はす)で見るようなことはない。

 

たとえ束の間であったとしても、ただ自分が誇らしくうれしかった。押しつぶされそうな生活の中で唯一のご褒美だった。

 

賞品として貰ったカナダのずっしり重たい大型メープル純金製メダルは、すべて売り払ってしまいとっくの昔になくなり今一つも残っていない。金高騰の今手元にあれば、1個当たり数十万円はすると思う。多くの銘入り優秀カップも転居するたびに、邪魔の為捨ててしまった。

 

 奇跡が起きた!

 

それこそ命を懸けての営業努力の後には,信じられないような奇跡が締めの月末によく起きたものである。ガリガリの営業会社だから、月末時の「契約を取ってこい!」のプレッシャーはすごかった。

 

決まるまでかなりの日数を要する契約がその場ですんなり決まったとか、連続して次々に契約が成立したとか通常ほぼ起こりえない神懸かり的なケースが多数起きたのである。

 

そのときは個人の努力を超越して、天の助力なくしては起こりえぬ出来事と有難く感謝していた。お陰で、8年間の500件超の総契約数は恐らく社内でも自分位であったと思う。年20件未満の社員が大半だった。

 

人事を尽くしたあとの奇跡的な体験の数々は、いまでも忘れられない尊い宝となっている。天は間違いなく実在しているとの実感を得た。

 

今は思い出だけ!

 

ほとんど年間休みもとらず家族のために死に物狂いで働いた8年間の営業生活は、今ではすべて遠い過去の、自分の記憶の片隅だけに残されたものになってしまった。今はもうそれで十分満足である。

 

こうして天や神とのご縁を気づかせていただき、命の尽きるまでアセンションへの道を進むことが許されるのだから全く悔いはない。

 

これから起きるであろう26000年振りの人類の未曾有の大変化(金融崩壊、自然大災害、政治混乱、各地の戦乱、各国の歴史的大転換等)をこの目で見届けることができるのだから、命ある限りこれらの時代展開を自身の目で俯瞰し、自ら身をもって体験しようと思う。

 

後は天命に任せるのみである。わが営業経験に感謝 ! 

 

後記  

 

現在この営業会社は消滅してありません。上記の内容は誇張なく事実そのままを書きました。

 

ブログの最初に自らの過去のありのままを取り上げたのは、このブログ目的を理解してもらいたいとの気持ちからです。まず自分を認めてあげて魂の向上を目指します。

 

そのキーワードが言霊であり言霊の霊力です。念ずることにより具現化し、自己の願望を呼び寄せます。

 

「苦しかったけれどどこか自分には適職だったし、こんな営業はもうないだろう!」とか「周りからあなたは訥弁だが説得力があるとよく言われていたなあ!」 と惜しむ気もしています。自らの教師的で負けず嫌いな資質を、知り抜いている職業とよくぞ出会ったものだとも思います。

 

当時の愚鈍な自分は少し目覚めるのにこれほどの過酷ではあるが、 運命的な経験が必須だったのでしょう。もっと楽しい気持ちで、仕事に向かえば状況は違ったものになっただろうに!

 

遙かなる宇宙の広大さと無限の自由を知らずに、がんじがらめの狭い3次元物質世界の中で必死にもがいていた時期でした。健康だからこそ乗り切れた生活でした。

 

 

 

 

 

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