負けて相手を喜ばせる子供相撲

 

「世の中ことすべて子供相撲の相手になって負けて喜ばせる心構えでおれば、腹の立つことはございますまい」黒住宗忠 

黒住宗忠教祖の御逸話から

⑨大いなる奇跡と霊験について 数年間雨が降らない史上空前の壮大なる奇跡!On Great Miracles and Spiritual Experiences

 

戻ろう、懐かしき大和に!

 

小生の団塊世代は生まれてから絶えず「負けるな、負けるな」の大合唱の中で育ってきました。

 

敗戦直後に生を享けた宿命のため日米戦争では完璧に負けたが、生き抜く上に生活上の戦いは「絶対負けるな!」の雰囲気が満ち満ちていました。

 

団塊世代の年間出生数は約250万人であり猛烈な競争世代です。令和6年はとうとう70万人を切りました。激烈な大学入試、旺文社のラジオ講座、全国模擬テスト、我が家の家計から公立に絞り必死に勉強したものです。

 

世の中は凄まじい競争でした。忘れられない記憶は以前見たNHKのアーカイブです。敗戦直後の昭和23年頃の日本橋周辺でしょうか。

 

多くの人々が全員狂ったように職場に向かい、走り去って行くサラリーマン集団の恐るべき映像が放映されていました。今では信じられないような世の空気です。「何であんなに皆懸命に職場に走るの?」と唖然として眺めるような不思議な光景でした。

 

皆必死に負けないように走って職場に向かわざるをえない程、異様な屈折した社会雰囲気だったのです。民衆の抑えられたエネルギーの爆発現象でした。

 

敗戦という事実が如何に人々に決定的大影響を与たのか考えさせられます。和を尊ぶ我が民族が世界から高度成長期にエコノミックアニマルと蔑み(さげすみ)呼ばれたものです。

 

米国進駐軍から押しつけられた音楽、スクリーン、セックス、唯物的思考が世に満ち溢れ、尊き霊性は非科学的陰謀論とされ片隅に置き捨てられました。国民の大半が我利我利(ガリガリ)のお金亡者、西洋崇拝主義者になり今尚健在です。

 

それから少し落ち着いてきた平成、令和になっても、学生のスポーツ、かるた、ダンス、料理、工芸等の全分野でも優勝できなかったら、オイオイと泣き又さめざめと悔し涙を流す姿が世にも美しい感動映像として、戦後80年間どれだけ膨大に流されてきたことだろう。

 

国民はその映像を見て新たな涙を誘われ、共感に浸るのです。相手の苦境に自然に同調できる日本人の実に優しい心根でもあります。

 

「次に優勝を目指して頑張るぞ! 負けるな臥薪嘗胆! 勝つことだけが美酒を味わえる!」相手に勝つこと、敵を倒すことが至上命令だった。

 

しかし時代はガチガチの根性論から次第に変わろうとしている。「もっと自由に楽しくのびのび競技しよう。相手の長所があれば褒め称えよう。互いに健闘し合いベストを尽くせばいいんだ」

 

眉間にしわを寄せ険しい形相でしごき叩く勝負より、笑顔でリラックスして競技する「風の時代」に入りました。すべて和合です。世界はギスギスした戦い気分より柔らかい和合ムードに向かって大きく舵を切って進みつつあります。

 

心の霊性を見直す機運も一部ですが、確かに少しづつ見直されてきています。

 

日本が先頭になり世界を和をもってリードする新たな地球の始まりです。相手に一歩譲り喜んでもらえば、すべて調和します。個人も国も宗忠さんの言われるとおりです。

 

今まで米国の植民地でしたのでしばらくは日本を取り戻すために自国ファーストでいきますが、いづれ大和(たいわ・やまと)精神を世界に発揮するものと期待します。

 

大和心こそは縄文からの日本人になじみ深く、連綿と続いた日本人の独自遺伝子ミームです。

 

戻ろう、懐かしき心のふるさと大和に!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

有難爺さん 2024年の冬至に向かって

 

 

冬至の日 新世界への旅立ちの思い

 

小生は一寸歩けるのも神様のお蔭であり「ああ!有難い、有難い」と思い、又少し歩けるのも「有難い」というようにしたら、気安く生活ができるようになり、神様のお蔭で働かして頂くことを感謝する。

木彫りの感触が大好きで、指で撫ぜると像が光るようになってきました。机の傍に置いて笑いの練習をしています。腹の底から笑うありがた爺さんを目指しています。

飛騨高山の一位一刀彫の恵比寿像を持っており、磨けばピカピカになります。指で磨くと自然に恵比寿像の笑顔をまねしたくなり笑顔になり、もろもろの世間の憂さも無くなります。

 

にこやかに笑う事は面白いもんですね。この小さい習慣は効果抜群です。笑いの中に自らの不安・不満を溶かす気持ちでやっていると、不思議に氷がとけるように自然にとけてなくります。

 

ただ続けること。何回も何回もやり続けるのです。笑いの効能あるいは功徳でしょうか。笑うとホッとしてくつろげます。神の天恵でもあります。

 

身の回りの事故、不幸な出来事があっても強制的に笑いと感謝に戻る訓練を実行する。たとえ家族のトラブルでもネガにならず、そこで引きづらず感謝を行い魂浄化をひたすら行うのみです。

 

実に人生は海あり谷あり、絶望、不信、恨み、後悔を全て乗り越えなければすぐ底に沈みます。宗忠さんは「人の心は生ものである」と言われた。まさにその通り!

 

心は鬼になり又神に変化するのだから、笑うことに努めよう。笑えばすべてに感謝したくなる!

 

生きていることが奇跡であり、天地に生かされていることの有難さがこの年になってやっと分かってきた。

 

だいぶ前に亡くなられた俳優の津川雅彦さんが最晩年に車いすに乗り口に吸入器を当てながら、「有難い、有難い」と絶えず唱えられていた姿が尊く思い出されます。何かのニュースで拝見して、今でも忘れられない記憶として残っています。

 

自分も末期は感謝しながら終わりたいと念じています。一朝一夕には出来ないので普段から習慣付けしようと思う。

 

2024年冬至の新たな出発進行!

 

朝夕「ただ有難い」と口癖のように唱えるうち、周りの人々から「ありがた爺さん」と呼ばれるようになりたいと願っています。この話は幕末の黒住宗忠のある逸話から取り上げました。

 

黒住宗忠は冬至に生まれ(1780年)、冬至に朝日を呑み込んで天照大御神と一体の境地(1814年の天命直受)を体験した人物です。冬至と太陽に最もご縁のある聖人と言われてきました。

 

三日三晩大笑いの大歓喜の悟りをされたそうです。伊勢神宮の天照大神の国家神道を国家のみならず、個々人の親神として大いなる教えを人々に説きました。立教210年になります。

 

村のひとり暮らしの老婆が宗忠さんに尋ねました。「この年になりますと仕事の機織がしんどくてなりません。腰や肩が凝りますので引退したいのですが、引退すると食べていけません。どうしたらいいのでしょうか」

 

 すると宗忠さんはにこやかに答えて『お婆さん、ちょっと織るのも神様のおかげと思い「ああ!有難い」またちょっと織れたら「ああ!有難い」と言うようにしたら肩もこらず気安く仕事できますよ。』

 

老婆は大いに感じ御教えのように働いたら肩のこりも出ず、腰も痛くならず朝夕唯有難い、有難いと口癖のように申すうち、人々から「ありがた婆さん」と呼ばれるようになりました。

 

それから機織りの仕事も順調に舞い込み暮らしも楽になったそうです。古松のお婆さんの実話です。

 

すべて天命に任せて感謝申し上げます。わが魂の太陽神に繋がっていることを!

そして皆様の輝く魂を祝福いたします。2025年がいい年でありますように!

 

言霊の祈りの力

 

最後に赤木忠春の歌をご紹介いたします。目に見えない言霊(ことだま)の力を肌で実感しよう。あなたの口から明るい愛のある癒しの思いを発すると、現実に思いの人に届きます。

 

天地(あまつち)の神のつくりし御社(みやしろ)に

鎮まりたまえ天照神(あまてるかみ) 

 

心の病んだノイローゼの方達がこの道歌を繰り返し詠んで、殆どの人が治ったという言い伝えがあります。活きものが溢れており、本来の魂の明るさを取り戻せる歌です。

 

 

 

 

江戸末期から明治への怒涛の流れと今の大怒涛の流れ

 

大激動の開始 大和民族の本来の使命に目覚めよう。

 

2024年から世界は大きく変わりました。来年からさらに一層変化が著しくなってきます。何がどのように変化していくのでしょうか。

 

それは明治維新の比ではない位大激動の時代を迎えようとしています。米国が2025年からトランプ政権の共和党に変わり、既に従来の民主党政策の真逆の人事を開始しています。

 

日米地位協定の問題、わが国の財務省の在り方、厚労省の一億人以上への接種の是非、皇室の東京から京都への遷都の議論等が2025年に降って湧いたように国民に襲ってくると思われます。

 

かつてロシアに亡命した「国家機密を暴露した死刑級の重罪人」と言われたあのエドワード・スノーデン氏が舞い戻り、トランプ氏により日本対策省の長官として指名されそうです。

 

そうなったら秘密、機密事項が次々暴露されていき、日本政府、経済界全体がでんぐり返しされ真っ青になるほどの大衝撃が予想される!いわゆるデクラス(機密解除)です。

 

その中でもやはり「新型コロナ以降の全国民への接種が真に正しかったのかどうか」が問われてくる時代になってくるのではないでしょうか。

 

米国発の詳細な驚くべき事後報告に始まり、欧州からの世間に出すに出されなかった臨床事例が次々と報告されていき、日本にも大きな影響を与えるような気がしてなりません。

 

既に大量の超過死亡の報告もなされていますが、マスコミは無言を貫きこの事実を社会に報道しておりません。

 

しかしこれから国民は嫌でも応でも関心をもって向き合うことになり、そこで人体に与える重大なる影響の大きさが順次明らかにされていきます。

 

その時政府の対応、特に厚労省の責任、医療全般の在り方、マスコミの従来の報道ぶりの是非が根底から議論されていきます。地上テレビの存在そのものが問われ兼ねません。

 

明治維新の流れと現代の流れについて

 

明治維新は今に至るまで西欧に追いつくための一大国民運動でした。しかし今後の流れは追いつくためではなく、内なる復古主義が主流となっていきます。縄文時代の平和社会がどうして一万年以上もつづいたのか。日本人とはいかなる民族か。

 

米国追随ではなく全く逆の動きとなります。日本人中心主義の時代がやってきます。世界の人々が日本を訪れる日が到来すると言われています。

 

戦後の酷い政府の内幕がトランプ政権になったら次々と暴露され、ボツボツとあちこちで煙が上がってまいります。それも驚くべき政界の闇話や歴史的事件・大事故の真相が続々と明らかになってきました。

 

食生活についても同様です。吉野敏明氏の動画でも「4毒の話」がでてきます。小麦のグルテン、即ちスパゲッティ、餃子、ラーメン、パン等や乳製品、精製した植物性油が日本人の体質に合わない弊害を繰り返し主張しています。

 

「我々はすべて完全に騙され搾取されてきたんだ!」という震えるような驚き、怒りの感情とその真っ黒い闇が暴かれ真相が明らかにされていきます。

 

DSの解体が我々眼前で公開されていく!

 

おぞましいジェフリー・エプスタイン事件からスタートしていき、日本や世界の超有名人が挙げられ話題になっていくと思われます。

 

米国の9.11事件も国家ぐるみの虚偽が晒されて世界中が驚嘆することになります。又UFOの存在を米国が公式に発表する予定です。いよいよ宇宙人の登場が現実化していきます。

 

 

火星探査のキュリオシティ―からの火星写真。 地球上の王家の谷のピラミッドと同じ構造の入口です。明らかに自然の構造物ではないと思われます。人面石付近にピラミッドが3つ発見されており、3つとも南面に正確に向いており、夏至には太陽光線が南面に垂直に当たることが報告されています。僅かな誤差がありますが、33000年前ではピッタリ寸分の誤差もなく垂直になるそうです。これらは偶然の産物では形成されません。又火星の大気中に33,000年前の2か所の核爆発の根拠とされる自然には存在しないキセノン129の原素同位体の大量存在が明らかにされています。人面岩もNASAとは別な科学者が詳細に分析したところ自然岩ではなくㇷ゚ラクタル理論から人工的に作られた人の顔と結論付けています。NASAは3キロ離れた他の岩山写真を人面岩と偽って公開し、自然に出来た岩の見間違いとしています。その背後には人工物と認めたくないDSの存在があるからです。似たような事例として地球の南極にも既にピラミッドが発見されたことはご存じでしょう。ひたすら真実が隠されています。尚日本には数十から数百のピラミッド(三角山)があり古来から祭祀が行われてきました。トランプ大統領になりましたら、すべて公開されるでしょう。

 

地球外生命体は高度な知能と技術の持ち主で、地球を監視していると元国防総省のルイス・エリゾンド氏が証拠写真を見せて公表をしているのは驚きです。

 

シリアのアサド政権の崩壊とイスラエルのシリア侵攻はヨーロッパ全土への不吉な破滅的エゼキエル戦争の足音がしてきます。まさに予言通りの筋書きになりそうです。

 

又プレアデス星のプレヤール人の言葉通りに人類は大戦争へと向かって、愚かな殺戮を繰り返すのでしょうか。彼らの予言通りであればフランス発の全ヨーロッパの移民暴発が懸念され,キリスト教徒とイスラム教徒の対立が深刻化するという記述がされていました。

 

日本が世界を平和に導く時代

 

我が日本は人類の果てしない泥沼からの争いから地球の滅亡を防ぎ人類を平和に導くのが、人類誕生からの大和民族のお役目です。即ち天照大御神の岩戸開きを我が民族が行う時代が必ず到来します。

 

明治維新から今までの170年間、我が国は西欧のものまねにひたすら邁進してきた時代でした。京都御所から東京の江戸城に遷都され、近代国家を目指して参りましたが、逆に天皇が首都から京都にお帰り遊ばされる時代を迎えようとしています。

 

社会に余程の大事変が無い限り遷都はないはずです。今後時代は大きく変わり、人心を一新しなければならないほどの社会変化が訪れるかもしれません。それが何であるか我々日本人は固唾を呑んで見守まっていきたい。

 

その時には冷静に俯瞰して大所高所から対応できる心構えでしっかりと腹を据えて、待ち受けることです。今後日本は素晴らしい人材が新党を次々結成してまいります。

 

世の中が大変化していくのが分かる筈です。今までの古い政党の利権争い、お金中心、政権の奪い合いの政治から大きく脱皮して、新日本創成に向けて政治家は勿論国民の大規模入れ替えが始まります。

 

今歴史の大転換点を迎えていることは間違いありません。明治維新をはるかに超えるスケールであり、地球を含む銀河宇宙の変わり目と捉える方もいるくらいです。

 

この大峠を超えれば前代未聞の新時代の扉がまさに大きく開こうとしており、明るい未来が見えてきますので楽しみです。このような時代は地道に天に感謝を尽くして来るべき時を待ちましょう。

 

ポール・リシャール博士の予言

 

日本の古代史を深く研究した米国のデューク大学学長であったポール・リシャール博士は終戦直後に「私は生涯をかけて全世界の民族古代史をつぶさに研究した。その結果日本民族は地球上に於ける最優秀民族で神に一番近い民族であると思っている。

 

日本は原爆の洗礼を受けたが、日本人は必ずこの敗戦の廃墟から立ち上がりいずれ戦勝国を凌駕する国になるだろう。そして民族の天命である平和世界建設の中心国となる。」と語っていました。

 

ポール・リシャール博士は日本民族が地球救済のために他の天体より*「天孫降臨した天孫民族」であることを発見した唯一のアメリカ人です。我々日本人は天照大御神以来の地球を救うという大いなる使命を忘れてはなりません。

 

大和の国日の本 万歳! 人類の平和を祈ります!

 

* 天孫降臨した天孫民族
太古の昔大和民族の祖神ニニギノミコトと共に地球を救うために、宇宙より大和の地に降臨した天孫民族が日本人であると言われています。現在宇宙の星の人々が地球世界の無軌道ぶりを見るに見かねて通信を盛んに試みています。
宇宙人は現存しており、愛ある宇宙人達も応援してくれています。今まで数千年間悪魔的宇宙人による地球人の支配もされてきましたが、その支配から解かれる時代を迎えております。
尚個人的には1300年唱えられてきた神道の大祓い詞に「荒ぶる神たちを神問わしに問わし給い、神祓いに祓い」とある節は悪の宇宙人達を表現しており、祓うべき対象になっていると考えています。
大昔から大和国では既に正確に悪の宇宙人を荒ぶる神として理解していました。人類よりはるかに高度な科学力を駆使する悪の宇宙人は、神として人類に君臨して支配してきた長い歴史があります。
DSは彼らの忠実なる僕(しもべ)になります。人の支配は今のマトリックス社会体系にさせられてきました。
彼らは人類の無意識、潜在意識状態を容易に操る力を持ち、大衆を誘導できる恐るべきパワーを有しています。人はネガティブ状態に陥りますと簡単にはまります。
明るい楽しい気持ちと感謝がどんなに重要かお分かり頂けると思います。これらは悪魔からの攻撃を遮断できる唯一の手段となります。            

 

 

(ポール・リシャール博士について国柱会よりの転載コピーです。物質文明から霊性世界への移行を予言しています。)

ポール・リシャールは、1874年(明治7年)に南フランスに生まれ、長じて神学博士ともなったが、宗教によって衣食するのを欲せず、法律を学んで弁護士となった。その間、文壇においても名をなし詩人としても高名であった。彼は哲学・宗教に関心ふかく、ヨーロッパの物質文明は没落の運命はさけられぬと観取し、光を東方に求め、インドに移り、インド革命のリーダーのアラビンダ・ゴーシュと交わった。

大正五年(1916)、旅行のつもりで来日した彼は、日本の魅力の虜となり、ついに4年間滞在、その間、じつにふかく日本の精神文化に分け入り、もっとも日本を識る外国人の1人となった。「議会政治的・黄金政治的個人主義」の民主主義は、やがて欧米でも行詰ると予言し、当時、民主主義に心を奪われていた日本人に警告を発した。『日本の児等に』と題する詩に、日本には7つの栄誉と使命があるとして、

かつて他国に隷属せざりし世界の唯一の民!一切の世の隷属の民のために起つのは汝の任なり 新しき科学と旧き智慧と、ヨーロッパの思想とアジアの精神とを自己の内に統一せる唯一の民!これら二つの世界、来るべき世のこれら両部を統合するのは汝の任なり 建国以来、一系の天皇、永遠にわたる一人の天皇を奉戴せる唯一の民!汝は地上の万国に向って、人は皆一天の子にして、天を永遠の君主とする一個の帝国を建設すべきことを教へんが為に生れたり

と、格調高く日本人を激励した。同様の書に『告日本国』がある。35日間、1歩も外に出ず、精神を凝らし、天来の声を綴ったという。

大正9年1月、リシャール夫妻は、三保最勝閣を訪れ、智学先生の歓待をうけて数日滞在した。霊峰富士を仰いで、彼は「大地が天に向かって合掌している姿だ」といった。その後、ヒマラヤ山麓に住み、さらにフランスからスイスに移り、晩年をアメリカに過した。

当時東洋で、唯一白人國家に対し意見が言える國家は日本だけでした。
侵略國家、軍国主義などと揶揄された日本は、人種差別撤廃を唱えた國なのです。
リシャールが滞日時代に書いた『告日本國』(大正6年、1917)という著書があります。この著書は日本の世界史的使命と日本人への期待を歌い、今日も多くの人に賞讃されています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

宇宙人との出会い

 

月刊anemoneより転載しました。宇宙の広さを知りましょう!

 

もうすぐ宇宙人との出会いが始まります。どんなに宇宙が無限に広く、宇宙人が多く住んでいるか分かり易く説明してあります。

 

 天の川銀河外の知的生命体たち

私たちの住む地球は、 「太陽系」に属している惑星です。 太陽系には、同じ太陽を親に持つ 7つの兄弟惑星たちがいて、 皆、アセンションしています。 最後、地球がアセンションすれば、 太陽系そのものがもっと軽やかな上の次元に行けるという、 そんな局面にあるのが現在。 つまり、「地球待ち」なのです。

視野をもう少し拡大してみましょう。 地球が属する太陽系は、 「天の川銀河」という銀河の中心から 2万6千光年のところに位置しています。 その天の川銀河には、太陽と同じように 自ら光を放つ恒星が約2千億個も存在しています。 私たちが認識しているこの宇宙のことを 「オーム宇宙」といいますが、 オーム宇宙にはなんと、天の川銀河と同じような銀河が 約数千億個も存在しているのです。

特筆すべきは、天の川銀河以外の銀河は すでにアセンションしているのだということ。 そして、最後に天の川銀河がアセンションすれば、 オーム宇宙全体がまったく新しい宇宙に生まれ変わるという、 現在はそんなとてつもない局面にあります。 つまり、宇宙全体が「天の川銀河待ち」なのです。

 

宇宙の超壮大な構造が説かれています。このような驚くべき宇宙世界が地球以外にもあるということです。とてつもない世界が存在するということです。

 

そのなかでも格別美しい地球のアセンションは心臓の中核ともいえる最も重要な働きをしており、地球に住む我々もその一端を担っております。

 

我々の文明より数千万年、数億年、数十億年先も進んだ科学技術と霊的成長を遂げた星が無数にあり、地球のアセンションを見守っている。

 

想像しただけでも目の前の些細な事象から気持ちが開放されませんか。お金のことや地位、名誉、家柄、名声を離れて宇宙の果てしない世界へ思いを巡らし、いよいよ霊的世界を迎える準備をする必要があります。

 

ここで注意すべきは足元をしっかりしていかないと、思いだけが一人歩きする恐れがあります。だから我々地球人は一歩一歩着実に感謝を重ねて、足固めすることが求められます。

 

 

 

 

 

 

 

⑪ 大いなる奇跡と霊験 虚空蔵菩薩の神秘

 

 虚空蔵菩薩の神秘

 

虚空蔵菩薩

 

 長崎県の諫早市に天祐寺というお寺があります。そこの住職をしておられた須田道輝和尚の書かれた「虚空の神力」の本の中に、虚空菩薩の世界が述べられています。

 

そこに今後の地球の未来像が具体的なイメージとして分かるような描写してあり、今読み返してびっくりしました。

 

虚空菩薩経にはスピリチュアルなテーマとして取り上げられる宇宙人とか未来世界が、実に克明に書いてありどなたがこのような本を書かれたのか、関心を惹かれる本です。

 

 一切香の世界

 

虚空蔵経によれば,この地球から西方に向かって八十劫河沙(ガンジス川の砂の数ほどのはるか遠い距離)を過ぎたあたりにある一切香(という星)に、知性の高い生き物が住んでいました。

 

その一切香に縁起の法を説く仏が出現されて、その縁起の法は仏法の真理と同じであると書かれています。

 

一切香の世界では霊的な生命体は仙人は霞を食べて生きていると同様に、いい香りを栄養源として生きています。

 

香は霊体の先祖達の食べ物になっていますので、仏前で香をたくのです。香を供養するのは又供養する人の心身を清めるためでもあります。

 

須田道輝和尚は虚空蔵の世界は一切香と名付けられた天体が遙か宇宙のかなたにあり,単なる空想上のものではないと述べられています。

 

神秘的体験 

 

和尚が天祐寺に来られた昭和42年当時は山門、本堂は立派でしたが、境内は荒れ果てており雑草が生い茂る荒れるに任せたお寺でした。

 

須田和尚はとんでもないお寺に来てしまったと後悔しきりでした。いろいろお寺の復興について尽力を尽くされたのですが、お金がないつらさをしみじみ味われたということです。

 

そのようなある日、須田和尚さんが晩課(夜のお勤め)のお経を読んでおられたら、忽然として須弥壇(ご本尊を祭ってあるところ)の上に透き通るような神秘な光の線でえがかれた菩薩像が現れました。

 

しばらくして消えてしまいましたが、左手に剣を持ち右手に宝珠を持った威厳のある姿を、約一分近く見ることができました。

 

その後仏教図鑑を調べて剣と宝珠をもっておられる菩薩様は、文殊菩薩か虚空蔵菩薩に特定ができましたがどちらか決めかねていました。

 

それからしばらくしてある夜夢の中で、「虚空蔵を探せ」とはっきりした声の夢を見ました。目を覚ましても、その声は耳の底に重々しく残っていました。

 

そんなある日のことです。開山堂を掃除中に戸袋の中から、偶然に明代の古い大蔵経の一部を発見したのです。その中に虚空蔵菩薩経の数編が現れました。

 

このような事があって、虚空蔵菩薩の仏師に依頼して菩薩像をおまつりするようになりました。この菩薩像をおまつりして以来須田和尚以外にも信仰する人に常識を超える出来事が、しばしば起きるようになったということです。

 

虚空の神秘

 

そしてこの世はただ不可思議としか言いようのない世界で、そのような宇宙の神秘にただ有難く生かされていることを、感謝するだけだと須田和尚は述べておられます。

 

虚空が忽然として凝縮するとそこに現象が現れ虚空がもとに戻ると現象は消えて、もとの何一つない無限の虚空の広がりに戻ります。

 

こうした虚空の働きは宇宙の神秘としか言いようがなく、人知の及ぶ次元ではありません。虚空には相対的対立もなければ制限もありません。

 

合理的と思っているものは単に人間の知性に合うだけで、このお経は人間の知性を超えた次元で説いているのではないか。

 

人の知性だけでは分からない非合理世界を覚醒させるために、菩薩は出現されたのではないかと説かれています。

 

経典に説かれているように高い山から落ちても菩薩の念力によって、命を奪われないと強く信じてそれを受領する心も大切ではないかと思われます。

 

同様の話がありますので、ブログ 必ず治る② 筏仙人の話をもう一度参考にしてください。

 

今のこの大激動期の生き方を予見し、どう生きるべきかを35年前に明示された須田道輝和尚の慧眼に改めて敬服させられます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

⑩大いなる奇跡と霊験 寿命が4回延びた話

 

 

滝沢白竜宮司の奥様の大病のお話です。寿命が神により4回延命されたご神恵です。(古神道霊験秘話 滝沢白竜著より)

 

1回目の大病(36歳時)

 

昭和28年鹿児島在住の時、霧島神宮主催の高千穂山上のご神火大修法に夫婦でご参加になり、帰宅した日に奥様が大量の腸内出血をされました。

 

さっそく滝沢宮司が神伺いをされますと,奥様の祖先から身に受けている悪因縁の大修祓(だいしゅうばつ)であるとのお示しです。

 

医者にも見せずに2~3日の安静で回復しましたが、3年後に又大量の腸内出血をされました。これも重ねて伺いますと「汝の家内の命は36歳で終わりであったが、汝と結婚して深い信仰に入り、その心得(こころえ)感心するところがある。45歳まで延命してつかわす」とのお示しを賜りました。

 

この時は奥様は36歳で、この時より45歳まで命が延びました。

 

 

2回目の大病(36歳~45歳)

 

 それから8年後神より「45歳まで延ばしてつかわす」とのお示しをいつのまにか忘れていました。

 

当時、身体が痩せてきて気力も落ち「養生せんと若死にするよ」と奥様は近所の人からも言われていたのです。実はその通り45歳になって、命数が切れかかっていたのです。

 

その後に神から「汝の家内への百日間の延命祈願を行うべし」とのお示しをいただき、元旦早々に産土神社にて百日の願をかけ、これを無事に貫徹終了しました。45歳から更に10年の延命です。

 

 

3回目の大病(55歳~63歳)

 

 

 45歳から10年経過して55歳の時に心筋梗塞で、とうてい命が助からないというような最悪の診療数値が出ました。

 

普通 心筋梗塞はデータが500位ですが、奥様は3000を超えて「すぐにも心臓が停止するかもしれないので、血縁者を呼び寄せてください」と宣告され、病院でも見舞いに来た人に「今お会いになったのが最後と思って下さい」と言われるような危篤状態だったそうです。

 

奥様はもがき苦しんでおり、滝沢宮司はご神前で「実は家内が苦しみの最中です。どうなりますか」と神にお伺いしますとご神殿から大きな声でお示しがありました。

 

「心配はいらぬ。心配はいらぬ。この苦難に耐えよ、この苦難を乗り越えれば汝の家内は助かるぞ」と二声続けてありました。

 

「ああ、家内は助かる」と思って顔を覗き込むと「アー」と言って息を吹き返しました。助かった!助かった!まさに神恩感謝の一瞬でした。

 

その時奥様が言われた言葉は「明るい 明るい 素晴らしい景色の良いところに行ってきました」と満足そうな清々しい表情です。

 

人間の行ける最高の霊界に連れて行かれたのですが、現界からのたっての祈願によって又この世に戻されたのが自感(神の悟し)で分かりました。

 

そして55歳から更に8年間 63歳まで、延命のおかげを賜ったそうです。病院側では100%助からないと確信していて、医者も看護婦も完全に諦めて放置してあったくらいでした。

 

しかし死ぬまでに至らず奇跡的に命をとりとめ、入院中に病院長から「貴方はよほど生命力のある方ですな」と週一回の回診毎に7回(7回×7日 49日間の入院中)同じことを言われたそうです。

 

退院する時に婦長、看護婦さん達から「本当に良かったね。生きて帰れるとは誰も思ってもいなかったです」と繰り返し言われました。余程の瀕死の重症だったと思われます。

 

 

4回目の大病(63歳~71歳)

 

 

63歳の8月25日また発作が起きて救急車で病院に駆け付けた時は、意識不明の死人同様でした。

 

医者から死の宣告を受け、葬式の準備までしました。しかしこの時も奇跡的な神助により命が助かったのです。

 

「信者の祈願と汝の祈願を受け、汝の家内は現界に残すことに定まった。寿命は後8年」と神様からの延命のご沙汰のお示しを頂戴しました。

 

69歳の春頃ご神示があり「汝の家内の寿命は71歳まで延命されているが、神界ではもう少し延ばすよう手配がなされている。」とのことです。

 

今まで数々のご神恵を賜り、さすがに71歳で一代は終わりと滝沢宮司は腹を決めておられたそうです。

 

滝沢宮司は第二の天戸開きの任務の大事な奉仕中であり、奥様がおられないと日常神事奉仕がどうにもならないのです。神はそれを見通されて、奥様の寿命を延ばしてくださったと宮司は確信しました。

 

69歳の11月13日吹田市の国立循環器病センターで、順番待ちしているうちに又発作が起きてしまいました。

 

精密検査の結果「心臓内部の動脈が全部詰まっている。バイパスの手術以外に生きる方法はない」と言われ早速手術しましたが、この状況でも奇跡的に助かりました。

 

71歳まで今の身体は到底命がもたないと神は判断されて、69歳の時に手術するようになされたということです。「この分では70歳を通り越してもう少し長生きできそうです」と滝沢宮司は締められています。

 

この話は滝沢宮司とのご縁で神と繋がり、宮司がご神璽に奉仕されるので、その奉仕が十分できるように奥様の延命がなされたご神恵のお話です。

 

あり得ないような奇蹟の連続によって何度も延命された奥様の命は、神との繋がりの大事さを考えさせられます。hinomotoはこの話を何回も読み、神の存在と繋がることの励みにさせてもらいました。

 

滝沢宮司は「行う者は必ず勝つ、然からざるものは遂にその運命に落ちる」と数回 本に述べておられます。行えば徳を招き、そうでなければその人の定まった運命のままに落ちていきます。心して肝に銘じて実践すべき言葉です。

 

滝沢 白竜宮司については下記を参照してください。

古神道霊験秘話より 大嵐の中のご神事

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

⑨大いなる奇跡と霊験について 数年間雨が降らない史上空前の壮大なる奇跡!On Great Miracles and Spiritual Experiences

岡山の集会日に数年間雨が降らなかった霊験です。気候も左右する程のご神力は宇宙大です。

 

御会日びより 数年間雨が降らない岡山の奇跡について

宗忠教祖

御会日とは、宗忠教祖が「お話をされる日」のことです。月の集まる日を2と7日と決めて、月6回(2,7,12,17,22,27日)とご講釈されていました。

 

しかし途中から雨になるようなことになりますと、参集の人が会場でざわつきだすことが往々にしてありました。

 

岡山ではたくさんのイグサを作る土地柄ですので、イグサを刈って干す時に雨が降ることを最も恐れていました。

 

途中から雨になりますと中には帰り支度をしたりして、会がザワザワして落ち着かないことがありました。まだ本当に道の主意が分かっていない人も多くて、帰り急ぎをしてざわつき混雑することもあります。

 

その時宗忠教祖は「皆さま、ご心配はいりません!今日から雨は決して降りません。安心してしまいまで話をお聞きなさい!」と言われました。

当時の岡山地方の地図

 天照大神のご神徳

 

その通り雨模様の日でも、天気になり月6回 年72回、数年間(5年間とも伝えられる) 一度も雨は降ったことはありませんでした。

 

そのため誰云うともなく近郷近在に言いはやされて、人々も固く信じるに至りました。そこで御会日は雨が降らない「御会日(ごかいび)びより」と人から言われるようになりました。

 

人びとは雨の恐れがないことを信じ切って、安心して集会に行かれるようになったということです。朝曇って雨の心配がある日でも、今日は「御会日(ごかいび)びより」だから安心してイグサを干したということです。

 

しかし数年後ふとお考えになりあれから一回も降らないのではあるが、天候を都合よく左右するということは実に恐れ多いことで、ご辞退すべきである。

 

これは過ぎたる恩寵であり、特別の恵みでもあると宗忠教祖はお考えになってから、時には御会日にも雨が降ることも起きるようになってきました。

 

今日でも御会日は天気がいい日が多いそうです。長期間 地域の天候も左右するほどの天照大御神の広大なご神徳を教祖を通じて、発揮されたことは唯々驚異としか言いようがありません。

 

このように天照大御神のご神徳は広大無辺に及ぶものです。このようなご神力を岡山地方に及ぼされた宗忠教祖は、もはや人の範疇を超えた存在と言えるでしょう。

 

宗忠教祖 地面に草履の跡が付かない不思議 

 

教祖の門人に土肥右近という武士がいました。池田藩でも一目置かれる幕府側の4200石の御目付役でしたので、池田藩でも特別待遇でした。

 

土肥家の紋所船が各地の港に来たら、最優先に航路を譲らなければならない掟もある高禄の名門です。

 

土肥右近は教祖を招いて道の話を聞いた後お帰りの際は、必ず玄関まで見送り履物をそろえて門人としての礼を尽くしました。右近は教祖を大変尊敬しておられ、たびたびお宅にご招待されてお道の話をきいておられました。

 

ところが土肥の家臣野呂俊介はこのような主人の行動を快く思わず「如何に崇敬しているとはいえ、4200石取りの大家の当主が、たかが田舎神主の履物をそろえるのはいかがなものか」と不満げに言いますと、

 

右近は「わかった!」とうなづき、又教祖が訪れるとやはり以前と変わらず履物をそろえました。家臣の野呂は主人に強く苦情を申し立てました。

 

すると右近は野呂氏に向かい静かに命じました。「玄関から門までの先生がお帰りになった跡を調べてみなさい」

 

野呂氏はしぶしぶ帰られた玄関から門までの掃き清められた砂地の道を見ると、教祖の下駄の跡が全くなく、箒の目がきれいに残っていました。

 

遠くに教祖が歩いているのに履物の跡がどこにも残されておりません。これを見て全身冷水を浴びたような感に打たれたのは野呂氏です。

 

「ごもっともでございます。教祖様こそ生き神様でございます。殿まことに申し訳ございません」深く詫びられて、野呂氏も又教祖の門下に入られ熱心な信者になられました。

 

野呂氏の神文(正式入門)は文政5年です。

 

追記 

後に宗忠教祖が石尾乾介高弟にあてた土肥右近氏についてのお手紙に、思いもよらぬ事が起きたという便りがあります。

それは土肥氏が高所より落ちて死亡したことです。さすがにこの件については宗忠教祖は少なからず、ショックを受けられたようです。

奥様の亡くなられた時と土肥氏死去の時の2件が、存命中とても心を痛められたようですが、すぐに気を取り直しておられます。

 

一日間かかる5社参りを、早朝の一時間でお参りされたこと

 

この他にも通常は一日間もかかる5社参りを、早朝の一時間で行うこともされています。宗忠教祖自身「わが身ながら不思議だ」と言われています。

 

少なくても短距離選手並みのスピードで5社参りをしないと不可能な距離と時間です。しかも当時はでこぼこ道で、宗忠教祖は100キロ近くも体重があり袴と草履姿ですから絶対にあり得ない事です。

 

明治時代になってこの不可思議な話の裏付けを、お道の教師達は探していたそうです。伝え話として広くこの話は知られてはいましたが、本当にあったのかその証拠が見つかりません。

 

後に教祖が石尾高弟宛に詳しく書かれたお手紙が見つかった時に、当時の教師達は二拍手して喜んだそうです。

 

暗闇でも本が読め、提灯が無くても不自由なく歩けた宗忠教祖

 

赤木忠春高弟の直弟子であった本田応之助(幕末の剣術家)の「誠勤徳顕録」に誠に不思議な記述があります。(一部意訳してあります)

 

『夜の闇中にても書物などご覧になり、真っ暗闇を提灯なくても全く平気でお歩きになり一向に不自由しないご様子でした。此のことを人々が不審に思い尋ねたことがありました。』

 

それに対して『何も別に子細はございません。日々御蔭を賜り幽明界へ通う事を(天照大御神より)得たる故、夜光の玉を得ております』と大笑いして仰せられたそうです。

 

誠に真っ暗闇の中でも読み書きができ、灯りがなくてもずんずん歩ける不思議な出来事は、宗忠教祖の説明を聞いただけでは分かりません。

 

「夜光の玉」とは何なのか?ここまでくると人間離れして理屈をはるかに超越した御方です。このことについて教祖のお言葉があります。

 

『日の神を背に負い奉りて歩けば、いかなる山中又は荒海にても少しも心配なく安全です。その心直に日の神と一体なり。天地に敵する物更になし』とこの通りに天照大御神を背に負われていた方です。

 

宗忠教祖と太陽神の関係について (太陽の神人より)

 

ここで最も大切な事があります。それは歴史上有名な霊能者(シュタイナー,スウェディンボルグ、出口王仁三郎)のように「神話神」が感応して霊言を広めているのではなく、とてつもない高い「太陽神」のエネルギ―が教祖に感応していることです。

 

神話神とは神話という因果(カルマ)の影響を受けた神々で、太陽神は地球上のカルマの影響を受けていない根源的な神です。

 

この点が決定的に他の歴史的有名な霊能者と宗忠教祖と異なるところです。太陽神と繋がりのあるのは、歴史的には宗忠教祖お一人だけと山田雅晴先生は述べられています。

 

だから宗忠教祖は徹底して高次元のインスピレーション形態をとりました。それが湧かない場合はどんなに多くの聴衆がいても、「今日は一向に浮かびません!」と正直に述べさっさと高座から降りました。

 

金星のエネルギーを呑み込んだ空海も含めて、人類の歴史上太陽神と数多く感応できた人間はいません。ここに教祖が不世出の神人(釈迦、キリストと言った人類の師)と言われる根拠があります。

 

日本でも稀なる徳筆のご神号

宗忠教祖のご七カ条 日々の戒め 腹を立て物を苦にする事等

備前藩の重臣で宗忠教祖の教えを頂いた藤田勝介先生が、ある年の正月年賀に上がりました。

 

教祖から「かねてご依頼の御神号( 天照皇太神宮 )をお書きしました。この御神号は18歳の心で書きました。」と仰せになりました。

 

藤田先生は有難く頂かれ、ちょうどその年京都詰めになられたので京都で表具しようと、途中京都のある屋敷に寄られました。そこは墨色を判定する名人宅でした。

 

その幅を見せたところ、その人が言うには「これは恐らく日本歴代の中でも稀な徳筆でまことに素晴らしい書です。しかしひとつ合点がいかぬことがある。これだけの徳を積んだ人が20歳になるかならぬかという事はどうも不可解です。

 

恐らくこの偉大な徳を積む人は60から70の年を重ねなければならないが、この筆勢は二十歳の上ではない。とにかく恐れ入った徳筆です!」とその書を驚嘆しきりでした。

 

藤田先生はこれを聞いて「そういえば先生は、18才の気持ちで書いたと言っていたな」とその時のことを思い出して当時のいきさつを名人に話しました。

 

その名人は一層驚いて筆跡をまじまじと見つめ、「うーん」と言葉にならぬ感服をあらたにしたという。

 

又ある時門人の一人が宗忠教祖の書がどれくらいの価値があるのか試したいと思い、著名な鑑定家に意見を求めたことがあります。その鑑定家はじっくりと手蹟を見つめて、次のように言って大いに感嘆したそうです。

 

「なんとも驚き入った筆蹟ですが、思うに菅原道真公以来このような書を書ける人はいないと存じます。とても高徳の人でなければ、このように書けるものではありません」との驚くべき鑑定でした。

 

平成の「太陽の神人・黒住宗忠」著者山田雅晴先生は、黒住教本部の宝物館に展示されている「天照皇太神宮」の掛軸を見て、その力強さと優雅さに心底驚き思わず拍手して拝んでしまったと本に述べられています。

 

書はその人の人間性がそのまま発露されますので誤魔化しようがありません。小生が若い頃禅に傾倒している頃師匠が、江戸時代の白隠和尚の墨蹟について講話した内容です。

 

数多くの白隠墨蹟のなかで「鉄棒」を描いた書があり、古来とりわけ禅者のいろいろ話題にされてきた有名な禅画です。

 

この書について「あまりに禅定力(本来の気迫・精神力)が強くて居間に飾っていても、ものすごい原爆みたいな迫力なので、飾っておれない程圧倒される掛軸です。いずれ西洋人の中でこの白隠墨蹟の鉄棒の真価を本当に理解できる者が現れて、日本に禅を学ぶに来る時代が到来するだろう

 

と白隠の圧倒的力量のすごさを評されたことがありました。さすが日本の臨済禅宗復興の祖と言われる稀代の禅者です。

 

このように墨蹟は数百年経っても肌に感じられる迫力があり、人間性が書にそのまま忠実に反映されます。宗忠教祖の筆跡は徳と優雅さに特色がありますので、白隠禅師とは趣が異なります。

 

又明治天皇の御父上の孝明天皇は宗忠教祖を厚く信仰され、明治18年京都の宗忠神社を唯一の勅願所として指定されました。孝明天皇が心より深く帰依された神人でした。

 

天皇が民間の一神道家を勅願所として扱うことは異例中の異例のことで、日本の歴史上に例がありません。そのため幕末日本が生んだ不世出の神人として「仏教に弘法大師空海あれば、神道に神人黒住宗忠あり」と讃えられています。

 

さらに九条家、二条家、六条家、甘露寺家、徳大寺家と続々公家達の信仰する人々が増えていきました。明治維新の功労者三条実美もそのうちの一人です。これは赤木忠春高弟の活躍によるものです。

 

東郷元帥の活躍

 

尚日露戦争のバルチック艦隊を撃破した東郷元帥も母上の影響で宗忠教祖を熱心に信じて、日本海海戦の最中でも宗忠教祖の御歌をひたすら胸中で唱えながら全身全霊で戦ったと言われています。

 

東郷元帥は海戦前に黒住教の東京教会所を訪れ「どのような心構えで戦ったらいいのか」教えを受けており、その時授かった教祖の歌が下記にあります。

 

身も我も心もすてて天つちの

         たったひとつの誠ばかりに 

 

神国日本の興廃をかけて戦った乾坤一滴の覚悟の神歌です。元帥は全国民の必勝祈願の重みをこの歌に託してロシアと戦ったといえます。

 

現代の我々もこの御歌を口ずさみ、東郷元帥の命懸けの心境を少しでも垣間見るのも、大切な経験と思います。

 

先人がいかにお国の為に全生命を懸けて尽力してきたか、有難さが身に沁みて分かります。又天照大御神の宇宙的壮大なご神徳が天から降ってくる感があります。

 

あの史上稀に見る日本海海戦の神懸かり的な大勝利は東郷元帥、秋山真之参謀の指揮もさることながら、天照大御神の国を守るご加護があればこそと考えられる。

 

秋山参謀も運の良さ即ち天の力を強く意識され、秋山参謀の長男は神主に進まれた逸話があります。

 

 日本は生まれ変わる!

 

宗忠教祖が幕末に出現したのは時霊(ときたま)の歴史的要請があります。仏教の台頭期には弘法大師空海が歴史に登場しましたが、

 

今世紀の地球の大変動期には神人の宗忠教祖が、縄文時代の太陽信仰への原始的回帰の祖として再度日本に復活するだろうと考えています。  

 

太陽神を万物の命の源として魂の根源・故郷とみなす宗忠教祖の考え方です。日本人が縄文の冬至の伝統を繋ぐ日が又やってきます。宗忠教祖が冬至の日に生まれ、冬至に「天命直受」の悟りを得たのも納得できます。

 

天命直受は文化11年11月11日の冬至の日です。1が6つも続く珍しい日に大悟されました。三日三晩感激のあまり大きな声で笑い続けたという。これほどの徹底した大悟は禅でも見かけません。

 

それからの宗忠教祖はまさしく天照大御神の「太陽の子」であり、天照大御神と「同魂同体」であられました。

 

2024年冬至の日から日本は生まれ変わります。再度縄文の冬至祭が日本人に復活します。

 

 

人類の魂の結末は3択

 

もっともこれからは大変動期の二極化は避けられなくなり、今後ますますその差は開いてまいります。世界は日に日に混乱度を増して,誠に過酷で残酷な現実に直面します。

 

戦争犠牲者、飢餓死、病没者、薬害被害者、大小災害死者等、膨大なる地球人が今後この地を去っていきます。又3次元者、唯物論者は別世界、他の星へ離れていきます。

 

実はスピリチュアルな世界でお互い(3次元者・唯物論者と5次元者・霊性信奉者)が別々の世界に移り住むということが、どうしても理解できなかった。

 

明らかに考えの異なる人々は近くにいるし、朝晩交流しているのにどうして別な世界に分離して住むことになるのか。

 

これが具体的に理解できなかったが、その答えは今後約30年間(2020~2050)に渡り、徐々にゆるやかに棲み分けがなされ、別々に離れていくとのバシャールの言葉です。死別、気の合う同士の共同生活が地区別、地域別になるのでしょう。

 

そして永遠に死後も会えなくなるそうです。人類の魂の選択がなされていく過程です。

 

浅川嘉富さんは本「コロナ・終末・分岐点 魂のゆく道は3つある」の中で述べていますが、今生きている人類の三分の一は魂を消滅させられるとのことです。二度と輪廻転生がなく未来永劫に抹消させられるという。

 

はるか過去から転生を積み重ねてきた人類の魂の決着は ①高次元世界への転生か、②3次元世界に戻って出直しか、③魂の抹消がされて原子・分子に戻るのか、この3択だそうです。

 

総身に鳥肌立つような話です。それほど大事な時期( 13000年毎の大変革期 )に我々は生を享けているということを自覚しなければなりません。

 

確かに世の中有象無象(うぞうむぞう)が多すぎます。何十回、何百回生まれ変わっても、一向に進化向上が望めなければ、大掃除され魂が消滅させられてもやむを得ない。

 

人類80億人(スイス人ビリーマイヤーと交信しているプレアデス星人は実際は100億人の人類がいると言っています。彼らは瞬時精密に世界人口を計算できる驚くべき能力と技術の持ち主です。)は遙か過去から生まれ変わりして、究極の決着時の現在に生きている。

 

この大事な時期においてすら、悪心、極悪行、強欲、怠惰な者達が地球上を勝手に支配し居座り続けているが、彼らがあちらの世界へ行ったら消滅対象になるのだろうと考えております。

 

そしてその対象はおびただしい膨大な数に上るでしょう。「地獄の閻魔大王のほうが消滅されるよりまだマシだよ!」と正直そう思う。

 

人類の3択は地球だけでなく宇宙全体の各星団、星にも適用される法則だろうと考えています。この法則が各宇宙人の霊的進化を促したのではないでしょうか。

 

明日死ぬかもしれないのに、お金、地位、権力、名声のために血みどろの努力の空しさ、しがみ付く愚かさに気付くべきです。

 

今は各人が魂磨きに徹しましょう。これが大きな決定的分岐点となります。アセンションして高次元へ進むのです。

 

地球自体は5次元へ進化するので、それなりの霊性の高さでないと新地球に生まれ変われる資格がありません。今までは低い魂も地上に輪廻転生できたが、今後は弾き出され他星へ転生するか又は消滅させられる。尤も他星への転生は指導者としての立派なお役目の魂もあります。

 

エササニ星のバシャールは2026年頃から宇宙人、つまり地球外生命体との交流も始まると言っています。高い霊性の異星人との邂逅は、地球人の思考を一掃する程の影響を与えるでしょう。それが楽しみでもあります。相手は神に近い存在ではなかろうか。

 

多次元世界の地球外生命体は我々の物理的思考方法をはるかに超越して、数百光年でも一瞬に移動できます。地球人より数万年、数百万年先をいく高い霊的、技術レベルの大先達者です。愛と調和の高波動の持ち主と言われています。

 

hinomoto(小生)は多くの地球人が宇宙人との平和的交流を繰り広げる光景を見届けてから、この地球を去りたいと願っています。そして大和の国の日本が、地球外生命体との出会いの先陣を切るような気がしてならないのです。

 

 

孝明天皇と宗忠教祖  下記をご覧願います。

国難突破 日本人のほとんど知らない歴史秘話 赤木忠春高弟

 

 

 

 

Gokaibi  – About the Miracle of Okayama, Where It Hasn’t Rained for Several Years
Oyasama (Munetada Kurozumi )
Gokaibi are the days on which Oyasama’s “Speaks”. He had decided on 2 and 7 days of the month for the monthly gatherings, and gave the sermon six times a month (Gokaibi *on 2, 7, 12, 17, 22 and 27th of the month).

 

However, when it began to rain during the lectures, the people who came to the lectures often began to murmur in the hall.

 

In Okayama, where a lot of igusa is grown, people were most afraid of rain when they were cutting and drying the igusa.

 

When it rained in the middle of the day, some of us would get ready to leave, and the meeting would become restless and uneasy. There were many people who still did not really understand the main intention of the path, so they would sometimes rush home, causing the meeting to become crowded with people in a hurry.

 

At that time, Oyasama  said, “Don’t worry, everyone! It will never rain from today on. Listen to me until I tell you what I have to say! Listen to me until you feel at ease!”

 

The Divine Virtue of Amaterasu

As he said, even on rainy days, the weather turned out to be fine, six times a month, 72 times a year, and for several years (reportedly five years), it never rained.

 

For this reason, it was spread throughout the neighborhoods without anyone’s knowledge, and the people came to firmly believe in it. People began to say, “It never rains on  Gokaibi,” which means it never rains on the Gokaibi.

 

People began to believe that there was no fear of rain, and they were able to go to meetings with peace of mind. Even on days when it was cloudy in the morning and there was a fear of rain, people would dry their sorghum in peace because today was a good day for the meeting.

 

However, a few years later, he suddenly thought that although it had not rained once since then, he should decline because it is truly a fearful thing to have the weather be so conveniently influenced by the weather.

 

Since then, it has been possible to have rain even on the day of  Gokaibi.

 

Even today, there are many days when the weather is fine on Gokaibi. It is nothing short of marvelous that Amaterasu, through Oyasama, has demonstrated Her vast divine virtues to such an extent that even the weather of a region can be affected for a long period of time.

 

Thus, the divine virtues of Amaterasu are vast and boundless. Oyasama , who has brought such divine power to the Okayama region, is an existence that is beyond the scope of human beings.

 

The Deity’s Rarely Seen Deity’s Writing in Japan

One year, Mr. Katsusuke Fujita, a senior vassal of the Bizen clan and a student of  Oyasama, came to the New Year’s celebration.

 

Oyasama said, “I have written the divine name you have requested for some time. I wrote this divine name with the heart of an 18-year-old. Oyasama said, “I wrote this divine name with the heart of an 18-year-old.

 

Fujita-sensei received it gratefully, and on his way to Kyoto, he stopped at a house in Kyoto to have his work done there, as he had just arrived in Kyoto that year. He stopped at a house in Kyoto on his way there, which was the home of an expert in judging ink color.

 

When I showed him the scroll, he said, “This is a truly wonderful calligraphy, probably one of the rarest and most virtuoso brush strokes of all time in Japan.

 

However, there is one thing I cannot agree with. It is puzzling that a person who has accumulated such great virtues should have reached the age of 20 years old.

 

Perhaps a person who has acquired this great virtue must be 60 to 70 years old, but this brush stroke is not above the age of 20. At any rate, it is a fearfully virtuous brush! It is said that he was amazed at the calligraphy.

 

On another occasion, one of his students wanted to test the value of a painting by  Oyasama and asked a famous connoisseur for his opinion. The connoisseur looked at the calligraphy carefully and was greatly impressed.

 

I don’t think anyone since “Sugawara no Michizane” has been able to write like this. Only a person of very high virtue could have written it like this.

 

Masaharu Yamada, author of “Kurozumi Munetada, God-Man of the Sun,” says in his book that when he saw the hanging scroll of “Amaterasu God” displayed in the treasure house of the Kurozumi Sect headquarters, he was truly surprised by its power and elegance, and involuntarily applauded and worshiped it.

 

Calligraphy is a direct expression of a person’s humanity, and there is no way to deceive it. When I was young and devoted to Zen, my teacher gave me a lecture on Hakuin’s ink seki during the Edo period (1603-1868).

 

Among the many calligraphic works of Hakuin, there is a famous Zen painting depicting an Iron Bar, which has been a topic of discussion among Zen practitioners since ancient times.

 

The painting is so powerful that even if it were displayed in a living room, it would be so overwhelming that it would be impossible to keep it there.

 

Hakuin’s overwhelmingly powerful calligraphy was once described as “so powerful that even if it were displayed in my living room, it would be so overwhelming that I would not be able to display it. Hakuin is indeed a rare Zen master who is considered the founder of the revival of the Rinzai Zen sect in Japan.

 

In this way, the power of Hakuin’s works can be felt even after several hundred years, and his humanity is faithfully reflected in his writings. The handwriting of Sochu is characterized by virtue and elegance, and differs from that of Hakuin.

 

Emperor Meiji’s father, Emperor Kōmei, was a great devotee of Sōchū Oyasama and designated Munetada Shrine in Kyoto as the sole place of worship for him in 1885. Emperor Komei was deeply devoted to Oyasama.

 

The number of people who believed in the shrine increased one after another, including the Kujo family, the Nijo family, the Rokujo family, the Kanroji family, and the Tokudaiji family, as well as the nobles. Sanjo Sanetomi, who contributed to the Meiji Restoration, was one of them. This was due to the activities of his younger brother Tadaharu Akagi.

 

It is said that Admiral Togo, who defeated the Baltic Fleet in the Russo-Japanese War, trusted in  Oyasama and fought with all his might while chanting Oyasama’s Shinto Songs in his heart.

 

The victory of the Battle of the Sea of Japan, a rare victory in history, was not only due to Admiral Togo’s command, but also to the blessings of God.

大いなる奇跡と霊験の黒住宗忠について About the Great Miracle KUROZUMI MUNETADA

 

黒住宗忠教祖は国家神道の天照大御神を個人の親神として説いた幕末の偉大な霊的指導者です。

 

大いなる霊験者の宗忠教祖のお人柄について驚嘆すべき話が、いくつか残っていますのでご紹介いたします。

 

1.放火犯を祈られる

 

ある朝教祖の家の屋根がところどころ焦げていたので、ある人が屋根に上って見てみたら7か所も火をつけられていたことが分かりました。

 

幸いに大事にならずに済みましたが燃えさしの松明(たいまつ)の残りがあり、それをもって降りてきて教祖に差し出しましたら「ああ、これはほんとに恐ろしいことでした。いやどうもご苦労様でした!」とお礼を述べられました。

 

「まことに人の家に火をつけるとは、恐ろしいことです。もし発覚したら重い刑に処せられ、火あぶりの罪にも問われるものを!幸いに大事に至らずに済んでよかった。人様にこのような大罪を犯させたことは、神様に申し訳ないことだった。

 

無事に済んだお礼と人が犯したお詫びを、神に申し上げなければならない。その人が心を改めて正しい真人間に、立ち返るようにお祈りしよう!」と燃えさしのたいまつを綺麗に洗い、塩水で清めて火をつけたその者の改心と開運のために、3週間誠意を込めてお祈りされました。

 

放火犯謝りに現る

 

すると不思議なことに3週間の満願の夕方見知らぬ男が、お宅に来訪しておそるおそる震える声で語り「私は20日ほど前にお家の屋根に上り火をつけましたが、どういうものか、つけてもつけても燃え上がりません。

 

よく乾いている草ぶきの屋根に火のつかぬはずはないのですが、7か所ばかりもつけました。それでもどうしても燃え尽きませんので、恐ろしくなりやっぱり尊いお方であったことが分かりまして、たいまつの燃えさしをそこに投げ捨てて逃げ帰りました。

 

それから相すまぬことをしてしまったと深く後悔して悩みつづけ、思い切ってお詫びに上がりました。どうぞお許しのほどをお願いいたします」と白状したそうです。

 

教祖もお祈りのご誠意が届いたことをお喜びになりまして、お道の趣旨をその者に説き諭しになりました。その者は涙を流して感激しついに神文を捧呈して、正しい道に進んでいったということです。

 

この者は修験者、祈禱者の類で教祖に帰依する者が次第に多くなり、そねみと恨みから放火に及んだという話です。「汝を呪う者のために祈れ」という尊い言葉がありますが、正しく教祖の例がこれに当ります。

 

宗忠教祖がいかに純粋で清らかな人物だったかよく理解できる話です。放火犯のために21日間誠意を込めて、お祈りされた行為が神に届いた貴重な話です。

 

2.追いはぎに金を恵まれる

 

教祖が家への帰り道に日が暮れ、人家もなく寂しい所(米倉あたりかと聞く)を歩いていましたら、物陰から現れた男が突然道をふさぎ「ぜひ10両の金が要るんだ。貸してくれ!」と迫りました。追いはぎです。

 

これを聞いておられた教祖はその男の顔を見つめておられましたが、やがて物静かに「ぜひ入用か。このような寂しい夜道に立って知らぬ者に金の無心をなさるとは、よくよくの事と思います。分かりました。お貸ししましょう。

 

しかし今は5両しか持ち合わせがありません。まあお気の毒ですが今夜はこれだけ持ってお帰りなさい。あとの5両は今村のお宮の手水鉢のそばへ埋めておきます。目印に小さな石を置いておきましょう。明日の夜お取りください。間違いなく5両埋めておきます」

 

追いはぎはしばらくは、じっと教祖の顔を眺めていましたが「見るからに正直そうな老人だ。うそは言うまい。それにしても丁寧な者だ。

 

10両と言ったらそれをそのまま真に受けて、大枚5両をくれた上に又明日の夜5両くれようとは!」とあきれ気味に感心しながらもその夜は立ち分かれました。

 

さて半信半疑で翌日の夜今村宮に行ってみると約束通り目印の石の下に5両が置いてあり「ああやっぱり正直なお方であった。

 

今時こんな神様のような人はいない!」と教祖の誠心に感じ入り、自分の間違った心、行為を深く恥じ入って、やがて門人の一人として厚く信心するようになったといいます。

 

まるで嘘のような話と思われるでしょうが、教祖は相手を非難するような気持ちは一切なく追いはぎに立ち治りの機会を与えられたのです。

 

3.濡れ衣を着せられる

 

ある親戚筋より6両の借金をされ、全額返済されましたが、相手より再度の返済催促がありました。そのとき教祖は6両という高額の催促を黙って再度払われました。

 

その時の歌です。

 

    誠をば神は見すらん濡れ衣

       人には着せじ身は重くとも 

 

「既に払った」ときっぱり言えば、誰かに疑いや詮索等のいろいろな問題を引き起こす羽目になるとお考えになって、自ら「濡れ衣」を黙って着られたということです。

 

4.横領のえん罪を甘んじて受けられる

 

ある武士に借金していた人が返済せず催促されるたびに、その場限りの言いのがれで済ましてきましたが、とうとうその武士がしびれを切らし、借金返済に自ら乗り込んできました。

 

借金を払わない場合相手を「切り捨て」しても払わせる意気込みです。困った相手はその武士が黒住先生を尊敬していることを知っており、先生にかこつけて「あの金はもう大分前に最初お話を下さった黒住先生にお渡ししてあります」と嘘をつきました。

 

その武士はすこしおかしいとは思ったのですが、相手があまり強く言い張るので教祖の家に顔色を変えて参りました。

 

玄関で武士の訪問を受けた教祖は、只ならぬ雰囲気の武士の様子を見てとっさに「確かにその金は受け取りましたが、今手持ちの金は半分しかありません。とりあえず半金だけ今日お渡しします。残りは近日中に持参いたします」となんとかその場をしのぎました。

 

そのあとで奥様が尋ねられました。「只今のこと本当なのでございますか。あなたがお受け取りなっておられたのですか。仮にも人様のお金を黙って使い込んだとあっては、人の道を説いておられるあなたとしては道の汚れとなるでしょう !」と述べられました。

 

それに対して教祖は「今あの侍の顔を見たら、血相変えて殺気だっておった!もしわしがありのままを言ったら、直ちに引き返してあの者は切られてしまう。

 

これはどうしても、わしが罪をかぶってやらねば と即座に決心して嘘をついたのじゃ。奥や まあ ありがたいことに人一人の命が助かったのじゃ!わしの名がなんだ。みんな天が知っておられることだ。これが本当の道じゃ!」と答えられたとのことです。

 

5.井戸に落ちた子猫の話

 ( 無限なる宇宙世界で自由自在に生きよ!窮屈な物質界に囚われて過ごしてはならない。)

 

岡山へご神用のためある地方へ行かれた時の話です。大勢の者が集まって何か事ありげに見えましたので、教祖も立ち止まってご覧になりました。

 

すると井戸の底に子猫がはまって溺れ死にそうにしており人々が助けているところでした。小さなザルを綱に吊るして下げてやると子猫がザルに飛び移ります。

 

それを引き上げてあともう少しで助かる井戸の先端まできたところで、子猫が道へ早く飛び出そうとしてドブンと井戸の深い底に落ち込むのです。

 

何回やっても猫が早まって飛び出すので助けられず、井戸に落ち込むのを何回も繰り返しています。

 

じっとご覧になっておられた教祖はいつしか涙目になって思わず泣かれてしまわれました。随行の銀治兵衛さんは「助けられずかわいそうですが、たかが猫一匹のことです。何も大先生のあなた様が泣かれるには及びません!」

 

これを聞いた教祖は「銀さん、子猫のことではありませんぞ!あれは人間のことですぞ!人は利口そうに見えてもあの子猫と同じことを繰りかえしています。

 

神様が助けてやろう、助けてやろうとお骨折りなさっても、もう少しじっとしておれば助かるものをすぐ自らの要らぬ自我を出し、あたら命を捨てております。

 

そして自ら深い業の淵に飛び込んでいく。神様がどんなに人を哀れと思し召しになっていることか、泣かずにおられません!」と仰せになりました。全くそのお言葉通りです。

 

天にお任せして大らかに生きれば思う通りの世界に生きられます。唯物的な独りよがりの我よしの自我を捨て去り、神のご加護の下に自由に楽しく生きることです。

 

6. あわや船の転覆を免れた話 

 

宗忠教祖が転覆沈没寸前の船より、歌を書いた懐紙を海に投じて一瞬で嵐がおさまった話です。

 

「教祖様の御逸話」には「小串沖ご難船」というタイトルで記載されています。弘化3年(1846年)3月8日宗忠教祖は小豆島方面に向かう途中、小串沖(岡山市南区)での出来事です。

 

いままで静かな海がにわかな突風で吹き荒れ、大波のため航行中の大小の船が大揺れに揺れて転覆しそうな事態になりました。教祖が乗っていた船も、転覆沈没せんとするような状態です。

 

船頭達も必死になって転覆を避けようと懸命に努力しましたが、どうにも転覆を免れなくなり、同船の客たちは助けを求めて大騒ぎとなり神仏に祈ったりしていました。

 

教祖はひとり静かに、目を閉じどっしりと座っておられます。船頭が「この船もいよいよ転覆します。どうか覚悟してください」と大声で皆に叫びました。

 

教祖はその声をお聞きになって矢立を取り出し、懐紙を開いて歌をサラサラとお書きになりました。

 

 波風をいかで鎮めん海津神(わだつかみ)

       天つ日を知る人の乗りしに   

 

(日の神である天照大御神のご神徳を世の人に広めている自分が、乗っている船を沈める気か。海をつかさどる竜神よ、波風を鎮めなさい)

 

と一首の歌をしたためて海中に投ぜられるや、いままでに嵐のような大波が一時に静まって凪のようになり海に投げ出された人々も助けられました。

 

その救われた人の中に鳥取県松崎の伊東定三郎という人がいました。この人は息子と金毘羅宮へ参拝の途中別な船に乗船していましたが、この大嵐に巻き込まれ親子共々波間に投げ出されたところを波が急におさまり助けられた話があります。

 

尚伊東定三郎は大商人の船木敬重の番頭であり、この奇跡体験の話を主人の船木敬重にして、敬重が黒住教に関心を持つ切っ掛けになった経緯があります。後の船木敬重は黒住教の大いなる資金的援助者になります。

 

急に嵐がやんだ理由が後になって、別な船に乗っておられた宗忠教祖のお蔭だということを定三郎は知って黒住教徒となりました。伊東定三郎も船木敬重もやがて教師として布教におおいに尽くされた話が伝えられています。

 

又この話と関連していると思われる話が他にもあります。かつて弘法大師が仏教を求めて遣唐使の船に乗って、唐の国に渡ろうとした時に暴風と大波に襲われ、船が転覆沈没の危険性がありました。

 

しかし大師は大和の人達を仏法の教えに導くため唐に行くのであるから、船が沈没するはずがないと全く動揺のない平然たる態度をとられたことを思い出させるものです。

 

嵐を終息させる目に見えない力が、この世に厳然として存在している証左として取り上げました。下記の古神道霊験秘話の大嵐のご神事も同様な話です。

 

古神道霊験秘話より 大嵐の中のご神事

 

There are still some marvelous stories about the personality of Kurozumi Munetada, the Great Spiritual Examiner, that I would like to share with you.

 

1. Prayer for an arsonist

 

One morning the roof of Munetada’s house was charred in some places, so someone went up to the roof to take a look and found that seven places had been set on fire.

 

Fortunately, it was not serious, but there were remnants of torches that had been set on fire, and when he came down with them and presented them to Munetada,

he said, “ Oh, this was truly a terrible thing. Thank you very much for your hard work ! It is truly a terrible thing to set fire to someone’s house.

If it had been discovered, he would have been severely punished and even burned at the stake ! Fortunately, it was not serious. I was sorry to God that I had caused people to commit such a serious crime.

I must thank God for the safe outcome and apologize to God for the person’s transgression. I pray that the person will change his mind and turn back to a righteous and true human being ! “

 

He washed the torch clean, purified it with salt water, and prayed with sincerity for three weeks for the reformation and recovery of the person who had set the torch on fire.

 

Arsonist Appears to Apologize

 

Strangely enough, on the evening of the three-week period, a stranger came to the house and said in a trembling voice,

“About 20 days ago, I went up on the roof of your house and set it on fire, but somehow, it did not catch fire even though I put it on.

It was impossible for a roof made of dry grass not to catch fire, but I lit fires in as many as seven places. I was so frightened that I realized that it was the Goddess of Mercy, so I threw the torch’s cinders there and fled home.

I was deeply sorry for what I had done, and I continued to be troubled by my regret. Please forgive me.”

 

Munetada was pleased that the sincerity of his prayer had been received, and he explained the purpose of the path to the man. The person was so moved to tears that he finally offered the Divine Grant and proceeded on the right path.

 

The story goes that this person was a kind of ascetic or exorcist who gradually became a devotee of Munetada, and out of envy and resentment he set himself on fire. There is a noble saying, “Pray for those who curse you,” and Munetada’s example is a perfect example of this.

 

This story shows how pure and innocent he was. It is a precious story that the act of praying with sincerity for 21 days for the arsonist reached God.

 

2. being blessed with money by a highway robber

 

Munetada was walking home at sunset in a deserted area (around a rice granary, I hear) when a man appeared from the shadows and suddenly blocked his way, saying, “I really need 10 Ryo of Gold. Please lend me the money! He was a robber. He was a robber.

 

Munetada, who was listening to this, stared at the man’s face, but then quietly said,

“You need it ? I am surprised that you would stand on such a lonely nighttime street and ask a stranger for money. I understand. I will lend you the money.

But I only have five cars on me at the moment. I am sorry to say this, but please take this much with you tonight and go home.

I will bury the other five by the water bowl at the shrine in Imamura. Leave a small stone to mark the spot. Please pick them up tomorrow night. I will definitely bury the five cars.”

 

The chaser looked at Munetada’s face for a while, but then said, “He seems to be an honest-looking old man. He would not tell a lie. He is a very polite man.

 

When I told him that I would give him 10 cars, he took it as it was and gave me 5 Ryo of Gold, and then gave me another 5 Ryo of Gold orrow night ! The “Mere Old Man” left that night with a sense of dismay and admiration.

 

The next night, I went to the Imamura Shrine with half a doubt in my mind and found the 5 Ryo under the stone as promised.

 

There is no one like a god nowadays ! He was deeply ashamed of his wrong mind and actions, and eventually came to have strong faith in him as one of his students.

 

It may sound like a lie, but Munetada never had any blame to the other party and was given a chance to recover from the crime of being chased.

 

3. being falsely accused

 

Munetada was once again asked to repay a debt of 6 Ryo by a relative, which was repaid in full. However, the other party demanded another repayment. At that time, Munehata paid the high demand of 6 Ryo  without telling anyone.

 

 

If he had said flatly, “I have already paid,” he would have caused suspicion, scrutiny, and various other problems, and so he silently put on the “robe of shame” himself.

 

4. accepting the guilt of embezzlement

 

Whenever a person who owed a debt to a certain samurai was urged to repay the debt, he would simply make up a perfunctory excuse, but finally the samurai grew tired of the situation and came to him himself to repay the debt.

 

The warrior was determined to make the debtor pay even if he had to “cut off” the debtor if the debtor did not pay. Knowing that the troubled warrior respected Munetada Sensei, he took advantage of his respect for Sensei and lied, saying that he had already given the money to Kurozumi Sensei, who had first spoken to him long ago.

 

The warrior thought this was a little strange, but the other party insisted so strongly that he changed his face and came to Munetada’s house.

 

When Munehada was visited by the samurai at the entrance, he saw that the samurai was in an unusual mood and immediately said,

“I have indeed received the money, but I have only half of the money on hand. For now, I will give you only half of the money today. I will bring the rest in the near future.

After that, his wife asked me, “Is it true what you just said ? Is it true what just happened ? Was it you who received the money ?

If you have spent other people’s money without telling them, it would be a disgrace to you, who preach the Way of the People !”  In response, Munetada said, “Now, that money is being spent.

 

In response, Munetada said, “When I looked at the samurai’s face, it was bloodthirsty and furious ! If I had told the truth, he would have turned around and been cut down.

I must take the blame for this, so I immediately made up my mind to lie. Thankfully, a man’s life was saved ! What is my name ? The heavens know it. This is the true way !”  He replied, “This is the true way !”

 

5. the story of the kitten who fell into the well
 (Live freely in the infinite cosmic world ! Do not spend your time trapped in the cramped material world.)

 

It is a story about a time when He went to Okayama city on a divine mission. A large group of people had gathered and looked as if something was happening, so Munetada stopped to look.

 

He saw that a kitten was stuck at the bottom of a well and was about to drown, and people were rescuing it. A small colander was hung from a rope and lowered, and the kitten jumped onto the colander.

 

When they pulled it up and almost reached the top of the well, the kitten tried to jump out of the way and plunged with a thud into the deep bottom of the well.

 

No matter how many times we tried, we could not save the cat as it jumped out prematurely and fell into the well over and over again.

 

Munehata, who was watching the scene closely, eventually became teary-eyed and cried uncontrollably. The attendant, Ginjibei, said, “I feel sorry that we could not save the cat, but it was only one cat. There is no need for you, Oyasama, to weep !”

 

Hearing this, Muneada said, “Gin-san, I am not talking about a kitten! I am talking about human beings! People may look clever, but they are repeating the same thing as that kitten.

 

Even though God makes every effort to save them, they could be saved if they would just stay still a little longer, but they immediately give up their own unnecessary ego and throw away their lives.

 

And then, he himself plunges into the abyss of deep karma. I cannot help but weep, thinking of how much God pities mankind ! “

He said, “I cannot help but weep ! ” It is exactly as he said.

 

If we leave everything to the heavens and live with a generous heart, we can live in the world as we wish. We must put aside our materialistic, self-indulgent ego and live freely and joyously under the blessings of God. 6.

 

6. the story of how the ship was saved from capsizing in the nick of time 

 

In this story, Munetada was on the verge of capsizing his ship when he threw a piece of paper with a poem written on it into the sea, and the storm subsided in an instant.

 

The story is described in “Anecdotes of Munetada” under the title of “Kogushi Oki Gosainan Boat” (A ship in distress off Kogushi). On March 8, Koka 3 (1846), Munetada was on her way to Shodoshima when she encountered a storm off the coast of Kogushi (Okayama City).

 

The previously calm sea was suddenly swept away by a gust of wind, and the large and small boats under sail were rocked so violently by the heavy waves that they nearly capsized. The ship on which Munetada was riding was also in a state of near capsizing.

 

The boatmen tried their best to avoid capsizing, but they could not avoid capsizing, and the passengers on the boat were in an uproar, praying to the gods and Buddha for help.

 

 

Munetada sat quietly with his eyes closed. The boatman said, “This ship is about to capsize. Please be prepared.”

 

Hearing his voice, Munetada took out his Yatate, opened a piece of kaishi paper, and wrote a poem on it.

 

Wadatsutsukami, the god of the sea, who calms the wind and waves
      To the rider who knows the heaven and the sun

 

(I, who am spreading the divine virtues of Amaterasu, God of the sun, to the world, do you dare to sink the ship on which I am riding? O Dragon God who controls the sea, calm the waves and winds.)

 

The stormy waves that had been swept out to sea were suddenly calmed, and the people who had been thrown overboard were saved.

 

Among those saved was a man named Ito Sadasaburo from Matsuzaki, Tottori Prefecture. He was on another boat with his son on their way to worship at Kompira-Sama when they were caught in a great storm and both father and son were thrown into the waves, but the waves suddenly subsided and they were saved.

 

Ito Sadasaburo was the chief watchman of Funaki, a large merchant, and he told his master, Funaki Keishige, about this miraculous experience, and Funaki became interested in the Kurozumi-kyo.

 

He later learned that the reason the storm suddenly stopped was due to Oyasama  on a different ship, and he became a Kurozumi-kyo member. It is said that he eventually became a teacher and devoted himself to missionary work.

 

There is another story that seems to be related to this one. Once, when Kobo-Daishi was about to travel to Tang China in search of Buddhism on a Japanese envoy’s ship, the ship was struck by a storm and heavy waves, and was in danger of capsizing and sinking.

 

However, the Master was not upset at all because he was going to Tang China to lead the people of Yamato to the teachings of Buddha Dharma, and he was completely unperturbed.

 

I have taken this up as proof that there is an invisible force in this world that can end a storm.

Translated with DeepL.com

 

 

 

 

 

 

 

 

 

⑧大いなる奇跡と霊験 12時間以上の死児(3才)が生き返る!

日の出に向かい思い切り御陽気を腹いっぱい吸ってお祈りします。この地球に生かせていただく幸せを伏して感謝いたします。

 

3才の死児が蘇生した話 信 (まこと)の落穂集より

 

今まで蘇生の例をいくつか挙げてきましたが、今回は「信 の落穂集」より3才の死児の蘇生の例をご案内します。目に見えない世界を理解し思考するには貴重な実例です。

 

黒住教明神教会の「信の落穂集」から転載します。この本は昭和42年9月発行で、2代と3代所長を追加しての重版です。初版は昭和25年です。

 

初代所長石田佐吉、2代所長石田精三郎、3代所長石田佐々雄(敬称略)にわたる黒住教の奇跡的病気治療を始めとしてさまざまな話が記載されています。

 

現在、世界中を見渡しても石田佐吉先生ほどの力量の方を探すのはかなり困難と思われます。それほど卓越した稀有な人です。

 

初代の石田所長は「石田の一吹き」と言われ、信者の数多くの病を治されてこられた有名な方です。又孝養と慈愛を尽くされ、郷党の人から一心に敬意を受けられた偉人でした。

 

初代の石田佐吉先生

本そのものは小冊子の104頁ですが、序文に「この本の表紙の【信】なる文字は、西晋一郎先生(元広島大学名誉教授)の書かれたものです」とあります。尚西晋一郎先生は太平洋(大東亜)戦争の敗戦受諾に尽くされた高名な学者です。

 

hinomotoの父が若い頃この西晋一郎先生を崇拝して、先生の「晋一」の字を取り私の名前にしたと聞いていました。偶然この本を思いがけず発見し、自分の名前の由来を思い出してなにかご縁を感じる次第です。この本の表紙に鮮やかに信の一文字が印刷されています。

 

後に(2024年夏)西晋一郎先生の昔の写真が、何故か私の前に急に出てきました。半世紀前に亡くなった父親が若い頃写した写真でした。

死児を半日以上背負い、石田先生を訪ね歩く

 

池内イワと岩吉の間に生まれた二女シマは3才の時に病気にかかり、介助のかいなく脈、呼吸が絶えて医者も死亡と診断しました。明治15年4月9日午前5時のことです。親戚は埋葬の段取りを考えていたそうです。(文中の敬称略)

 

常に宗忠教祖を深く信仰し、又石田佐吉(石田の一吹きと言われ数多くの人の命を救ってきた初代所長)を慕ってきた池内の両親は石田先生から*「おかげ」( 奇跡 )をいただき、

 

死んだ子供の命を助けようと母のイワは冷たくなっている子供を背にして、夫の岩吉と共に石田所長を尋ねて家を出ました。

 

死児を背負い交通の不便な明治時代に、山道を徒歩で石田先生を探しに三坂峠の坂本村から石井村へ訪ね歩いた結果、探し求める先生は松山市の浅山という人の家にいることがやっとわかりました。

 

そして石田先生に会えたのはもう夜でした。読者の皆様想像してください。

 

子供の死亡時刻が午前5時と書いてありますから、死児を40キロ余り背負い歩いて石田佐吉先生に会えたのは夜です。すでに死亡後約12時間以上も経過しているのです。

 

その死亡した子が生き返る可能性が考えられますか? 現代医学の進んだ今の時代でも到底考えられないことです。

 

死亡直後であれば人工呼吸で息を吹き返すことがありますが、半日以上経過していれば不可能です。

 

現代医学では死亡後時間経過と共に脳組織の機能が失われ、数時間後の蘇生は回復不能との診断を下しますが、このような事例をどのように科学的に説明するのでしょうか?

 

しかし一途に石田先生を信じた両親に奇跡が起きたのです。ここに世間常識や3次元世界を超えた世界が、実際にあることを認めざるを得ないのです。

 

死児が蘇生した奇跡的事例

 

 信者の岩吉が「もし石田先生はお寄りではありませんか?」と玄関で尋ねると、石田先生は「おお!岩吉さんではないか、この夜半に何か用ができたのか?」との声です。

 

「三つになる子が病気にかかり呼吸をしなくなりましたから、先生を訪ねてまいりました!」。それに対して石田先生は「よくここまで背負って連れてきたな!さあ お上がり」と朝早くから訪ね歩いて、ようやくお会いすることができました。

 

先生がお祓いを上げられて腹に手をあて、*御禁厭(おまじない又はおとりつぎという。黒住教独特の言葉です)をされるうちに腹部が温かくなり「乳々, ちち!」と言葉を出して死児が蘇生しました。

 

なんと驚くことに半日以上も死んだ幼児が息をするようになり、生き返ったのです!あり得ないような誠に有難い霊験です。

 

黒住教ではこのような奇跡を宗忠教祖自身がよく起こされました。そのような事例を逸話に多く見ることができます。科学的に証明は出来なくても霊験は数多く起きます。

 

死児を背負って歩き続けた両親が今度は身体が温かくなり、生き返った我が子を抱いて家に帰り着くことができました。

 

蘇生したシマ女は後に菊沢縁三郎の嫁になり、その輿入れに当り母親イワから渡されたのはご神号でした。母は「お前の嫁入り道具はお粗末だけれど、これだけは尊いお道具だから大事に誇りを持って扱うように!」と渡されました。

 

菊沢縁三郎は以前の明神教会所の長老であると記されています。又母の池内イワは97歳の天寿を全うした篤信者で、群中町一帯の布教に努められた方です。

 

この本は約半世紀前に信者向けに少部数出版されたものです。先日教会に電話しましたら今この本は1冊も残っていないと言われました。

 

黒住教ではごく当たり前にこのような話が各地で伝えられ、おかげという言葉で表現されています。

 

「奇跡は起こそうと思えば起きる」とは不遜な考えですが、活物(いきもの)はこの宇宙に充満しているのでそれを掴まえよ!ということです。それは誠(まこと)の心だけで可能です。

 

面白いのは後に熱心な教えの大布教者になった方々は、最初はすべて教えを邪法、インチキの類と見ていた方々です。

 

なまじっか学問知識があるばかりに嘘の教えと考えており、「正法に不思議なし」と決め込みなかなか尊い教えに耳を傾けません。

 

赤木忠春、岡田敏子、船木敬重の大先輩等すべてそうです。3代所長の石田佐々雄先生すら最初の頃は、ごく普通の一般人と変わらぬ無関心の態度でした。

 

これは現代でも同様の反応が起きると見て間違いないでしょう。それほど天照大御神へ入門するにはハードルが高いという事です。

 

ましては戦後のガリガリの唯物論を教育として叩き込まれた日本人には、夢や幻のような信じられない眉唾話になるでしょう。だから本当に理解出るのは一部の人に限られます。

 

わが身に実際に「おかげ」が降りかかって始めて奇跡の実感というか信仰が出てくるということです。肌身が真底震える奇跡体験をしないと現実に有難さが分からないのです。

 

幕末の船木敬重(よししげ)大教正は大道宣布に半生を捧げられた実業家ですが、お道に入られる当初の頃「お道勤行記(おみちごんぎょうき)」によると「まじないの法は不知なれども、

 

赤木忠春先生より『誠心をもって天照大御神又宗忠神をひたすら祈り、一心の誠の心にてご陽気を吸い込み直ちにご陽気を吹きかければよい』とのことなり」と記載されています。

必ず治る④ 日拝治療法(2)

 

そのため最初はこわごわと 船木敬重翁はおまじないを実行されていますが、すぐ効果が表れて自分でもびっくりされている描写があります。船木敬重翁も大きなおかげを頂き入門されました。

 

ただ黒住教の「学びの友」にはまじないの法はほとんど具体的に記載されておりません。扱いは厳重なる注意が必須と考えられます。

 

神との直接対話に相当することですから絶対に軽々しく扱うことはできません。それなりの心構えが求められます。

 

石田佐吉初代所長(黒住教明神教会)の黒住教における目覚しい働きをいくつかご紹介します。

 

1.6年間の全盲が治る

 

伊予郡北伊予村の相原丈治は眼病を患い医者の治療も効果がなく、益々悪化してしまい朝夜問わず痛みがひどくなり、6年間全くの盲目になってしまいました。

 

当時26歳の妻は知人にすすめられるままに夫の手を引いて,明神教会所の御会日に参加しました。当時の交通事情の悪さから自宅を朝早く出発して、教会に到着したのは夜10時を過ぎていました。

 

参拝者は神前に溢れ足を入れる場所もなく、別の部屋で耳を澄まして石田所長の話を聞いていました。

 

所長のリンリンとした声が聞こえてきて「せめてあのお説教をしていられる石田先生のお顔が見たいものじゃ」とその方へ顔を向けると、

 

開け放しの神前のランプの光が見えてくるようになり、さらに驚いて見つめていると先生のお顔がはっきり視野に入ってきました。

 

夫婦は目が見えるようになって抱き合って喜び、人を押し分けて神前に行きお礼を申しました。そしてその場で、丈治は自ら高座に上がって

 

「この私の目が見えるようになりました…….」と感涙にむせびながら話をすると、満座の人々はどよめきわたり、感激の拍手の響きが谷間にこだましたということです。

 

以来相原丈治の信仰は固く厚くなり、伊予教会所を設立して初代所長となって活物(いきもの)の先生として、その地方一帯において数多くのご神徳のお取次ぎをしました。

 

石田所長の晩年のことです。ある家に招かれ迎えの馬に乗って門を入る際に、頭を打ち落馬して人事不省になったことがあります。

 

その時石田所長は「相原丈治を呼べ!」とうわ言のようにいい、駆け付けた相原丈治のご祈念によって正気に復したとされています。

 

盲目の方が開眼した例は下記のように多くあります。

必ず治る① 赤木忠春高弟 目がみえる!

③ 大いなる奇跡と霊験 見えるようになった! 岡田 敏子

② 大いなる奇跡と霊験 未来の霊的治療法 奥村円左衛門の開眼

幕末の黒住宗忠教祖 宗忠教祖の肖像画は非常に多く伝えられていますが、この肖像画が一番多く使われています。

 

2.目もない骨もない顔の奇形児が治る

 

松本猶二郎の娘は生まれた時から目の形が無く、骨もなく顔色は真っ黒い奇形児でした。

 

そのため両親の悩みは痛ましい限りです。そこで石田先生に御禁厭(おまじない)を願うと、先生は両親の心情を思いやり

 

「目は明朝までに出来て、10日もすれば骨も出来て、顔色も白くなる」とのことでした。果たしてその通りになり、大変な美人となって粟津村に嫁入りしました。

 

3.なくなった陰茎が元に戻る

 

ひどい花柳病(性病)を病んで陰茎の無くなった者が3人いましたが、それを見事に治して元通りになった話があります。

 

「男たちは陰茎がないため、立小便ができず大便の時のような恰好で用を足しておりました。それが元通りになって、

 

本人達は以前よりも立派なモノを頂きましたと言って有難がっています。もちろん本人よりその女房達が一番喜んでおります!」

 

とユーモラスに明るく披露話があって、皆それを聞いて大笑いしたとのことです。

 

4.見放された重症患者が治る

 

金子丈吉という方は脱腸により睾丸が裂けてしまい大便がその裂けた傷口より出るようになってしまいました。それを病院で診てもらっても治しようがなく、医者に見放されておりました。

 

ある日金子宅に招かれた石田先生は、ふさぎ込んでいる丈吉に「30日で治る!」と言い渡しました。同行していた人が「あのひどい病状の丈吉が、本当に30日で治るのですか?」と尋ねると「必ず治るよ!」との返答です。

 

果たして1か月後は全治して歩けるようになり、子供も二人出来て後に金子丈吉一族は神へのお礼として、津島教会所を建て信仰に励みました。

 

5.野津通貫大将のとめ子夫人の頭髪が見事に生える

 

野津大将が広島鎮台長の頃に、とめ子夫人を伴って伊予の道後に来られたことがありました。美しい夫人は禿頭症のため、頭髪が全部抜けてしまいかつらを頭に着けておられたのです。

 

夫人がかつらを取りますと、全く一毛すらない坊主頭です。

 

先生は威儀を正して大祓い3本、御禁厭(おまじない)をすませて「明春の4月6日は安芸の宮島に参ります。宮島でお目に掛かる時は、髪を「ぼたん」に結って御出で下さい。

 

もしその時までに今のかつらのままでしたら、そのかつらと石田の首をお取替え致します」と微笑んで辞去しました。

 

翌月5日夫人から連絡があり「頭にネズミの毛ほどの髪が伸びてきました」という報告です。更に翌年4月6日には約束通り「ぼたん」に結って来られました。

 

しかも以前の赤みのあるちじれ毛ではなく「この通り見事なものです」と神よりいただいた真っ黒い髪に大喜びだったそうです。頭に髪が立派に黒々と生え代っていました。

 

石田佐吉所長について

 

石田佐吉先生が巡回に村を訪れますと、お迎え・見送りに村から村への道筋は、大勢の人で溢れかえるほど盛大でした。

 

巡回先で先生がお風呂に入ると古いふんどしは妊婦の腹帯にお守りとして持っていかれ、代わりに新しいふんどしが置いてありました。

 

「死者が生き返り、らい病が全治した」というような多くの奇蹟に対して、人々が驚き怪しんで世間の問題になったことがあります。

 

警察は石田佐吉を呼び出し「人心を惑わすのは不都合だから、これらの所業を止めよ」と命令しましたが「天照大神の大道を説くことは、死んでも止めることはできぬ!」と応諾しません。

 

そのため未決囚として監禁され、後に大袈裟にしないようにとの注意処分で釈放されたことがあります。

 

他に30年のいざりが一度のおまじないで治ったり、腐った酒が清酒になったりと数限りない高大なるお取次ぎを行いました。

 

石田先生ほど「生き神様」として大勢の人々から親愛と尊敬を受けられた方はおられませんとは、後に土地の人々の皆語る感想でもあります。歴史上明記すべき人物で、語り継がれることと思います。

 

信の落穂集の序文について (昭和25年)

 

この本の出版にあたり石田佐々雄3代所長の序文記載は下記の通りです。

 

「 黒住信東先生から『地方でも逸事を記録してほしい。たとえば愛媛の石田佐吉先生のように数々の奇跡を起こされた事例を残してほしい』とのお言葉がありました。

 

一方当教会所でも菊沢縁三郎氏はじめ教師達から、記録の要望切なるものがあるので、資料の整理に着手したものの当初はなかなか進みませんでした。多くの資料の中から確実性のあるもの、お道の本領に添うものを採り、幾度か打ち合わせを経て精選しました。

 

初代所長は本田應之助先生(高弟赤木忠春の弟子で剣術家)の旺盛な「いき」をうけて、ご神徳の*「お取次ぎ」に身をささげてこられてきましたが、自己の能力を誇る気持ちはさらさらなく謙遜そのものでした。

 

一種の「はやり神さま」(一般社会に見られる霊能者。筆者注)に落ちなかった所以がここにあります。

 

二代所長はその真意を受け継ぎ『袴をつけた先生になるな』『名利にとらわれてはお道はつとまらぬ』と常に同僚後進を戒め、草莽(そうもう)の一信者,一介の門徒を以て自負していました。

 

『人為を去って誠の一筋に徹する』ことが本教会所の伝統であり黒住教の教えです。昭和25年晩秋 」とあります。

 

石田精三郎二代所長の面影

 

石田精三郎二代所長は「 金や位(くらい)が欲しくなったらお道は務まらぬ 」「先生になり果ててはならぬ」と口癖のように言われていたそうです。木綿の着物の尻をからげて歩くのが常でした。

 

大勢の人が迎えに出ているとわざと道を外して先回りされることもありました。二代先生のお元気であられたことはびっくりするほどでした。「一日に30里(120キロ)位歩くことがある」と言っておられたそうです。

 

一日120キロは超人的歩行距離です。知る限り山岡鉄舟という明治初期の剣術の達人が約100キロ歩いて参禅したという記録があります。

 

先生は着物の裾をからげて縄帯でくくられたまま病人の下に行かれ、「明日から痛みも止み、おかげを頂くからの !」と言って治されていました。

 

先生の着物が余りに質素なので、周りの人が「先生の装束をもう少し良いものにしたら如何でしょうか!」と申し上げると「俺が治すのであれば、良い装束でもつけて行かねばなるまいけれど、

 

天照大神が治して下さるのだから俺は木偶坊(でくのぼう)でいい!」と言われていたそうです。

 

下記写真は二代、三代所長です。

 

 

故石田佐々雄三代所長が高齢信者の夢に現れる

 

三代所長の石田佐々雄先生が亡くなられた後に重病の高齢信者の枕元に霊夢で出てこられたことがあります。今生最後のお別れを覚悟された信者がその霊夢により、見事に生き返った話があります。

 

その霊夢とは「故石田先生が重病の信者の枕元にお出でになって煙草を吸っておられました。三本目の煙草に火を点けて一口吸ったら灰皿に置かれ、すぐに私の胸に手を当て撫でて頂きました。

 

そして『石田は死んではいないよ、死んではいないよ!』と言われて、右の手を挙げて二回左右に振られました。

 

先生のこの御声を聴いた瞬間思わず『先生は生きておられる!有難うございます!』と二拍手して拝ませて頂いたのです。

 

その拍手にハッと我に返り目を開け気が付いて見たらそれは夢でした。全くの霊夢でした。その後奇跡的に回復して第二の誕生を迎えさせて頂きました。それからは全く別人のように元気回復して、思えば思うほど有難く不思議なご神徳でした。

 

老年になっても限りはない。老骨に鞭打ってこれから新しい人生の第一歩を踏み出そう。」とあります。

 

何とすごい話ではありませんか!死際の高齢重病人が新しい人生を踏み出すことになる驚嘆すべき霊験です。

 

3代所長の18年間に及ぶ布教期間に、信者がご神徳を頂いた有難いおかげ話は枚挙にいとまもない位数多くあります。

 

石田佐々雄先生は稀に見る清廉潔白な人柄で、他界される時も道の真髄を皆に説教されながら最後にうやうやしくご神水をお飲みになり、

 

昏睡状態になり自若として生を全うされました。まさしく教師の亀鑑であり最高の昇天ぶりでした。

 

石田の一吹きで有名な石田佐吉大先生の孫で、松山市教育課長も務められた愛媛県教育界の長老でもあられました。

 

告別式には国会議員、県会議員、教育界、その他名士その数1000名以上の会葬者が集まり、斎場をうずめつくしたそうです。

 

終戦後の昭和25年春に詠まれた歌一首 

 

すさみゆく くぬち(日本国)の風をよそにして 

山家の春はとこしえの春      佐々雄 

 

なんだか 2024年今の風潮にぴったりですね。

 

hinomotoが黒住教を信頼して多く取り上げているのは、教えが「誠」そのものだからです。全く嘘、虚栄がなく神の心そのものです。又そうでなくてはこのような奇跡は起きないと考えています。

 

近未来の次元上昇世界に備えるため、黒住教はその条件をすべて具備しており感謝の言葉を根本信条としています。

 

現在いろいろなスピリチュアルな世界が相当喧伝されておりますが、やはり神の道に真っすぐな誠を信条にした教えこそ、来るべき新地球の世界にふさわしい教えと思います。

 

天地永遠の教えであり、人類の福音書であり、キリスト教のバイブル、仏教の華厳経,中国古来の老子、バラモン教のウパニシャット又回教のコーランに勝るとも劣らない黒住教の「教書」こそ、宇宙の霊宝と絶賛される未来がやってきます。

 

楽しく生きるが大御神の道、面白きが大御神の教え、徹底した明るい楽天主義です。黒住宗忠教祖はキリストがなさった奇跡は全てなさった方です。

 

山田雅晴先生は「宗忠教祖はキリストの生まれ変わりではないか」と述べておられます。確かにキリストの亡くなった年に天命直受があり、慈悲と愛深い人格、無数の奇跡はキリストそのものです。

 

宗忠教祖の教えは永遠の大生命が極めて一元的に示され、永久不変の教訓そのものです。いずれ全人類が均しくこの教えを讃嘆する時が来ると期待しています。

 

尚 申し上げたいことは、人の命は奇跡的に復活することが多々あります。常識的3次元の考えを超越した神のご加護を信じて、必ず治ると確信して療養すれば苦痛も軽減でき回復もできます。

 

諦めてはなりません。諦めないことが大事です。そして疑わず信じることに徹することです。

 

尚*印のおかげとお取次ぎ等は黒住教に使用されている独自の言い回しであり、一般に使用されている言葉と意味合いがすこし異なります。特に「おまじない」は一般の意味とは全く異なります。

 

宗忠教祖は「まじない」は「まじりない」の意味と言われています。「我、欲、疑い、臆病」といった罪けがれを祓い去って、何も混じってないきれいな心になれば、たちどころに「おかげ」がいただけると仰っています。

 

又宗忠教祖は「まじない」はお取次ぎ(おとりつぎ)、ただご神徳を取り次ぐなり。この方に徳はなけれども、手でもって撫(な)で、さすりて進ぜる時はいかなる大病たりとも即座に治ること、これ道のなすところなりと説かれています。

 

「人の誠と天の誠と が相打てば、金石相きしって火を発す」のように,天地は日の神の誠のいきものが満ち満ちています。そのため人の誠があれば「おかげ」という奇跡が現れます。

 

何事もこころのままに かのう故 

     寝ても覚めても有り難きかな  と宗忠教祖の御歌です。

 

単なるお説教ではなく、私はこのような境地に実際たどり着けるように目指しております。天照大御神のご加護の下に魂の向上に努めましょう。 

 

肉体のあるうちに! 新地球の5次元誕生と共に!

 

自戒の言葉 

腹を立て物を苦にすること 

誠(まこと)の道に入りながら心にまことなき事

 

地上テレビ等を見ると、顔を背けたくなる悲惨な現実に嫌でも触れざるを得ない状況です。自分の意識を感謝行と祓いに絞り天照大御神に全てを任せて、楽しく過ごしたいと目下努力しています。なかなか難しいですが、嬉しく楽しく面白い日々を送れるように祈り努めます。 2024年10月

 

尚 宗教の勧誘は一切しておりません。個人的に黒住宗忠教祖を心から尊敬しているだけです。今の大動乱期は個人の自由選択・自己責任のみです。

 

 

静寂を楽しむ心 

幻の名作  道元禅師坐像

 

Carrying a dead child on his back for more than half a day, he visited Dr. Ishida.

Shima, the second daughter born to Iwa Ikeuchi and Iwakichi, fell ill at the age of 3. Without assistance, her pulse and breathing stopped, and doctors diagnosed her as dead.

It was 5:00 a.m. on April 9, 1882. Relatives were making arrangements for her burial. (Honorifics omitted in the text.)

Ikeuchi’s parents, who had always had deep faith in Oyasama and adored Sakichi Ishida (the first director, who was known as Ishida’s one blow and had saved many lives), received “OKAGE” (miracle) from Dr. Ishida,

In order to save the life of their dead child, the mother, Iwa, left home with her husband, Iwakichi, to visit Dr. Ishida with the cold child on her back.

Carrying the dead child on their backs, they walked on foot along mountain roads from Sakamoto Village to Ishii Village on the Misaka Pass in search of Dr. Ishida in the inconvenient Meiji Era

and finally found the doctor they sought at the home of a man named Asayama in Matsuyama City.

It was already night when I was able to meet Dr. Ishida. Imagine, dear readers, that the time of the child’s death was written at 5:00 a.m.

It says that the child died at 5:00 a.m., so it was night when he was able to meet Dr. Sakichi Ishida after carrying the dead child on his back for more than 40 kilograms. More than 12 hours had already passed since the child’s death.

Is it conceivable that the dead child could come back to life? Even in this day and age of advanced modern medicine, it is inconceivable.

If it is immediately after death, artificial respiration may bring it back to life, but if more than half a day has passed, it is impossible.

Modern medicine diagnoses that the brain tissue loses function over time after death and that resuscitation after a few hours is irreversible, but how do you explain such a case scientifically?

However, a miracle happened to my parents who believed in Dr. Ishida single-mindedly.

Here, we have to admit that there is indeed a world beyond the common sense and the three-dimensional world.

Miraculous case of a dead child being resuscitated

When Iwakichi, a believer, asked at the door, “Is Ishida Sensei around?” at the entrance.

Dr. Ishida replied, “Oh, it’s Mr. Iwakichi, isn’t it? Isn’t that Mr. Iwakichi, what can I do for you this midnight?”

I’ve come to visit you because my three-year-old child is ill and no longer breathes! I have come to visit the doctor!

In response, Dr. Ishida said, “I’m surprised you carried him all the way here on your back! Come on, get up!”

He began his visit early in the morning, and we were finally able to meet him.

The teacher performed a purification ceremony, placed his hands on his stomach, and performed Otoritsugi (a word unique to the Kurozumi-kyo sect).

As he did this, her abdomen became warm and She let out the words, “Milky, baby, baby! The dead infant was resuscitated.

Amazingly, the infant, who had been dead for more than half a day, began to breathe and came back to life! This is a truly wonderful experience that would have been impossible.

In Kurojumi-kyo, such miracles were often performed by  Oyasama . We can see many such cases in anecdotes. Even if it cannot be proven scientifically, there are many spiritual experiences.

Parents who had been walking with their dead children on their backs now became warm and were able to return home with their revived children in their arms.

The revived Shima later became the bride of Kikuzawa Enzaburo, and her mother, Iwa, gave her a sacred title as she carried him in her arms.

She gave it  her, saying, “Your wedding present is lousy, but this is a precious tool and you should treat it with care and pride! She gave it her.

Kikuzawa Enzaburo is described as an elder of the former Myojin Church. Her mother, Iwa Ikeuchi, who lived to be 97 years old, was a pious believer who worked as a missionary in the Gunaka area.

This book was published in a small number for believers about half a century ago. When I called the church the other day, I was told that there are no copies of this book left.

In Kurozumi-kyo, it is commonplace to hear such stories passed down from place to place, and they are expressed with the word ” OKAGE (thanks).”

It is an irreverent idea to say, “Miracles happen when you want them to happen,” but the idea is that the universe is full of living things, and we should seize them! It means, “Seize it! It is possible only with a sincere heart.

It is interesting to note that those who later became great propagators of the teachings were all those who at first viewed the teachings as evil or bogus.

They thought that the teachings were false because of their academic knowledge, and they were reluctant to listen to the precious teachings because they assumed that “there is no mystery in the true law.

Even the third director, Sasao Ishida, was as indifferent as an ordinary person in his early days.

I have no doubt that a similar reaction would occur even today. That is how high the hurdle is to be initiated into Amaterasu.

It is only when “thanks” actually fall on our bodies that we can feel the miracle or have faith in it.

Unless you have a miraculous experience that shakes you to the core, you will not be able to understand how grateful you are in reality.

Translated with DeepL.com 

⑦大いなる奇跡と霊験 ハンセン病の奇跡 言霊療法

 

 

 

言霊療法 ハンセン病が治る

 

言霊療法は今の科学万能主義からは、受け入れられない迷信の類と思われています。

 

言葉だけ信じて治る訳がないし、正しい診察も薬も使用しないで完治するはずがないとの見方が一般的です。

 

従って根本的に言霊療法を否定する人には、残念ながらその効果は全く現れないと思われます。 その理由は信じること或いは信じ切ることが、根底になければ快方に向かわないという原則があるからです。

 

その信じ切ることの大事な例が、黒住宗忠教祖の話の中にあります。

 

備前藩士で高禄家柄の人が、難病のハンセン病にかかり顔にも症状が出てきました。かねてのうわさの高い宗忠教祖のところへお参りして治してもらおうと伺いました。

 

教祖は「ご心配ありません。よくなります。しかしながら治るには、有難いということが、最も大事です。まず一日に百回づつ7日間『ありがたい、ありがたい』と心を込めて唱えてください」と仰せられました。

 

その人はそれなら簡単だと思われて、さっそく100回づつ実行しました。そして教祖に実行したことを申し上げると「では、日に1000回づつ唱えてください」と言われました。その方は一日1000回づつ7日間唱えたということです。

 

しかし病状は一向に良くなりません。そのことを申し上げると「一日1万回づつ唱えてください。必ず治りますから!」と力強く仰せられました。

 

その方は素直で純粋な方でしたから、その言葉を信じて毎日1万回づつ唱えて、ちょうど7日目に にわかに熱が出て激しく吐血して倒れこむように、寝込んでしまったということです。

 

久しぶりに全てを忘れて熟睡して目が覚めると気分もよく、なんと顔や手足のハンセン病特有の症状がきれいさっぱり取れて治っていました。

 

この人はそれ以来熱心にお道を信じて生涯2,7日(月に2と7のつく日)の御会日は一回も欠かさず参拝されたということです。

 

この話は愚直に治ることを信じて言われた通り「有難い」の言葉を言い続けることを、やり通したことで難病のハンセン病が治ったということです。

 

「有難い」の言霊はこの言葉自体の持つ高い波動が、人知を超えた奇跡をもたらしたものと言えます。

 

治った理由は ①治りたいという本人の切なる願い ②宗忠教祖への全幅の信頼 ③「ありがたい」の言霊の持つ力が、相互に作用して難病全快に導いています。

 

見えざる力の発動で、あらゆる理屈を超越した力です。「必ず治る」ことの理由を強調したい点です。

 

必ず治る① 赤木忠春高弟 目がみえる!

 

言霊の波動

 

周波数の高い言葉、言霊の持つ本来の力と本人の熱意のなせる技でしょうか。宗教的なことはよく分からなくてもただ有難い、有難いと心の中で念じていれば幸せが訪れると、宗忠教祖も太鼓判を押しておられます。

 

小生自身も感謝行を行っており、ある事が叶った経験が最近あります。このような経験は生まれて始めてのことで一種の奇跡でした。全然考えもしなかった事が突然現実に現れるのにはびっくりでした。

 

もっとも自分のこんな些細な経験より、霊的に大きな学びをしっかり経験すべきなのでしょう。しかし率直にうれしい出来事でした。

 

一遍上人や妙好人達がひたすら「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ」或いは「なんまんだぶ、なんまんだぶ」と唱えれば、極楽浄土は間違いなしと伝えられていることと同じかもしれません。

 

我々ご先祖は奈良時代から現代まで歴史的に遡り累計にして数千万の人々が、この南無阿弥陀仏の6文字を唱えることでどれだけ救われてきたことか!

 

穢多、非人、娼婦、身売り人、犯罪者等、阿弥陀様の救いの光は、彼らに等しく慈悲をお恵み下されたのです。

 

言霊(ことだま)の持つ偉大な力を、改めて考える時期が今来ていると思います。

 

 

言霊療法において基本的な心の持ち方について大事な教えがあります。

 

生きがい療法

 

がん患者に対して生きがい療法を行っている病院では、がん患者が富士山やモンブランなどに登頂してマスコミでも話題になりました。

 

患者が死ぬ前に是非とも実現させたいとの思いを、周りがサポートして登山を実現させたのです。その生きがい療法の第一に挙げられるのは、自分が自分の主治医となってがんと闘う積極的な前向きの気持ちのことです。

 

自分が自分の主治医となる意味は、自らの自然治癒力を十分に生かすことにあります。すべてを医者や薬任せではなく、自分で自分の病気は治すという明確な意思を持つことです。

 

そのことは今日の今を生きて生きられることへの感謝を、忘れずに生きることではないかと思います。

 

次に今やりたいことを積極的に実行に移すことです。富士山を目指すこともモンブラン登山もその手段・対象です。死ぬ間際になって後悔しても、実行に移すことはできません。

 

病気に負けるな!

 

宗忠教祖の病治しには奇跡的な話が多く登場してきますが、すべて奇跡的に治された訳ではありません。

 

尾形長次郎という後に黒住教の指導者として、活躍された方の話を紹介します。この方は時尾高弟と共に播州姫路方面の布教に、努力された功労者です。若い時分に肺結核に罹り、治る見込みも立たないまでに悪化されました。

 

ある日庭先の床几に腰を掛けて休んでいますと前の道を通る人びとが上中野へ参るといって、病気の治ることなど話をしています。

 

ふと老人が通りかかって「あんたも一緒にいってみないか」と親切にすすめてくれましたので、これもなにかのご神縁と思い重い症状でしたが、初めて御会日に参加されたのです。

 

教祖のお説教を聞いてその場で治る病人の有難い光景を見るにつけ会日ごとに勇気づけられて、まる一年は熱心に参加されました。

 

しかしどうにも病気の方はいっこう回復の目途が立ちません。そのためある御会日の終わるのを待って、沈痛な面持ちで教祖にお別れのご挨拶をされたのです。

 

その別れの挨拶をじっと聞いておられた教祖は、やがておもむろに口を開かれました。「尾形さん!あなたは病気に負けておられはせんですか!」とただ一言はっきり仰せになりました。

 

するとそれを聞いて、尾形さんは「一瞬何かしら雷のようなものが、頭の芯から腹の底まで貫かれたと感じると共に、不思議に心身がきれいさっぱりと清められた感じがした」といいます。

 

それから帰り道に足取りも軽く「そうか、やっぱり病に自分は負けておったんだな!教祖様のお話は頭でわかったつもりでも、

 

本当に分かっていなかったな!」と反省されて気持も新たになりますと病気のことなど忘れてしまいました。すると、次第に病気も治っていきやがて全快されたということです。

 

その後尾形長次郎先生は、お道の為ご指導に長く尽くされた方です。

 

「病気に負けるものか!」という心の強さを持つことを教えられた話です。「病気に負けるものか!」も結局は病気に向かって、ポジティブに生きることに尽きます。

 

 

静寂を楽しむ心

道元禅師坐像

 

 

 

 

 

 

 

⑥ 大いなる奇跡と霊験 死んだ人を生き返らせた話

 

死んだ人が生き返るという話です。「そんな馬鹿なことがあるものか!」と考える方がいるかと思います。しかし古来の記録には結構あります。

 

世の中には常識では考えられない奇跡的出来事は起こるものです。下記3つの例に共通の事は、必死な人の願いや思いは天や神に通じるということです。それが奇跡を引き起こすと考えられます。

 

1.  白隠禅師の延命十句観音経霊験記

 

「延命十句観音経霊験記」には、死んだ人の生き返りの13例が書かれています。

 

この本を熟読していた時期がありましたが、その中で気付いた事は生き返りの例はすべて若い男女です。年寄りの生き返りは一例もありません。

 

息を引き取った人の枕元で修行僧や周りの縁者が、この十句経だけを精魂込めて一心不乱に唱えて生き返らせるのですから、驚嘆すべき出来事です。

 

当時の人々の信仰の厚さがなければ到底不可能な事です。真剣に必死に唱えれば息を吹き返すということを、固く信じていなければ出来ません。尤も数人で一体になって唱えていますので、集中力が倍増していると考えられます。

 

共に唱える人の中には簡単な延命10句経も知らない人もいますが、唱えている内覚えて懸命にやっている様子も書いてあります。生き返った人が話すあの世の様子も様々詳しく述べてありますが、当時の時代を反映しており面白いです。

 

そしてこの霊験記は、臨済宗の名僧ナンバーワンの白隠禅師の書かれた本ですべて事実です。

 

すべて事実ですと断言しましたが、断言しなければならないほどこのような奇跡を信じることが現在希薄になって、目に見えるものだけが信頼できるものになっています。

 

理論的に説明のつかない出来事は然るべき証拠がなければ信じるに値しない、怪しいものと見なされます。最先端の学者が、この霊験記を読んで果たして受け入れるでしょうか。

 

全く人を迷わせる偽物と決めつける筈です。理由はエビデンスがない、科学的でない等々。

 

読者の皆様はいかがでしょうか? これを真実だからと押付ける考えは毛頭ありませんが、物質主義の現代には一考すべき価値はあります。

 

只今息を引き取った人の傍らで、観音経を唱え出したら医者も家族も止めてくれと即座に止めに入るでしょう。

 

実証できる、目に見えるものだけが真実な世界ではなく、この世には目に見えない精神世界のあることの大事さが求められています。今この激動期は科学万能主義の終焉と限界を迎えているような気がしてならないのです。

 

巷で言われている2極化とは見えない世界、輪廻転生、死後の世界、宇宙人を信じる グループ或いは それらを科学的でない、迷信であると考えるグループのことを指しているのかもしれません。

 

十句観音経霊験記の解説者 曹洞宗の名僧原田祖岳老師は、以下の短いお経の第一句に対し

 

 「観世音(かんぜおん)を大声で観世音と唱えよ!道理は分かっても、分からなくてもよい!ただ観世音(かんぜおん)と唱えるのみ!」ときっぱり言明しておられます。

 

「無心で唱えれば、必ず限りなき霊験を感得すること夢疑うことなし!」と仰せられました。霊験とは何かを考える切っ掛けにして頂ければ幸いです。

 

2. 三度も生き返った話 黒住宗忠教祖の霊験

 

今回取り上げる宗忠教祖の例は,白隠禅師の書かれた霊験記よりまだスケールが一段と大きい話です。

 

福田主(ぬし)は重き病に臥し給うこと年々にして、すでに3度まで身まからんとなし給う。我 天津神、国津神を深く祈り奉りければ、不思議に快くなり給う。ありがたさのあまり、かくはべりぬ。

 

三度(みたび)まで生き返る人は、また唐天竺とわが朝(ちょう)になし」と歌われました。

 

この福田丑之助(ふくだ うしのすけ)という岡山藩士は3度も死亡され、3回も生き返えられました。4度目の瀕死の時にも、教祖がゆっくり息を吹きかけて「お取り次ぎ(黒住教独特の言葉)」をおこなうとまたも息をふきかえし、そのまま快方に向かい健康になったということです。

 

確かに3度も死んで3回も生き返った例は、歴史上何処にも見当たりませんので空前絶後の稀有な例です。

 

宗忠教祖の為された生き返りの例は他にもあります。教祖は奇跡はなにも特別なことではなく、信じれば必ず起きる事だと教えられています。

 

この方の不思議な霊験は無数と言っていい程伝えられています。「教祖様の御逸話」という本に書いてあります。

 

3. 滝沢 白竜著「古神道霊験秘話」より 死んだ赤子を神法により甦らせた医者の話 

 

この話は、死んだ赤ちゃんを生き返らせた話です。この医者の名前は、大島という方で医師として長崎の保健所に勤務しておられました。

 

ある日曜日の朝、若い奥さんが赤子を抱いて診察室に駆け込んできました。診察してみるともう危篤状態で助かる望みがない状態でした。

 

すぐに応急手当をしましたが、その赤ちゃんは残念ながらこと切れてしまったのです。

 

仕方なく「お気の毒です」とお悔やみを言って引き揚げようと廊下を歩いていると、その奥さんが「助けてください!助けてください!」と泣きながら大島さんに抱きついてきたそうです。

 

大島さんもやるだけやって手を尽くしたので、方法はありませんでした。しかしお気の毒な奥さんを其のままにできず、戻って死んだ赤ちゃんの脇に立ち腕を組み沈黙していました。

 

すると自分の腕がわなわなと震えだし、死んでいる赤子の腹上に伸び、すらすらとある霊譜(神文字、印)を書いていたそうです。

 

今までにこのような霊譜の伝授を受けたこともないのに、まったく無意識に書いていたそうです。

 

しばらくしてなんとその子の顔に赤みがさしてきました。結局その赤子は助かり、奥さんはわんわん泣きながら赤子を抱いて帰っていったそうです。

 

大島医者は以前から古神道に関心をお持ちの方でした。このように信じられない話ですが、現実に起こり得ることです。

 

人の魂は不可思議です。従来の科学一辺倒の物質的な思考方法から抜け出し、信じ切ることの大事さが奇跡を呼ぶと考えられます。

 

hinomoto(小生)自身の生き返った話 

 

私は終戦直後に宮崎県小林市で生まれました。生まれて間もなく100日咳にかかり、呼吸が止まってしまい唇が青くなって、いわゆる仮死状態になったそうです。

 

私の母はグッタリした赤ん坊を抱え、裸足で飛び出し近所の医者まで連れて行ったそうです。母は神に祈りながら無我夢中だったと思います。

 

溺愛していた5歳の長男を戦時中に上海で亡くしてしばらくしてから私が生まれましたので、気も狂わんばかりに生き返らせようと天に祈ったと想像します。

 

当時敗戦直後ですから薬も食べ物も何もない時代でした。お年寄りや赤ん坊は病気になったらそのまま死んでしまう時代でもありました。

 

実際近所でも毎日みたいに人が病気、事故で死んでいったそうです。GHQが「日本人は1000万人が餓死するだろう」と宣言した頃です。

 

そして母が医者の門をくぐり戸を開けた時に、不思議にも呼吸が始まり顔に赤みがさして生き返ったと私によく話していました。

 

母の命日になったらこの話を思い出し、自分は生かされた命を頂いて今生きているんだなとつくづく有難く感謝しています。これ以外に今までに危うく命が助かった経験は数回あり、守護霊のご加護を感謝しております。

 

多くの人の支えや天からの恵みが無ければ、ここまで生かされなかったのです。生きていることが奇跡でもあります。

 

 

静寂を楽しむ心

道元禅師坐像

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 幻の名作 道元禅師坐像

 

      高岡銅器 田畑 功氏の幻の名作 道元禅師坐像

 

この坐像は約30年前に神奈川県の総持寺の専門僧のアドバイスを頂きながら制作しました。

 

特徴は坐禅の最も澄んだ高い境地の顔の表情にあります。真に深い禅定中になると口元が「へっつい口」(への字型)になるそうです。

 

その表情をブロンズにしました。高僧より「完璧な坐相である」と称賛されたこともあります。この作品は未公開作品の1体のみです。

 

今はせめて1体でも世に出して、認めてもらいという親心みたいな心情です。制作数は資金の関係上少数でしたが、すべて総持寺に寄贈しました。

 

お寺の方には高名な彫刻家 田畑 功氏の作品ということで、大変喜んでもらいました。お礼として賞状と立派な輪島塗のお盆を頂きました。お盆は今も使用せず大事に保管してあります。

 

後に知りましたが田畑氏の作品が大本山総持寺に既に設置してあり、何かのご縁を感じます。*蛍山禅師の像 6尺 / 大本山総持寺  大型のブロンズ像。

 

「坐禅の神様」と言われる道元禅師をモデルとして制作しましたが、道元禅師を売り物にすることに当時批判があり販売を諦めた経緯があります。

 

木箱のタイトルを急きょ「雲水」に変えましたが、今考えると初志を貫くべきであり30年前の苦い経験となりました。

 

この老年になると何故世間体を気にして中途で終えたのか、残り粕のような未練が今もブスブス燃え残っています。そこでこの思いを消し去ってから、あちらの世界へさっぱりと旅立しようとの決意です。

 

思い切って販売して世の中にこの坐像をお渡ししたい。勿論販売して「やっと世に認められた」という思いがあります。たとえ1体であっても満足です。

 

若かりし頃の禅への思い出

 

若かりし頃坐禅に憧れ禅を懸命に学んでいた時期に坐像制作を思いつき依頼しました。しかし坐像制作を批判され、禅すら商売道具にしている禅徒がいると批判の込められた本を今も持っています。まさしくそれは自分のことです。

 

単なる坐禅への憧れに財産を費やした無謀さは責められますが、あの時実行しなかったらこの老年になるまで後悔の念が残ったでしょう。失敗しても実行に移しただけでも良かったと思っています。

 

今世界は大きな曲がり角にきており、政治情勢、金融危機、気候大変動等揺すぶられ、煽られ、不安の気持ちで皆生きています。手探り状態で右顧左眄し何か求めながら暮らしています。

 

このような時期にはしっかり地に自分軸を立てどっしり生きることが求められています。自己への見直しが必須であるからこそ、静かに坐って悠然と静寂を楽しむ時間も必要になります。

 

「床の間においているだけで辺りに静寂さが生まれてくる坐像ですね!」とお褒めのコメントをあるご住職から当時もらったこともあります。お世辞だったかもしれませんが、懐かしく昔の事を思い出します。

 

ああ!世に役につ坐像だったのに!と少し悔やまれます。又永遠の光を放つ坐像を制作したんだなと誇らしくも感ぜられます。

 

圧倒的に読者も少ないこのブログで高価なブロンズを販売企画するのですから、ある意味では勇気の要る挑戦でもありますが、制作当時の純粋な思いは天に通じて巡り巡って誰かの手に渡ると信じています。

 

 

作品内容

① 高さ19㎝×幅14㎝×奥行12㎝ 重量3.4kg 収納箱付 

(ブロンズの後部と収納箱の裏に「功」のサインあり) 背景の木札と小屏風も含む

② 価格220,000円 一括払い 送料込み   

③ 販売数 1体(この1体のみが販売対象となります)

④ お申し込みはこの上部の「お問い合わせ蘭」よりお願いたします。お問い合わせの「内容蘭」に購入希望とお書き願います。氏名・メールアドレス・題名蘭もお書き入れ願います。

 

ご購入希望の方に郵貯の口座番号をご連絡して、入金確認後に速やかにお送りいたします。到着後7日以内は返品可です。

尚「購入する前に一度手にして見て観たい」という仮購入の方もその旨ご記入下さい。送料当方負担でお送りします。

 

2/2 高岡銅器 田畑 功 作 言霊ブロンズと坐像のご紹介 Guide to kotodam bronze

 

見事な坐相で永遠の静寂に包まれます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

⑤大いなる奇跡と霊験  黒住宗忠教祖の大瀕死からの回復

黒住宗忠教祖の肖像画は多数ありますが、この教祖画が最も知られています。生前のお姿をよく表現されているのではないかと思われます。

 

冬至日のお生まれと天命直受の日 

 

黒住宗忠教祖は1780年(安永9年)の冬至、日の出時刻にお生まれになりました。

 

安永9年の子(ね)の年、子(ね)の月、子(ね)の日に当たります。後の天命直受の日も文化11年11月11日の冬至の日でした。1が連続6つあり冬至の日です。これだけでも人知では考えられない稀有な出来事です。

 

宗忠教祖ほど冬至にご縁のある方はおられません。後年の2021年の冬至の日もご遷化200年にあたり、まさしくグレート・コンジャクションの日にあたります。この日は占星学的に人類の意識の大変化日とも言われています。

 

宗忠教祖は若い時より真の道に深く関心があり、「生きながら神になる」ことを真剣に目指されていました。

 

 生きながら神を目指す

 

宗忠教祖のお人柄、求道の一途さが垣間見られる面白い逸話があります。

 

同じ神職仲間で湯浅薩摩という方とお友達とある宿に同宿されました。その時に湯浅氏が教祖に向かい「あなたが奉仕されている今村宮の御祭神は何神様ですか?」と質問されました。

 

それまで会話されていた教祖は、その時は何も返事されませんでした。湯浅氏が繰り返し尋ねられましたら教祖はそのままゆっくり立ち上がられ、寝巻きから着物、袴に着替え口をそそぎ、まっすぐに正座され、

 

「私の奉仕する今村宮の御祭神は天照大御神、春日の大神、八幡の大神の御三神であります」と丁寧にお答えになったということです。

 

湯浅氏は神様に対する教祖の人並ならぬ思いに大いに驚き又感心されました。「生きながら神を目指す」この気概の面目躍如たるものがあります。

 

そのために20歳の頃「心に悪しきことと知りながら、身に行うことのなきようにせば、神となるべし」と悟られ、忠実に実行されたと言われています。

 

 両親との死別 

 

 

元々大事に育てられ、池田藩の中でも評判の親孝行息子でした。藩から親孝行を表彰されたほどですから、心から両親に尽くされていたのです。

 

当時はやり病(赤痢)がその地方に大流行して、その大切なご両親を懸命の介抱にかかわらず一度に亡くされたのです。

 

その悲しみは到底尋常の悲しさではなく、お墓に行ってなかなか帰ってこられないので様子を見に行くと、教祖が気絶して倒れておられるほどでした。

 

極度の悲嘆から病気になり、労咳という昔は最も恐れられた病に罹(かか)られたのです。

 

そして病は進み医者に診てもらっても、到底助からない状態だったそうです。いよいよ臨終近くなりました。

 

もう最後の死ぬ直前にお日様を拝みたいと願われ、布団の中で両手を合わされ目を閉じられました。

 

まさに息を引き取るその時に「両親はこのまま死ぬと悲しむだろう。自分は生きながら神を目指したが、果たせずに残念だ!」と思われたそうです。

 

そして大変親不幸な死に方を目前にして「申し訳ない、せめて一息、二息でも生きよう!」とお日様に向かい息をされ、息に命が込められていきました。一息そして二息と呼吸を続けられました。

 

ご生還の歌

 

有り難き事のみ思え 人はただ

     今日の尊き 今のこころ

 

それから息が続いて出来るようになり、すこしづつ命を取り戻されていきました。

 

恐らく「 一息できたぞ! 次の息もできるぞ!」と確かめながら息をされていったものと想像されます。

 

生きられる有難さを回復まで一瞬の休みもなく、教祖は続けられたのでしょう。そして2か月後に不治の病から奇跡の回復を遂げられました。医者もさじを投げていた最悪の状態から見事に立ち直られました。

 

死ぬ直前になると極端に体力が落ちて来て、体温計も持てない位に弱るそうです。又病院のドアも開けられない位に体力が落ちてくると、もうダメだなと人は諦めるそうです。

 

恐らく教祖もそこまでなられたと思いますが、そこから一息一息有難い心が大きくなって回復されていったと拝察します。

 

2か月後お風呂に入りたいと言われるまで回復し、入浴後には労咳の病も消えてなくなりました。この日を「第二次の御日拝」と呼んでいます。心の大転換による奇跡が起こり、その日に教祖は床上げされました。

 

それから今村宮へゆっくり歩いて生き返られたお礼に向かわれましたが、途中に出会った村人達は教祖のお姿を拝し「黒住の旦那様のゆうれいが出た」と言って驚いたそうです。その時はもう生きられないという噂が村中に広がっていました。

 

このことを「難有り、有り難し」(自分の大/小難が、いずれ有難いことに変わる)といつも言われておられました。

 

魂の叫び歌

 

この歌は生きていることの有難さが味わえば味わうほど、深く心にしみ入ってくる歌です。それは教祖が死と直面され、息が絶える間際の魂の叫び歌だからです。

 

小生も病床の時はこの歌を短冊に墨で書いて壁に貼り、朝晩ご陽気修行と共にこの歌を唱えておりました。どれだけ元気づけられ助かったか 本当に感謝しています。

 

治る!治る!と繰り返し、念を込めながら一途に祈り込み、毎日ご陽気を下腹で吸えば必ず治ります。

 

病気でお苦しみの方は朝日に向かい深呼吸を繰り返し、この歌を感謝をもって毎朝唱え続けていくことが大事です。絶対快方に向かいます。

 

本当に治るのかどうか疑っては効果はありません。宗忠教祖は疑って行動しては、全く成果が出てこないと強調されています。心理学的にこのことを逆勢の法則と言います。

 

だから「自分の病は絶対治るんだ!」と確信してください。これについては教祖の教えの大事なポイントになります。絶対の信が条件です。

 

絶望の際(きわ)にいる時、生きる希望を失った時

 

もしこのブログをお読みの方で「絶望の際(きわ)におられる時、助けを求めても誰も助けてくれない時、死にたいと思われた時」是非この歌を何回も口に唱えて頂きたいと思います。

 

唱えれば唱えるほど、生きる力が腹の底から湧いてくるすばらしい歌です。魂を輝かせる希望が自然に生まれてきます。生きることの有難さが実感として溢れてきます。

 

死神に取り付かれてはなりません!圧倒的なご陽気の歌で積もり積もった陰気、邪気を払うことができます!

 

宗忠教祖の超人的霊力と人間性

 

* 教祖は一般の人が一日かかる程の距離を1~2時間で歩かれた話

 

* 腐りかけの酒造り中の酒、枯れかかった竹、木、植物をご神水で蘇生させた話

 

* 暗闇でも道、本が見える等数え切れないほどの奇跡を現わされました。

 

他に難病からの回復、死人を生き返らせた話など霊的奇跡話は無数にあります。教祖は一人の肉体を持った聖人というより、天照大御神の化身とも言うべき人類の大導師です。

 

宗忠教祖はイエス・キリストの生まれ変わりではないかと山田雅晴氏は述べておられます。確かにキリストの磔の死の年に天命直受の悟りを開かれ、第二の命を生きられたのです。

 

そしてキリストに伝わる奇跡はすべて実際に、衆目のなかで行われています。土肥家の掃き清められた柔らかい長い道を草鞋の跡が全くなく、いつもお歩きになった話もあります。(池田藩家老 土肥家の玄関門へのお話)

 

教書では集会ごとに多数奇跡が起きたことを述べておられます。詳しくは「教祖様の御逸話」に記載されています。(115の逸話。上記黒住教学院発行 )

 

尚教祖以外の高弟達多くのお道づれの方は、今も昔もさまざまな奇跡を現わされています。そして多数の人々を病、災難、事故等から救っておられます。

 

黒住教では奇跡的に病が治る、運命が好転する、商売が繁盛することなどを「おかげ」という独自の言葉を使っています。この教えを実行すれば、実に多くのおかげが受けられることが実際に起こります。

 

小生が教祖の教えに非常に惹かれるのもここにあります。徹底した明るい、前向きな人生態度や嘘、ごまかしの一切ない生き方が求められます。

 

 

又宗忠教祖に特筆すべきはお人柄のよさにあります。過去聖人はたくさんおられましたが、この方ほど純粋で柔らかく優しい方はおられません。

 

唯一の欠点は他人より借金を頼まれ、随分多く踏み倒されたご経験がおありですので情に厚過ぎることです。そのため弟子達が借金依頼には一切手を貸さないように固く禁じられていたということです。

 

もともとは池田藩の由緒あるお侍ですが、それにふさわしい凛とした男性的な面もお持ちでした。多くの武芸者が武道の究極の教えを聞きに訪れています。

 

* 最後に小生は宗忠教祖をお慕いしておりますが、入会への案内意図は全くありませんので誤解なきようお願いいたします。

 

言霊ブロンズの販売

2/2 高岡銅器 田畑 功 作 言霊ブロンズと坐像のご紹介 

 

 

④大いなる奇跡と霊験 未来の霊的治療法 時尾宗道高弟の骨髄炎が治る

 

 

 目に見えない力

 

本ブログはテーマである「言霊と太陽の恵み」を主として取り上げています。

 

心の働きは目に見えないだけに、科学の証明とは相反するテーマになります。

 

魂の開発、精神作用、心の問題、すべてひと昔前までは何か分からない得体のしれない扱いでしたが、今後は目に見えない力が本当の世界であり、一方物質的な3次元の世界は補助的扱いになるのではないかと考えています。

 

これからご案内の時尾宗道高弟は宗忠教祖の下で赤木高弟と双璧といわれた方です。幼い頃より神童といわれ才能豊かな方で有名でしたが、赤木高弟と同じく難病を抱えておられて骨髄炎でした。

 

 

難病「かくしっぽう」にかかる 

 

 

28歳の時腕がしびれ筆を持つことすらできなくなり、親指ほどの穴から血膿が流れるまでになりました。当時「かくしっぽう」と呼ばれた病気で、現在の病名は重度の脊椎カリエスです。

 

時尾高弟は教祖から以前教えを聞いておられてましたが、心の弱さや いまいち信が確固たるものでなかったため本来の活きた力が発揮されていませんでした。

 

恐らく天は宗道高弟に容赦のない試練を与えられたのだと思います。

 

時尾高弟は「自分は天照大御神の大道を教祖より、教えていただいて道を自分なりに勤めてきた。それにもかかわらず、このような不治の病にかかり治らず悪くなるばかりだ!」

 

と暗澹たる気持ちで、病床に伏せておられました。

 

普段から時尾高弟をお世話していた大庄屋の中山常次郎は

 

「 克太郎(時尾高弟)元気を出せ! 教祖様も『 すべて天命である。難が幸いにもなる!』 と仰せられている!

 

お前に教祖様は 『 何事も天のなすのと思いなば 苦にも世話にもならぬものなり』とこのようなお歌をくださった!」

 

と病床で慰めました。

 

世話にもならぬとは煩わしいこともないという意味です。天命と知っても、自分に降りかかった病気は難病だけにそんな天命はとても有難く受け入れがたかったのです。” こんなに死ぬほど苦しいのに何が天命だ!” と密かに思われたことでしょう!

 

全身激痛で歩くのも苦しんでいたからです。妻の千代の介抱がなければ生きてはおれなかったでしょう。しかしそんな難病(骨髄炎)が治ったのです。

 難病治る!

 

読者の皆様想像してほしい! 

 

これほどの難病を抱えた病人が最新の現代医学をもってしても治療が困難なのに、わずかな時間で治るものなのか!

 

赤木高弟は青そこい(緑内障)で見えなかった視力が瞬時に回復しました。宗忠教祖は無数と言えるほどの当時の悩める人びとを救っておられます。

 

現代でも多くの人びとが病気だけでなく、もろもろの事故、災難、災害等から「お取り次ぎ」により守られ、命が助かっています。

 

見えない力が働いていなければとてもできないことです。即ち神のお力であり、自己の持つ生命力です。

 

さて宗道高弟は常次郎の家の集まりに重症の身ながら、教祖とお会いすることができました。

 

そこで教祖は「時尾さん、講座で話をしなさい」と命じられました。

 

高弟は言われる通り、生まれて初めて講座へ上がり無我夢中で我を忘れて何かを語ったのです。もはや時間空間を超越した心境で無心で皆に話されました。知識ではなく素直に魂のままに!

 

続いて教祖が講座に上がられ、いきものに溢れた天言がびりびりと障子を鳴らし、集会全体が有難い感謝の念に満ち溢れていました。

 

すべての陰気は完全に払しょくされて、全体が神気に満たされました。集会の皆は口々に「有難い、有難い」と自然に唱えていました。

 

お説教が終わり教祖が拍手を打ち、時尾高弟も皆と合わせて力強く拍手を打ちました。

 

つい先ほどまでは腕が痛く拍手も打てなかったのに、力強く打てたのです。流れていたウミがいつのまにか乾いて、完全に治っていました。あれほど痛かった痛みも全く消えています。

 

いつの間にか治っていたことに対して、時尾高弟は「 先生、治りました!治りました!痛みもありません!」と感激で泣きながら、高弟は教祖にひれ伏して感謝されました。

 

かくしっぽうは跡形もなく治癒していました。一座の皆も驚くべき奇跡を目の当たりにして驚嘆して共に喜び合い、大きなどよめきが一座に溢れたと言います。

 

後に時尾高弟は

 

大明神(宗忠教祖)なかりせば、われは只病に身を終わる一患なり、

 

                今は一観者なり、道に遊ぶ 

 

と述懐されました。

 

この奇跡を考え検証しよう

 

この奇跡をじっくり各自が自分のお考えで、検証していただきたいと思います。 

 

医者から見放された業病にも一点の光が差し込むのではないか!

 

薬ではなかなか治らない難病、ワク○○後遺症も希望が見えるのではないか! 

 

本ブログの目的はいろいろ治る方法を模索している人に対し、太陽の恵みを参考にしていただくことにあります。

 

嘘か本当か、自分なりに独自に工夫して努力して検証していただくことにあります。「求めよさらば開かれん」の世界です。

 

最も教祖は「この道は、病治しの道にあらず。心直しの道である」また「病は道の入り口」と教えておられます。道はまだまだ深奥です。

 

そしてとかくこのような奇跡、おかげをいただいても時間が経つと、その有難さを忘れがちになるものです。決してその有難さを忘れてはなりません。

 

自分の体験

 

小生(hinomoto)も突然訪れた2020年初の健康不調は、今まで健康だっただけに本当に治るのかとても不安でした。自ら「爺さんスプリンター」と自惚れるほど俊足、健脚だったのに一時は足元もふらついていました。

 

しかし2020年4月太陽の神人・宗忠教祖の本と出会い、コロナ下で必死に本を頼りに一日も欠かさず朝昼の日拝修行によって健康になっていきました。日の出の素晴らしさを知ったのはそれからです。

 

ある人から「あなたは病気することにより目覚めのチャンスを天が授けてくださったのよ!」と言われて、「全くその通り!」と今は納得しています。教祖の「難有り、有難し」の典型例でしょう。

 

 

宗忠教祖について 

 

バシャール、並木良和さん、国内・海外の多くのスピリチュアルなインフルエンサー達がこぞって主張する「ワクワク感の重要性」を教祖は幕末に嬉しい面白い、楽しいという言葉で絶えず説いておられました。

 

教書を見れば、面白く(ワクワク)の表現のオンパレードです。幕末にはワクワクという言葉は、一般に使われておりません。面白く、楽しくという言葉を、宗教で使用された最初の聖人です。

 

今世紀の大変動時代を的確に見据えた偉大な神人宗忠教祖は、天照大御神の化身ではあるまいかと思えるほどです。

 

必ず治る④ 日拝治療法(2)

 

 

 

言霊ブロンズの販売

1/2 剣士像・言霊ブロンズのご案内・願望達成の最も近道!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

③ 大いなる奇跡と霊験 未来の霊的治療法 岡田 敏子

 

 

 

岡田 敏子さんは黒住教東京大教会の初代設立者です。昭和6年 78歳で永眠されました。 彼女は28歳の時に、幕末の志士の夫と死に別れ幼い2児を抱えて生活していました。

 

生活に心身疲れ果てていたことが原因になったのでしょうか。不幸にも眼病にかかり手を尽くしても治らずとうとう盲目になってしまわれました。

 

 絶望のあげくこれから長い間人の世話になって生きるより、二人の子供と一緒にいっそ死んでしまおうと思われたのです。

 

婆やの登場

 

そしてご霊前に暫時お別れのお祈りをされてから泣いている兄の方を引き寄せて、いざ一突きと動かれたその刹那でした!

 

子供の泣き声を聞きつけた婆やが現れて

 

「まあ暫くお待ちください。 あなた様の御目さえ治れば、よろしいのでしょう。 近頃黒住様といって、有難いお話をなさる先生がいらっしゃいます。

 

どんな難病でも治るという噂です。死ぬほどの御覚悟ならどうか一週間の寿命をこの婆やにお預けください!」

 

と死ぬのを止めるように、一生懸命説得されたのです。

 

「分かりました。それでは1週間だけ思い止まります。後は決して止めないでください。」と仰って、婆やのすすめるその先生のお話をお聞きになりました。

 

 

            見えた!   見えた!   見えるようになった!

 

 

始めはさほど関心も湧かず、一向にお話しが耳にも入らず、早く1週間が終わればいいのにとその時は思われたそうです。

 

それが3日も経ちますと、ふと先生のお話が耳に入りどうにも行き詰まっていた気持ちに一筋の光が差し込みました。

 

「神様の御徳は本当にこの世にあるのではないか? 自分は考え違いをしていたのではなかろうか?」と気持ちが少し変わりました。

 

4日目からはお話が待ち遠しくなり、一言も聞き漏らすまいと熱心にお聞きになり5日目からは、今まで以上に心から有難く染み入るように感じられるまでになりました。

 

そして6日目の朝起床後障子からうっすらと日の影が漏れるのが見えて、思わず「婆や、もう夜が明けたのでしょうか?」と声をかけられました。

 

隣にいた婆やは

 

「夜が明けるのがお分かりになりましたか!お目が見えるようになりましたか!」と駆け寄り泣きながら抱きつかれました。

 

その時の岡田さんは

 

本当に目が見えるようになったのか! 夢ではあるまいか、神の御徳で見えるようになった!

 

と泣くほど感激され、その嬉しい気持ちは到底筆舌に尽くしがたいものであったと仰っておられます。

 

早速身を清めて、黒住教会に駆け付け神様にお礼を丁寧に申し上げられ「今後一生をかけてこの道のために捧げます」と固く誓われたそうです。

 

それから大車輪の如き長い半世紀の活躍の幕が切って落とされました !

 

 岡田さんの次男が満州の戦いで敵弾の破片2~3片が頭部に刺さったそうです。後頭部にあたりましたが、脳摸の最も危険な寸前で破片が止まっていたそうです。危うい所で即死を免れました。

 

「薄紙一枚で助かるとは奇跡そのもの」と軍医が言っていたといいます。これも偶然の幸運ではなく、母の無事を祈る一途な祈りのお蔭であると書かれています。

 

お亡くなる直前まで重病人の夫婦のためにお祈りされて、そのお祈りのおかげで重病の夫婦は回復されました。最後の言葉は「有難う、有難う、有難う」の3回の感謝の言葉でした。

 

 

東郷元帥の日本海海戦

 

 

興味深い話として、日露戦争の日本海海戦時に「皇国の荒廃この一戦にあり!」と全艦隊に号令した東郷元帥が、日本の運命に関わる大戦を前にして黒住教の東京教会に来られたのも、岡田敏子さんの時でした。

 

元帥の母親が熱心な黒住教の信者だったご縁から来られました。ロシアとの決戦に向けての心構えを尋ねた東郷司令長官に授かれた歌は

 

身も我も心もすてて

         たったひとつの誠ばかりに 

 

という宗忠教祖の歌でした。長官は海戦時旗艦三笠艦上にて、この歌を海戦中終始一心に唱えながら戦ったそうです。長官は身を捨てて指揮を執り、その結果敵のバルチック艦隊に対して史上稀に見る大勝利を収めました。

 

まさに神懸かりの空前の大勝利に寄与したのも天照大御神の御神徳ではなかったかと思われます。後に長官はお礼として黒住教に自筆の額を送られ、今も飾ってあります。

 

日本は天照大御神のご加護がある国なのです。そして我々個人も天照大御神を深く信じれば必ず守られます。

 

 

天照大御神!お願いだから助けてください!

 

小生の最も好きな言葉で岡田さんの「神の御徳は目にも見えず手にも取れないけれど、御すがりさえしていれば必ずお蔭が頂けるものです。神は外にあるのではなく自分の心が即ち神なのです。」という珠玉の言霊があります。

 

苦しい時、悔しい時、どうにもやるせない時、希望が見えない時これを何回も口ずさんでどれだけ助かったか、ホッとする癒しのやさしいお言葉です。自分を優しく包み込んでくれます。

 

大御神に御すがりすれば安心感が湧いてきて落ち着いてきます。尤も禅では「すがる」という言葉は絶対タブーでしたが、大いなる神は時には折れそうな弱い自分を助けて下さるのです。自分の中の神ですから。

 

必ず治る④ 日拝治療法(2)

 

 

言霊ブロンズ

1/2 剣士像・言霊ブロンズのご案内・願望達成の最も近道!

 

 

② 大いなる奇跡と霊験 未来の霊的治療法 奥村円左衛門の開眼

 

            3年間一度も欠かさず熱心に拝聴

 

奥村円左衛氏は宗忠様のお説教を毎月6回 3年間(計200回以上)盲目を治そうと、一度も欠かさず熱心に拝聴された方ですが、

 

結局自らの盲目は治らず宗忠様に最後のお別れのご挨拶をされて諦めようと決意されました。

 

「わたしは業が深いため、先生のおかげ(奇跡)をいただきませんでした。先生からじきじきの(おとりつぎ)を数多くいただきながらもわたしの目は開きません。

 

今日を限りにお参りを差し控えたいと存じます。」と沈痛な面持ちで思いを述べられました。

 

黙って聞いておられた宗忠様は「なんと広大なおかげを頂かれたものですな!有難い!」とパチパチと拍手をお打ちになって仰せになりました。

 

その盲人はあわてて「いや、おかげがなかったと申すのでございます」その言葉を抑えて宗忠様は、

 

「何を言われる!よく考えてごらんなさい。月6回の御会日を丸3年欠かさず参られた。その間ただの一回も病気なされず、無病息災で元気で参られた。家族や親類、近所のだれか病気してもまた何かあっても参れません。

 

それがなにひとつなく参られた! まことに広大な「おかげ」ではありませんか !  実にありがたいおかげを受けられたものだ!」と言ってまた拍手をお打ちになりました。

 

              なんと目が見えるようになった!

 

じっと黙って聞いていたその盲人は宗忠様の拍手とお言葉に「先生 間違っておりました!有難うございます!有難うございます。」とただありがたい感激が沸いてきて、何もかも忘れて玄関に飛び出しました。

 

そして感動の気持ちのまま杖を突くのも忘れて歩いていましたが、涼しい川風が顔に吹くのを感じて「川に近いらしい、ここはどこだろう?」とふと周りを見る気になったその時、たくさんの船の光景が両眼に現れ見えてきました。

 

「おお なんと目が明いた!見えるようになった!信じられないことだ!」と今までに経験もしたことのない大歓喜をその時始めて体験されました。

 

心の目が開いた結果、肉眼が見えるようになったという逸話です。なおこの話の主人公は岡山藩士 奥村円左衛門氏であると伝えられております。

 

           どうして目が見えるようになったのか考えよう!

 

円左衛門氏の目がどうして見えるようになったのかについて、あくまで個人的な見解であることをご承知おき願います。

 

まず3年間も休まず教祖の集会に参加する神への一途な誠の奉仕が挙げられます。そのおかげは本人のみならず周囲の人達にも及んでおります。

 

そしてその広大なおかげに気付かされ、感謝の思いが深く大きく湧いてきたその刹那に目が見えるという有難いおかげが生じました。

 

普段からの神への感謝の念がいかに大事であるのか考えさせられます。神へは誠のみが伝わるということです。ご神徳が如何に広大で深いかということに真に気付けば、本人の抱える病気は治るのではないか。

 

「一途な個人の祈りは天に通じて、ご神徳が得られ必要なものは与えられる」ということです。これから近代的医療に加えて日拝治療法(自然免疫力アップ法)が大いに活用される時代が来ると思います。

 

 

 

言霊ブロンズ

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① 大いなる奇跡と霊験 未來の霊的治療法 赤木忠春

 

 

「宗忠教祖の病説法」は病気治しの最も基本的考えです。 これをご理解の上、下記霊験をお読み頂ければ一層理解がすすみます。

必ず治る(14) 宗忠教祖の病説法

 

人の身体は病気に罹っても「医者と薬」だけに頼っていてはなかなか治りません。 今までの3次元だけの固定的治療法から新たな治療法を紹介していきます。

 

又吉野先生が主張しているように体に良くない小麦、植物性油、乳製品、甘いものを取らないことです。

 

未来の地球社会はますますこのような画期的で、霊的治療法又は波動治療法を研究し取り入れると考えます。 数千年間の物質世界から軽やかな精神世界へ移行していきます。

 

現代医学ではとても考えられない難病が治ることが奇跡として起きています。

 

「医者と薬」だけが唯一の治療世界から見ると、恐らく嘘に近い話かも知れません。 しかし今後注目される治療方法になる可能性を秘めています。

 

勿論近代医学を否定することではありません。 人は霊的存在であることの自覚が絶対必要です。

 

 

 赤木忠春高弟の目が見える!

 

どうして盲目が治ったのか考えよう。 このような驚くような奇跡を我々も体験したいものです。

 

赤木忠春と言えば黒住門徒の中でも、宗忠教祖が最も信頼された高弟のお一人です。現代でも難病であり治すのはほぼ不可能と言われる緑内障が即座に見えるようになった奇跡の話です。8年間の長い盲目期間でした。

 

この苦しい現状を打破されたのは、高弟の叔父が宗忠教祖の病気治しのお話をされ「一度教祖にお会いなされてみては!」と行くのを渋る高弟を宗忠教祖に逢いに行くように強く薦められました。

 

奇跡そのものを否定し、自分の失明がそう簡単に治るわけがない。治るなんていうのは怪しげな宗教の勧誘であると、知識人特有の猜疑心から思い込んでおられました。

 

「叔父さん、せっかくですが私の8年間の失明は、医術の力ではどうすることもできません。田舎の神主さんのおまじないで簡単に治るものでもありません」と何回も断りました。

 

なぜなら赤木高弟はかなりの仏教、易、儒教の本を読破した当時の最高のインテリだったのです。知識があるが故に理屈が先に立って奇跡で病が治る話をデマの類と見なしていました。

 

余りにも高弟が断るので、最後は叔父はカンカンに怒って縁切り話まで持ち出したということです。そこまでされては仕方がないので、とりあえず話を聞こうかと渋々一緒に集会場に行かれました。

 

高弟は集会場で宗忠教祖のお話をお聞きになり、次第に教祖の筏仙人の話に引き込まれ激しく心を打たれました。

 

何と8年間の盲目が見えるようになった!

 

そして大感激のあまり「この尊いお方はどのような方か!」と宗忠教祖の方を振り返られると、なんと今まで見えなかったお姿がはっきり見えてきて長年の失明がその場で回復されました。

 

「おお不思議だ! 目が見える、見えるようになった!8年間の盲目が見えるようになるとは!」と感激のあまりその場で大泣きされ、周囲の人もその様子を見て大感激されたそうです。

 

後に赤木高弟はこの奇跡的なご経験をいつも涙ながらに話され、一座の皆に自分の感激(おかげ)を伝えていたそうです。高弟の宗忠教祖に対する敬愛の深さは多くの歌に見事に表現されています。

 

又高弟の多くの門人や人々への病治しの奇跡は多くあり、京都の町に一大センセーショナルな旋風 (赤木騒動)を巻き起こしました。

 

赤木高弟はその後関白の二条家の信頼が厚くなり、幕末日本の夜明けの陰の立役者と言える尊いお方でした。蛤御門の政変における高弟の活躍振りが挙げられます。又高弟の奇跡の数々は目を見張るものがあります。

 

この奇跡が起きた理由について

 

どうしてこのような不可思議なことが起きるのか? 

 

禅には「仏法には不思議はない」という言葉があります。「奇跡的なことは起こらないから、そういうことに期待するなコツコツ励めそれが真の道だ」ということです。このような考えもありますが、一方奇跡は起きるし現に起きています。

 

宗忠教祖のお話は人の心を活かす力をお持ちの方で説教時の迫力と力強さは、普通の常識をはるかに超えて人々を感動させ、神と繋がり多くの奇跡が生まれています。

 

では宗忠教祖しかこのような奇跡は起こせないのか? いや多くの門弟達はこのような奇跡を起こして、多くの人を救っています。無数と言っていいほど病治しの話はあります。

 

「どうしてこのような不思議なことが起きるのか?」この答えは残念ながら個人が真剣に求めて、自ら体験しなければ得られないものです。自ら掴んで得るしかないということです。

 

 

「言霊ブロンズの販売」

言霊ブロンズは言霊を繰り返し唱えて願望を現実化させます。ご参照願います。 

剣士像・言霊ブロンズのご案内・願望達成の最も近道!

1/2 剣士像・言霊ブロンズのご案内・願望達成の最も近道!

 

 

剣士像・言霊ブロンズのご案内 

 

引き寄せの法則!

*あなたの夢を引き寄せるブロンズです!

*現実化するためには、言霊にして宇宙に宣言することです!

 

願望達成するためには目標に向けてひたすら努力奮闘するだけではなかなか達成できません。

何回も何回も繰り返し繰り返しあなたの言霊を唱えれば、必ず達成できます。宇宙は無窮の豊かさを用意しているからです。この言霊の壮大なる無限の力を信じてください!

 

 

 

剣士像・言霊ブロンズの写真は以下の通りです。

 

 

 

 

 

 

 

ご自分の名前、出身地、家族の系譜、信条、遺言等を箱の表面や側面に書き残してください。墨字は数百年は残ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2/2 高岡銅器 田畑 功 作 言霊ブロンズ と坐像

 

 

金属プレート貼り付け(貼り付け材は紙でも可)言霊ブロンズと坐像のご案内

 

2019年背骨の圧迫骨折と抗生剤の副作用により病気知らずの健康体から一転、一時は歩行も困難になる程の不自由さを味わいました。

 

心残りだった20数年前の計画を思い立ち、このブログで言霊ブロンズを販売することにしました。販売というのも大袈裟ではありますが、小生の冥途への土産話にしたいと考えています。

 

又国内の重鎮であり一流彫刻家の田畑 功氏(高岡市在住)のほぼ未公開の秀逸な作品のご案内でもあります。

 

制作をお願いした当時はお若い頃でしたが、今や国内では最も著名な銅像作家になられました。随分とご苦労をおかけし、申し訳ない気持ちです。

 

勝手ながらお電話差し上げたら、当時のことをよく覚えておられたのには感激しました。当方の細かい変更を何回も快く承諾された懐の深い芸術家です。

 

今振り返ると迷惑も顧みず、些細な直しをお願いした事が恥づかしく思われます。

 

販売数が10~20体ばかりの小規模販売ですが、昔脱サラして心血を注いだブロンズ制作を少数でもいいから世間に知ってもらいたい、認知して欲しいとの願いからです。小生が亡くなれば処分され、永遠に葬り去られてしまいます。

 

 

坐像はすべて寄贈!

 

 

後にご紹介する坐像は若き日の道元禅師の姿ですが、尊敬するある禅師より「禅を商売道具にするのは如何なものか」と問い詰められ、苦心惨憺して作り上げた坐像販売を中止し、中途挫折した経緯があります。

 

結局坐像は神奈川の大本山総持寺にすべて寄贈して坐像販売を諦めた次第です。今思えば家族もあるのに若かったと後悔しています。あくまで断固決行すべきでした。

 

ある高僧より坐禅の神髄が表現されている坐像と称賛されたこともありました。それは最も禅定の澄んだ時に出る脳からのシータ派としての「しっぺい口」が特徴の坐像です。このような坐像は歴史上ありません。

 

今手元に2体のみ坐像が残っており、1体は自分の遺品として残しておきます。従って販売数は1体のみです。

 

同時に剣士像も販売をあきらめましたが、高段者からは高い評価を頂きました。それも高段者の方の監修の下に厳格に制作したからです。このために何回も細かいリクエストを田畑氏にお願いしました。

 

そして現在ブロンズ販売を数十年振りに再開します。後期高齢者の小さいな再挑戦でもあります。さあー結果はどうなるでしょうか? 世にすこしでも希望を届ける仕事をやって過去の因縁をゼロにしたい、正直そのような気持ちです。

 

今後は太陽神の素晴らしさを皆様に届ける仕事を企画中です。ただ余りに宇宙的スケールなので具体案が絞れません。身の丈に合ったささやかな仕事を探しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

黒住宗忠教祖の御逸話から

燕のひながもうすぐ旅立ちます。手前の紐とビニールはカラスよけです。

黒住宗忠教祖の御逸話から今回から宗忠教祖にまつわる話を取り上げていこうと思っています。多くの逸話が残っており、どれもが学ぶべき心の教訓が伝えられています。

 

その前に小生が何故宗忠教祖に惹かれたかその理由を簡単に述べようと思います。

 

それは教祖は楽しい、嬉しい、面白いを全面的に教えとして打ち出している方だったからです。自分の学生時代18~19才の頃に安心を求め、精神盤石の境地に憧れ禅にたどりつきました。以来50年満足ゆく結果はどうしても得られませんでした。

 

しかし宗忠教祖の底抜けに明るい人生謳歌の道を知り、本を読み学んで死ぬまでにどうしても全身で味わいたい教えとして間違いない確信を老年ながら得たことから始まります。禅から天照大御神への転換でした!

 

今基礎から学びながら皆様にキリストにも匹敵する方が現実に岡山に生まれ、幕末に活動された逸話をどうしてもご紹介したいと考えておりその機を得ました。

 

神国日本の有難さ

 

 幕末に倉敷市玉島に中野屋庄兵衛という信仰の厚い方がおられました。この方はひとえに宗忠教祖を信じて修行も重ねられた篤信家です。

 

この人が重い病にかかり死際に「天命なら仕方がないが、最後に教祖様の[おかげ]を受けて死にたいものだ。叶えて欲しい!」と切なる言葉を残してとうとう亡くなってしましました。

 

家人は衆議一決してあれほど望んでいたのだから、せめて死後に教祖様をお呼びして弔ってもらおうということになりました。

 

呼ばれた宗忠教祖は事切れて相当時間も経過して、完全に冷たくなってしまった庄兵衛さんに向かいご祈念を始められました。

 

当時の事を松岡清美先生が詳細に記述しておられます。宗忠教祖から「松岡さん、私がご祈念しますから一緒にご祈念願います」と頼まれたそうです。そして宗忠教祖は悠然とお祓いを始められました。

 

松岡氏は「死体に触るとひんやり冷たいし、これで果たして生き返るのかな」と思われたそうですが教祖のお祓いのリンリンたる澄んだお祓いに励まされてお祓いを始めました。

 

だんだん時間経過とともに死相がはっきりして、もうお祓いも止めてしまおうかと諦めかけておられたそうです。一方教祖はお構いなくお祓いを力強く、繰り返し繰り返し唱えられていました。

 

何本目かのお祓いが終わり最後の「とおかみえみため」が終わった刹那に、不意に力強くウンと声を発して冷たくなり切った死人が生き返ったのです。まことに広大なご神縁が現れたのです。

 

そのあとで教祖がしみじみと松岡先生にお話になりました。「松岡さん!ご神徳は有難いものです。この日本は神国です。神国日本の有難さは格別で、なんとご覧のとおり死人が生きかえりました。

 

既にことぎれた死人がよみがえる。まことに不思議ですが全くご神徳のありがたさであります。思えば思うほどありがたいことです」との教祖の強きお言葉の威に打たれて、思わず松岡先生は頭を深々と下げられたといいます。

 

このような死人がよみがえるお話はひんぱんに逸話や教徒のお話に出てまいります。このような奇跡を信じられないと思われるでしょうが事実です。小生が無限の力を感じる次第です。

 

死後12時間以上も経過した赤ん坊の蘇生した話が教徒の昭和の小冊子にあります。黒住教ではこれらを「おかげ」と言っています。無数の驚くべき奇跡のおかげ話があります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日拝の力!天才から神人へ 羽化登仙の時尾宗道

2024年は太陽フレアが最も強く覚醒の時です!

わが物と思うは人のまよいなり

      天照る神の 宮代(みやしろ)の身を

 

時尾宗道は自らの病の全快祝いの席にて「生き通しの舞」を終えて座った時に、百数十名の見舞客の前にて忽然とその姿が見えなくなったというのです。

 

全快祝いの宗道の舞姿に一同は拍手も忘れて感激し、宗道はずっと集った人々を見まわし静かに再び開くことのない瞳を閉じました。端座したそのままの姿にてその姿が見えなくなりました。

 

これを羽化登仙といい中国では仙人が肉体を去る時に、肉体を残さずにあの世に旅立つことを言います。

 

このことは人間でありながら神人しかできない事で、まさしく時尾宗道は人としての肉体を持ちながら、神人として齢46才でこの世を忽然と去りました。全快祝いの席がそのまま宗道の葬儀の席になったということです。

 

時尾克太郎は岡山生まれで幼児より神童と言われ生来温厚、謙虚そのものの人でした。宗忠教祖より「時尾さん、慢心のきわまでお進みなさいよ!」と常に教えられるほど物静かな性格でしたが、宗忠教祖亡き後は高弟7人衆の一人として布教に大功績のあった方です。

 

若い頃の瀕死の骨髄炎から奇跡的回復を宗忠教祖から頂き、道の教えに活躍された方です。

 

八千筋に迷える人を一筋に導き玉う宗忠の神

 

と歌にあります。青春を道に捧げ尽くした人にふさわしい終焉でした。そして時尾宗道高弟の「日拝の力」を世界に紹介して人類の魂向上に役立てたいと思います。

 

時尾宗道 骨髄炎が治るをご参照願います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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