⑩大いなる奇跡と霊験 寿命が4回延びた話

 

 

滝沢白竜宮司の奥様の大病のお話です。寿命が神により4回延命されたご神恵です。(古神道霊験秘話 滝沢白竜著より)

 

1回目の大病(36歳時)

 

昭和28年鹿児島在住の時、霧島神宮主催の高千穂山上のご神火大修法に夫婦でご参加になり、帰宅した日に奥様が大量の腸内出血をされました。

 

さっそく滝沢宮司が神伺いをされますと,奥様の祖先から身に受けている悪因縁の大修祓(だいしゅうばつ)であるとのお示しです。

 

医者にも見せずに2~3日の安静で回復しましたが、3年後に又大量の腸内出血をされました。これも重ねて伺いますと「汝の家内の命は36歳で終わりであったが、汝と結婚して深い信仰に入り、その心得(こころえ)感心するところがある。45歳まで延命してつかわす」とのお示しを賜りました。

 

この時は奥様は36歳で、この時より45歳まで命が延びました。

 

 

2回目の大病(36歳~45歳)

 

 それから8年後神より「45歳まで延ばしてつかわす」とのお示しをいつのまにか忘れていました。

 

当時、身体が痩せてきて気力も落ち「養生せんと若死にするよ」と奥様は近所の人からも言われていたのです。実はその通り45歳になって、命数が切れかかっていたのです。

 

その後に神から「汝の家内への百日間の延命祈願を行うべし」とのお示しをいただき、元旦早々に産土神社にて百日の願をかけ、これを無事に貫徹終了しました。45歳から更に10年の延命です。

 

 

3回目の大病(55歳~63歳)

 

 

 45歳から10年経過して55歳の時に心筋梗塞で、とうてい命が助からないというような最悪の診療数値が出ました。

 

普通 心筋梗塞はデータが500位ですが、奥様は3000を超えて「すぐにも心臓が停止するかもしれないので、血縁者を呼び寄せてください」と宣告され、病院でも見舞いに来た人に「今お会いになったのが最後と思って下さい」と言われるような危篤状態だったそうです。

 

奥様はもがき苦しんでおり、滝沢宮司はご神前で「実は家内が苦しみの最中です。どうなりますか」と神にお伺いしますとご神殿から大きな声でお示しがありました。

 

「心配はいらぬ。心配はいらぬ。この苦難に耐えよ、この苦難を乗り越えれば汝の家内は助かるぞ」と二声続けてありました。

 

「ああ、家内は助かる」と思って顔を覗き込むと「アー」と言って息を吹き返しました。助かった!助かった!まさに神恩感謝の一瞬でした。

 

その時奥様が言われた言葉は「明るい 明るい 素晴らしい景色の良いところに行ってきました」と満足そうな清々しい表情です。

 

人間の行ける最高の霊界に連れて行かれたのですが、現界からのたっての祈願によって又この世に戻されたのが自感(神の悟し)で分かりました。

 

そして55歳から更に8年間 63歳まで、延命のおかげを賜ったそうです。病院側では100%助からないと確信していて、医者も看護婦も完全に諦めて放置してあったくらいでした。

 

しかし死ぬまでに至らず奇跡的に命をとりとめ、入院中に病院長から「貴方はよほど生命力のある方ですな」と週一回の回診毎に7回(7回×7日 49日間の入院中)同じことを言われたそうです。

 

退院する時に婦長、看護婦さん達から「本当に良かったね。生きて帰れるとは誰も思ってもいなかったです」と繰り返し言われました。余程の瀕死の重症だったと思われます。

 

 

4回目の大病(63歳~71歳)

 

 

63歳の8月25日また発作が起きて救急車で病院に駆け付けた時は、意識不明の死人同様でした。

 

医者から死の宣告を受け、葬式の準備までしました。しかしこの時も奇跡的な神助により命が助かったのです。

 

「信者の祈願と汝の祈願を受け、汝の家内は現界に残すことに定まった。寿命は後8年」と神様からの延命のご沙汰のお示しを頂戴しました。

 

69歳の春頃ご神示があり「汝の家内の寿命は71歳まで延命されているが、神界ではもう少し延ばすよう手配がなされている。」とのことです。

 

今まで数々のご神恵を賜り、さすがに71歳で一代は終わりと滝沢宮司は腹を決めておられたそうです。

 

滝沢宮司は第二の天戸開きの任務の大事な奉仕中であり、奥様がおられないと日常神事奉仕がどうにもならないのです。神はそれを見通されて、奥様の寿命を延ばしてくださったと宮司は確信しました。

 

69歳の11月13日吹田市の国立循環器病センターで、順番待ちしているうちに又発作が起きてしまいました。

 

精密検査の結果「心臓内部の動脈が全部詰まっている。バイパスの手術以外に生きる方法はない」と言われ早速手術しましたが、この状況でも奇跡的に助かりました。

 

71歳まで今の身体は到底命がもたないと神は判断されて、69歳の時に手術するようになされたということです。「この分では70歳を通り越してもう少し長生きできそうです」と滝沢宮司は締められています。

 

この話は滝沢宮司とのご縁で神と繋がり、宮司がご神璽に奉仕されるので、その奉仕が十分できるように奥様の延命がなされたご神恵のお話です。

 

あり得ないような奇蹟の連続によって何度も延命された奥様の命は、神との繋がりの大事さを考えさせられます。hinomotoはこの話を何回も読み、神の存在と繋がることの励みにさせてもらいました。

 

滝沢宮司は「行う者は必ず勝つ、然からざるものは遂にその運命に落ちる」と数回 本に述べておられます。行えば徳を招き、そうでなければその人の定まった運命のままに落ちていきます。心して肝に銘じて実践すべき言葉です。

 

滝沢 白竜宮司については下記を参照してください。

古神道霊験秘話より 大嵐の中のご神事

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 数年間雨が降らない史上空前の壮大なる奇跡!

岡山の集会日に数年間雨が降らなかった霊験です。気候も左右する程のご神力は宇宙大です。

 

1.御会日びより 数年間雨が降らない岡山の奇跡について

宗忠教祖

御会日とは、宗忠教祖が「お話をされる日」のことです。月の集まる日を2と7日と決めて、月6回(2,7,12,17,22,27日)とご講釈されていました。

 

しかし途中から雨になるようなことになりますと、参集の人が会場でざわつきだすことが往々にしてありました。

 

岡山ではたくさんのイグサを作る土地柄ですので、イグサを刈って干す時に雨が降ることを最も恐れていました。

 

途中から雨になりますと中には帰り支度をしたりして、会がザワザワして落ち着かないことがありました。まだ本当に道の主意が分かっていない人も多くて、帰り急ぎをしてざわつき混雑することもあります。

 

その時宗忠教祖は「皆さま、ご心配はいりません!今日から雨は決して降りません。安心してしまいまで話をお聞きなさい!」と言われました。

当時の岡山地方の地図

 

その通り雨模様の日でも、天気になり月6回 年72回、数年間(5年間とも伝えられる) 一度も雨は降ったことはありませんでした。

 

そのため誰云うともなく近郷近在に言いはやされて、人々も固く信じるに至りました。そこで御会日は雨が降らない「御会日(ごかいび)びより」と人から言われるようになりました。

 

人びとは雨の恐れがないことを信じ切って、安心して集会に行かれるようになったということです。朝曇って雨の心配がある日でも、今日は「御会日(ごかいび)びより」だから安心してイグサを干したということです。

 

しかし数年後ふとお考えになりあれから一回も降らないのではあるが、天候を都合よく左右するということは実に恐れ多いことで、ご辞退すべきである。

 

これは過ぎたる恩寵であり、特別の恵みでもあると宗忠教祖はお考えになってから、時には御会日にも雨が降ることも起きるようになってきました。

 

今日でも御会日は天気がいい日が多いそうです。長期間 地域の天候も左右するほどの天照大御神の広大なご神徳を教祖を通じて、発揮されたことは唯々驚異としか言いようがありません。

 

このように天照大御神のご神徳は広大無辺に及ぶものです。このようなご神力を岡山地方に及ぼされた宗忠教祖は、もはや人の範疇を超えた存在と言えるでしょう。

 

2.宗忠教祖 地面に草履の跡が付かない不思議 

 

教祖の門人に土肥右近という武士がいました。池田藩でも一目置かれる幕府側の4200石の御目付役でしたので、池田藩でも特別待遇でした。

 

土肥家の紋所船が各地の港に来たら、最優先に航路を譲らなければならない掟もある高禄の名門です。

 

土肥右近は教祖を招いて道の話を聞いた後お帰りの際は、必ず玄関まで見送り履物をそろえて門人としての礼を尽くしました。右近は教祖を大変尊敬しておられ、たびたびお宅にご招待されてお道の話をきいておられました。

 

ところが土肥の家臣野呂俊介はこのような主人の行動を快く思わず「如何に崇敬しているとはいえ、4200石取りの大家の当主が、たかが田舎神主の履物をそろえるのはいかがなものか」と不満げに言いますと、

 

右近は「わかった!」とうなづき、又教祖が訪れるとやはり以前と変わらず履物をそろえました。家臣の野呂は主人に強く苦情を申し立てました。

 

すると右近は野呂氏に向かい静かに命じました。「玄関から門までの先生がお帰りになった跡を調べてみなさい」

 

野呂氏はしぶしぶ帰られた玄関から門までの掃き清められた砂地の道を見ると、教祖の下駄の跡が全くなく、箒の目がきれいに残っていました。

 

遠くに教祖が歩いているのに履物の跡がどこにも残されておりません。これを見て全身冷水を浴びたような感に打たれたのは野呂氏です。

 

「ごもっともでございます。教祖様こそ生き神様でございます。殿まことに申し訳ございません」深く詫びられて、野呂氏も又教祖の門下に入られ熱心な信者になられました。

 

野呂氏の神文(正式入門)は文政5年です。

 

追記 

後に宗忠教祖が石尾乾介高弟にあてた土肥右近氏についてのお手紙に、思いもよらぬ事が起きたという便りがあります。

それは土肥氏が高所より落ちて死亡したことです。さすがにこの件については宗忠教祖は少なからず、ショックを受けられたようです。

この件についてhinomoto(私)はかなり具体的に調べましたが、「おかげ」について重大な事実が後に明らかになっています。いずれこの件を取り上げようと考えています。

 

3.一日間かかる5社参りを、早朝の一時間でお参りされたこと

 

この他にも通常は一日間もかかる5社参りを、早朝の一時間で行うこともされています。宗忠教祖自身「わが身ながら不思議だ」と言われています。

 

少なくても短距離選手並みのスピードで5社参りをしないと不可能な距離と時間です。しかも当時はでこぼこ道で、宗忠教祖は100キロ近くも体重があり袴と草履姿ですから絶対にあり得ない事です。

 

明治時代になってこの不可思議な話の裏付けを、お道の教師達は探していたそうです。伝え話として広くこの話は知られてはいましたが、本当にあったのかその証拠が見つかりません。

 

後に教祖が石尾高弟宛に詳しく書かれたお手紙が見つかった時に、当時の教師達は二拍手して喜んだそうです。

 

4.暗闇でも本が読め、提灯が無くても不自由なく歩けた宗忠教祖

 

赤木忠春高弟の直弟子であった本田応之助(幕末の剣術家)の「誠勤徳顕録」に誠に不思議な記述があります。(一部意訳してあります)

 

『夜の闇中にても書物などご覧になり、真っ暗闇を提灯なくても全く平気でお歩きになり一向に不自由しないご様子でした。此のことを人々が不審に思い尋ねたことがありました。』

 

それに対して『何も別に子細はございません。日々御蔭を賜り幽明界へ通う事を(天照大御神より)得たる故、夜光の玉を得ております』と大笑いして仰せられたそうです。

 

誠に真っ暗闇の中でも読み書きができ、灯りがなくてもずんずん歩ける不思議な出来事は、宗忠教祖の説明を聞いただけでは分かりません。

 

「夜光の玉」とは何なのか?ここまでくると人間離れして理屈をはるかに超越した御方です。このことについて教祖のお言葉があります。

 

『日の神を背に負い奉りて歩けば、いかなる山中又は荒海にても少しも心配なく安全です。その心直に日の神と一体なり。天地に敵する物更になし』とこの通りに天照大御神を背に負われていた方です。

 

5.宗忠教祖と太陽神の関係について (太陽の神人、山田雅晴著)より

 

ここで最も大切な事があります。それは歴史上有名な霊能者(シュタイナー,スウェディンボルグ、出口王仁三郎)のように「神話神」が感応して霊言を広めているのではなく、とてつもない高い「太陽神」のエネルギ―が教祖に感応していることです。

 

神話神とは神話という因果(カルマ)の影響を受けた神々で、太陽神は地球上のカルマの影響を受けていない根源的な神です。

 

この点が歴史上の霊能者と宗忠教祖と決定的に異なるところです。太陽神と繋がりのあるのは、宗忠教祖お一人だけと山田雅晴先生は述べられています。

 

だから宗忠教祖は徹底して高次元のインスピレーション形態をとりました。それが湧かない場合はどんなに多くの聴衆がいても、「今日は一向に浮かびません!」と正直に述べさっさと高座から降りました。

 

金星のエネルギーを呑み込んだ空海をはじめ、人類史上太陽神と数多く感応できた人間はいません。ここに教祖が不世出の神人(釈迦、キリストのような人類の師)と言われる根拠があります。

 

6.日本でも稀なる徳筆のご神号

宗忠教祖のご七カ条 日々の戒め 腹を立て物を苦にする事等

備前藩の重臣で宗忠教祖の教えを頂いた藤田勝介先生が、ある年の正月年賀に上がりました。

 

教祖から「かねてご依頼の御神号( 天照皇太神宮 )をお書きしました。この御神号は18歳の心で書きました。」と仰せになりました。

 

藤田先生は有難く頂かれ、ちょうどその年京都詰めになられたので京都で表具しようと、途中京都のある屋敷に寄られました。そこは墨色を判定する名人宅でした。

 

その幅を見せたところ、その人が言うには「これは恐らく日本歴代の中でも稀な徳筆でまことに素晴らしい書です。しかしひとつ合点がいかぬことがある。これだけの徳を積んだ人が20歳になるかならぬかという事はどうも不可解です。

 

恐らくこの偉大な徳を積む人は60から70の年を重ねなければならないが、この筆勢は二十歳の上ではない。とにかく恐れ入った徳筆です!」とその書を驚嘆しきりでした。

 

藤田先生はこれを聞いて「そういえば先生は、18才の気持ちで書いたと言っていたな」とその時のことを思い出して当時のいきさつを名人に話しました。

 

その名人は一層驚いて筆跡をまじまじと見つめ、「うーん」と言葉にならぬ感服をあらたにしたという。

 

又ある時門人の一人が宗忠教祖の書がどれくらいの価値があるのか試したいと思い、著名な鑑定家に意見を求めたことがあります。その鑑定家はじっくりと手蹟を見つめて、次のように言って大いに感嘆したそうです。

 

「なんとも驚き入った筆蹟ですが、思うに菅原道真公以来このような書を書ける人はいないと存じます。とても高徳の人でなければ、このように書けるものではありません」との驚くべき鑑定でした。

 

平成の「太陽の神人・黒住宗忠」著者山田雅晴先生は、黒住教本部の宝物館に展示されている「天照皇太神宮」の掛軸を見て、その力強さと優雅さに心底驚き思わず拍手して拝んでしまったと本に述べられています。

 

書はその人の人間性がそのまま発露されますので誤魔化しようがありません。小生が若い頃禅に傾倒している頃師匠が、江戸時代の白隠和尚の墨蹟について話をした内容です。

 

数多くの白隠墨蹟のなかで「鉄棒」を描いた書があり、古来とりわけ禅者のいろいろ話題にされてきた有名な禅画です。

 

この書について「あまりに禅定力(本来の気迫・精神力)が強くて居間に飾っていても、ものすごい原爆みたいな迫力なので、飾っておれない程圧倒される掛軸です。いずれ西洋人の中でこの白隠墨蹟の鉄棒の真価を本当に理解できる者が現れて、日本に禅を学ぶに来る時代が到来するだろう

 

と白隠の圧倒的力量のすごさを評されたことがありました。さすが臨済禅の復興の祖と言われる禅者です。

 

このように墨蹟は数百年経っても肌に感じられる迫力があり、人間性が書にそのまま忠実に反映されます。宗忠教祖の筆跡は徳と優雅さに特色がありますので、白隠禅師とは趣が異なります。

 

又明治天皇の御父上の孝明天皇は宗忠教祖を厚く信仰され、明治18年京都の宗忠神社を唯一の勅願所として指定されました。孝明天皇が心より深く帰依された神人でした。

 

天皇が民間の一神道家を勅願所として扱うことは異例中の異例のことで、日本の歴史上に例がありません。そのため幕末日本が生んだ不世出の神人として「仏教に弘法大師空海あれば、神道に神人黒住宗忠あり」と讃えられています。

 

さらに九条家、二条家、六条家、甘露寺家、徳大寺家と続々公家達の信仰する人々が増えていきました。明治維新の功労者三条実美もそのうちの一人です。これは赤木忠春高弟の活躍によるものです。

 

7.東郷元帥の活躍

 

尚日露戦争のバルチック艦隊を撃破した東郷元帥も母上の影響で宗忠教祖を熱心に信じて、日本海海戦の最中でも宗忠教祖の御歌をひたすら胸中で唱えながら全身全霊で戦ったと言われています。

 

東郷元帥は海戦前に黒住教の東京教会所を訪れ「どのような心構えで戦ったらいいのか」教えを受けており、その時授かった教祖の歌が下記にあります。

 

身も我も心もすてて天つちの

         たったひとつの誠ばかりに 

 

神国日本の興廃をかけて戦った乾坤一滴の覚悟の神歌です。元帥は全国民の必勝祈願の重みをこの歌に託してロシアと戦ったといえます。

 

現代の我々もこの御歌を口ずさみ、東郷元帥の命懸けの心境を少しでも垣間見るのも、大切な経験と思います。

 

先人がいかにお国の為に全生命を懸けて尽力してきたか、有難さが身に沁みて分かります。天照大御神の宇宙的壮大なご神徳が天から降ってくる感があります。

 

あの史上稀に見る日本海海戦の神懸かり的な大勝利は東郷元帥、秋山真之参謀の指揮もさることながら、天照大御神の国を守るご加護があればこそと考えられる。

 

秋山参謀も運の良さ即ち天の力を強く意識され、秋山参謀の長男は神主に進まれた逸話があります。

 

 8.日本は生まれ変わる!

 

宗忠教祖が幕末に出現したのは時霊(ときたま)の歴史的要請があります。仏教の台頭期には弘法大師空海が歴史に登場しましたが、

 

2026年からの世界の大変動期には神人の宗忠教祖が、縄文時代の太陽信仰への原始的回帰の祖として再度日本に復活するだろうと考えています。  

 

太陽神を万物の命の源として魂の根源・故郷とみなす宗忠教祖の考え方です。日本人が縄文の冬至の伝統を繋ぐ日が又やってきます。宗忠教祖が冬至の日に生まれ、冬至に「天命直受」の悟りを得たのも納得できます。

 

天命直受は文化11年11月11日の冬至の日です。1が6つも続く珍しい日に大悟されました。三日三晩感激のあまり大きな声で笑い続けたという。これほどの徹底した大悟は禅でも見かけません。

 

それからの宗忠教祖はまさしく天照大御神の「太陽の子」であり、天照大御神と「同魂同体」であられました。

 

日本は生まれ変わります。再度縄文の冬至祭が日本人に復活します。戦後のGHQの植民地政策からの脱却を図り、神国日本の意識が真に国民に目覚めてきます!

 

神国と聞いただけで、疎まれ拒否されてきた戦後の極端な教育方針は改められて参ります。日本は神が宿る美しい瑞穂の国です。

 

 

 

 

 

 

 

Gokaibi  – About the Miracle of Okayama, Where It Hasn’t Rained for Several Years
Oyasama (Munetada Kurozumi )
Gokaibi are the days on which Oyasama’s “Speaks”. He had decided on 2 and 7 days of the month for the monthly gatherings, and gave the sermon six times a month (Gokaibi *on 2, 7, 12, 17, 22 and 27th of the month).

 

However, when it began to rain during the lectures, the people who came to the lectures often began to murmur in the hall.

 

In Okayama, where a lot of igusa is grown, people were most afraid of rain when they were cutting and drying the igusa.

 

When it rained in the middle of the day, some of us would get ready to leave, and the meeting would become restless and uneasy. There were many people who still did not really understand the main intention of the path, so they would sometimes rush home, causing the meeting to become crowded with people in a hurry.

 

At that time, Oyasama  said, “Don’t worry, everyone! It will never rain from today on. Listen to me until I tell you what I have to say! Listen to me until you feel at ease!”

 

The Divine Virtue of Amaterasu

As he said, even on rainy days, the weather turned out to be fine, six times a month, 72 times a year, and for several years (reportedly five years), it never rained.

 

For this reason, it was spread throughout the neighborhoods without anyone’s knowledge, and the people came to firmly believe in it. People began to say, “It never rains on  Gokaibi,” which means it never rains on the Gokaibi.

 

People began to believe that there was no fear of rain, and they were able to go to meetings with peace of mind. Even on days when it was cloudy in the morning and there was a fear of rain, people would dry their sorghum in peace because today was a good day for the meeting.

 

However, a few years later, he suddenly thought that although it had not rained once since then, he should decline because it is truly a fearful thing to have the weather be so conveniently influenced by the weather.

 

Since then, it has been possible to have rain even on the day of  Gokaibi.

 

Even today, there are many days when the weather is fine on Gokaibi. It is nothing short of marvelous that Amaterasu, through Oyasama, has demonstrated Her vast divine virtues to such an extent that even the weather of a region can be affected for a long period of time.

 

Thus, the divine virtues of Amaterasu are vast and boundless. Oyasama , who has brought such divine power to the Okayama region, is an existence that is beyond the scope of human beings.

 

The Deity’s Rarely Seen Deity’s Writing in Japan

One year, Mr. Katsusuke Fujita, a senior vassal of the Bizen clan and a student of  Oyasama, came to the New Year’s celebration.

 

Oyasama said, “I have written the divine name you have requested for some time. I wrote this divine name with the heart of an 18-year-old. Oyasama said, “I wrote this divine name with the heart of an 18-year-old.

 

Fujita-sensei received it gratefully, and on his way to Kyoto, he stopped at a house in Kyoto to have his work done there, as he had just arrived in Kyoto that year. He stopped at a house in Kyoto on his way there, which was the home of an expert in judging ink color.

 

When I showed him the scroll, he said, “This is a truly wonderful calligraphy, probably one of the rarest and most virtuoso brush strokes of all time in Japan.

 

However, there is one thing I cannot agree with. It is puzzling that a person who has accumulated such great virtues should have reached the age of 20 years old.

 

Perhaps a person who has acquired this great virtue must be 60 to 70 years old, but this brush stroke is not above the age of 20. At any rate, it is a fearfully virtuous brush! It is said that he was amazed at the calligraphy.

 

On another occasion, one of his students wanted to test the value of a painting by  Oyasama and asked a famous connoisseur for his opinion. The connoisseur looked at the calligraphy carefully and was greatly impressed.

 

I don’t think anyone since “Sugawara no Michizane” has been able to write like this. Only a person of very high virtue could have written it like this.

 

Masaharu Yamada, author of “Kurozumi Munetada, God-Man of the Sun,” says in his book that when he saw the hanging scroll of “Amaterasu God” displayed in the treasure house of the Kurozumi Sect headquarters, he was truly surprised by its power and elegance, and involuntarily applauded and worshiped it.

 

Calligraphy is a direct expression of a person’s humanity, and there is no way to deceive it. When I was young and devoted to Zen, my teacher gave me a lecture on Hakuin’s ink seki during the Edo period (1603-1868).

 

Among the many calligraphic works of Hakuin, there is a famous Zen painting depicting an Iron Bar, which has been a topic of discussion among Zen practitioners since ancient times.

 

The painting is so powerful that even if it were displayed in a living room, it would be so overwhelming that it would be impossible to keep it there.

 

Hakuin’s overwhelmingly powerful calligraphy was once described as “so powerful that even if it were displayed in my living room, it would be so overwhelming that I would not be able to display it. Hakuin is indeed a rare Zen master who is considered the founder of the revival of the Rinzai Zen sect in Japan.

 

In this way, the power of Hakuin’s works can be felt even after several hundred years, and his humanity is faithfully reflected in his writings. The handwriting of Sochu is characterized by virtue and elegance, and differs from that of Hakuin.

 

Emperor Meiji’s father, Emperor Kōmei, was a great devotee of Sōchū Oyasama and designated Munetada Shrine in Kyoto as the sole place of worship for him in 1885. Emperor Komei was deeply devoted to Oyasama.

 

The number of people who believed in the shrine increased one after another, including the Kujo family, the Nijo family, the Rokujo family, the Kanroji family, and the Tokudaiji family, as well as the nobles. Sanjo Sanetomi, who contributed to the Meiji Restoration, was one of them. This was due to the activities of his younger brother Tadaharu Akagi.

 

It is said that Admiral Togo, who defeated the Baltic Fleet in the Russo-Japanese War, trusted in  Oyasama and fought with all his might while chanting Oyasama’s Shinto Songs in his heart.

 

The victory of the Battle of the Sea of Japan, a rare victory in history, was not only due to Admiral Togo’s command, but also to the blessings of God.

⑨大いなる奇跡と霊験の黒住宗忠について

 

黒住宗忠教祖は国家神道の天照大御神を個人の親神として説いた幕末の偉大な霊的指導者です。

 

大いなる霊験者の宗忠教祖のお人柄について驚嘆すべき話が、いくつか残っていますのでご紹介いたします。

 

1.放火犯を祈られる

 

ある朝教祖の家の屋根がところどころ焦げていたので、ある人が屋根に上って見てみたら7か所も火をつけられていたことが分かりました。

 

幸いに大事にならずに済みましたが燃えさしの松明(たいまつ)の残りがあり、それをもって降りてきて教祖に差し出しましたら「ああ、これはほんとに恐ろしいことでした。いやどうもご苦労様でした!」とお礼を述べられました。

 

「まことに人の家に火をつけるとは、恐ろしいことです。もし発覚したら重い刑に処せられ、火あぶりの罪にも問われるものを!幸いに大事に至らずに済んでよかった。人様にこのような大罪を犯させたことは、神様に申し訳ないことだった。

 

無事に済んだお礼と人が犯したお詫びを、神に申し上げなければならない。その人が心を改めて正しい真人間に、立ち返るようにお祈りしよう!」と燃えさしのたいまつを綺麗に洗い、塩水で清めて火をつけたその者の改心と開運のために、3週間誠意を込めてお祈りされました。

 

放火犯謝りに現る

 

すると不思議なことに3週間の満願の夕方見知らぬ男が、お宅に来訪しておそるおそる震える声で語り「私は20日ほど前にお家の屋根に上り火をつけましたが、どういうものか、つけてもつけても燃え上がりません。

 

よく乾いている草ぶきの屋根に火のつかぬはずはないのですが、7か所ばかりもつけました。それでもどうしても燃え尽きませんので、恐ろしくなりやっぱり尊いお方であったことが分かりまして、たいまつの燃えさしをそこに投げ捨てて逃げ帰りました。

 

それから相すまぬことをしてしまったと深く後悔して悩みつづけ、思い切ってお詫びに上がりました。どうぞお許しのほどをお願いいたします」と白状したそうです。

 

教祖もお祈りのご誠意が届いたことをお喜びになりまして、お道の趣旨をその者に説き諭しになりました。その者は涙を流して感激しついに神文を捧呈して、正しい道に進んでいったということです。

 

この者は修験者、祈禱者の類で教祖に帰依する者が次第に多くなり、そねみと恨みから放火に及んだという話です。「汝を呪う者のために祈れ」という尊い言葉がありますが、正しく教祖の例がこれに当ります。

 

宗忠教祖がいかに純粋で清らかな人物だったかよく理解できる話です。放火犯のために21日間誠意を込めて、お祈りされた行為が神に届いた貴重な話です。

 

2.追いはぎに金を恵まれる

 

教祖が家への帰り道に日が暮れ、人家もなく寂しい所(米倉あたりかと聞く)を歩いていましたら、物陰から現れた男が突然道をふさぎ「ぜひ10両の金が要るんだ。貸してくれ!」と迫りました。追いはぎです。

 

これを聞いておられた教祖はその男の顔を見つめておられましたが、やがて物静かに「ぜひ入用か。このような寂しい夜道に立って知らぬ者に金の無心をなさるとは、よくよくの事と思います。分かりました。お貸ししましょう。

 

しかし今は5両しか持ち合わせがありません。まあお気の毒ですが今夜はこれだけ持ってお帰りなさい。あとの5両は今村のお宮の手水鉢のそばへ埋めておきます。目印に小さな石を置いておきましょう。明日の夜お取りください。間違いなく5両埋めておきます」

 

追いはぎはしばらくは、じっと教祖の顔を眺めていましたが「見るからに正直そうな老人だ。うそは言うまい。それにしても丁寧な者だ。

 

10両と言ったらそれをそのまま真に受けて、大枚5両をくれた上に又明日の夜5両くれようとは!」とあきれ気味に感心しながらもその夜は立ち分かれました。

 

さて半信半疑で翌日の夜今村宮に行ってみると約束通り目印の石の下に5両が置いてあり「ああやっぱり正直なお方であった。

 

今時こんな神様のような人はいない!」と教祖の誠心に感じ入り、自分の間違った心、行為を深く恥じ入って、やがて門人の一人として厚く信心するようになったといいます。

 

まるで嘘のような話と思われるでしょうが、教祖は相手を非難するような気持ちは一切なく追いはぎに立ち治りの機会を与えられたのです。

 

3.濡れ衣を着せられる

 

ある親戚筋より6両の借金をされ、全額返済されましたが、相手より再度の返済催促がありました。そのとき教祖は6両という高額の催促を黙って再度払われました。

 

その時の歌です。

 

    誠をば神は見すらん濡れ衣

       人には着せじ身は重くとも 

 

「既に払った」ときっぱり言えば、誰かに疑いや詮索等のいろいろな問題を引き起こす羽目になるとお考えになって、自ら「濡れ衣」を黙って着られたということです。

 

4.横領のえん罪を甘んじて受けられる

 

ある武士に借金していた人が返済せず催促されるたびに、その場限りの言いのがれで済ましてきましたが、とうとうその武士がしびれを切らし、借金返済に自ら乗り込んできました。

 

借金を払わない場合相手を「切り捨て」しても払わせる意気込みです。困った相手はその武士が黒住先生を尊敬していることを知っており、先生にかこつけて「あの金はもう大分前に最初お話を下さった黒住先生にお渡ししてあります」と嘘をつきました。

 

その武士はすこしおかしいとは思ったのですが、相手があまり強く言い張るので教祖の家に顔色を変えて参りました。

 

玄関で武士の訪問を受けた教祖は、只ならぬ雰囲気の武士の様子を見てとっさに「確かにその金は受け取りましたが、今手持ちの金は半分しかありません。とりあえず半金だけ今日お渡しします。残りは近日中に持参いたします」となんとかその場をしのぎました。

 

そのあとで奥様が尋ねられました。「只今のこと本当なのでございますか。あなたがお受け取りなっておられたのですか。仮にも人様のお金を黙って使い込んだとあっては、人の道を説いておられるあなたとしては道の汚れとなるでしょう !」と述べられました。

 

それに対して教祖は「今あの侍の顔を見たら、血相変えて殺気だっておった!もしわしがありのままを言ったら、直ちに引き返してあの者は切られてしまう。

 

これはどうしても、わしが罪をかぶってやらねば と即座に決心して嘘をついたのじゃ。奥や まあ ありがたいことに人一人の命が助かったのじゃ!わしの名がなんだ。みんな天が知っておられることだ。これが本当の道じゃ!」と答えられたとのことです。

 

5.井戸に落ちた子猫の話

 ( 無限なる宇宙世界で自由自在に生きよ!窮屈な物質界に囚われて過ごしてはならない。)

 

岡山へご神用のためある地方へ行かれた時の話です。大勢の者が集まって何か事ありげに見えましたので、教祖も立ち止まってご覧になりました。

 

すると井戸の底に子猫がはまって溺れ死にそうにしており人々が助けているところでした。小さなザルを綱に吊るして下げてやると子猫がザルに飛び移ります。

 

それを引き上げてあともう少しで助かる井戸の先端まできたところで、子猫が道へ早く飛び出そうとしてドブンと井戸の深い底に落ち込むのです。

 

何回やっても猫が早まって飛び出すので助けられず、井戸に落ち込むのを何回も繰り返しています。

 

じっとご覧になっておられた教祖はいつしか涙目になって思わず泣かれてしまわれました。随行の銀治兵衛さんは「助けられずかわいそうですが、たかが猫一匹のことです。何も大先生のあなた様が泣かれるには及びません!」

 

これを聞いた教祖は「銀さん、子猫のことではありませんぞ!あれは人間のことですぞ!人は利口そうに見えてもあの子猫と同じことを繰りかえしています。

 

神様が助けてやろう、助けてやろうとお骨折りなさっても、もう少しじっとしておれば助かるものをすぐ自らの要らぬ自我を出し、あたら命を捨てております。

 

そして自ら深い業の淵に飛び込んでいく。神様がどんなに人を哀れと思し召しになっていることか、泣かずにおられません!」と仰せになりました。全くそのお言葉通りです。

 

天にお任せして大らかに生きれば思う通りの世界に生きられます。唯物的な独りよがりの我よしの自我を捨て去り、神のご加護の下に自由に楽しく生きることです。

 

6. あわや船の転覆を免れた話 

 

宗忠教祖が転覆沈没寸前の船より、歌を書いた懐紙を海に投じて一瞬で嵐がおさまった話です。

 

「教祖様の御逸話」には「小串沖ご難船」というタイトルで記載されています。弘化3年(1846年)3月8日宗忠教祖は小豆島方面に向かう途中、小串沖(岡山市南区)での出来事です。

 

いままで静かな海がにわかな突風で吹き荒れ、大波のため航行中の大小の船が大揺れに揺れて転覆しそうな事態になりました。教祖が乗っていた船も、転覆沈没せんとするような状態です。

 

船頭達も必死になって転覆を避けようと懸命に努力しましたが、どうにも転覆を免れなくなり、同船の客たちは助けを求めて大騒ぎとなり神仏に祈ったりしていました。

 

教祖はひとり静かに、目を閉じどっしりと座っておられます。船頭が「この船もいよいよ転覆します。どうか覚悟してください」と大声で皆に叫びました。

 

教祖はその声をお聞きになって矢立を取り出し、懐紙を開いて歌をサラサラとお書きになりました。

 

 波風をいかで鎮めん海津神(わだつかみ)

       天つ日を知る人の乗りしに   

 

(日の神である天照大御神のご神徳を世の人に広めている自分が、乗っている船を沈める気か。海をつかさどる竜神よ、波風を鎮めなさい)

 

と一首の歌をしたためて海中に投ぜられるや、いままでに嵐のような大波が一時に静まって凪のようになり海に投げ出された人々も助けられました。

 

その救われた人の中に鳥取県松崎の伊東定三郎という人がいました。この人は息子と金毘羅宮へ参拝の途中別な船に乗船していましたが、この大嵐に巻き込まれ親子共々波間に投げ出されたところを波が急におさまり助けられた話があります。

 

尚伊東定三郎は大商人の船木敬重の番頭であり、この奇跡体験の話を主人の船木敬重にして、敬重が黒住教に関心を持つ切っ掛けになった経緯があります。後の船木敬重は黒住教の大いなる資金的援助者になります。

 

急に嵐がやんだ理由が後になって、別な船に乗っておられた宗忠教祖のお蔭だということを定三郎は知って黒住教徒となりました。伊東定三郎も船木敬重もやがて教師として布教におおいに尽くされた話が伝えられています。

 

又この話と関連していると思われる話が他にもあります。かつて弘法大師が仏教を求めて遣唐使の船に乗って、唐の国に渡ろうとした時に暴風と大波に襲われ、船が転覆沈没の危険性がありました。

 

しかし大師は大和の人達を仏法の教えに導くため唐に行くのであるから、船が沈没するはずがないと全く動揺のない平然たる態度をとられたことを思い出させるものです。

 

嵐を終息させる目に見えない力が、この世に厳然として存在している証左として取り上げました。下記の古神道霊験秘話の大嵐のご神事も同様な話です。

 

古神道霊験秘話より 大嵐の中のご神事

 

There are still some marvelous stories about the personality of Kurozumi Munetada, the Great Spiritual Examiner, that I would like to share with you.

 

1. Prayer for an arsonist

 

One morning the roof of Munetada’s house was charred in some places, so someone went up to the roof to take a look and found that seven places had been set on fire.

 

Fortunately, it was not serious, but there were remnants of torches that had been set on fire, and when he came down with them and presented them to Munetada,

he said, “ Oh, this was truly a terrible thing. Thank you very much for your hard work ! It is truly a terrible thing to set fire to someone’s house.

If it had been discovered, he would have been severely punished and even burned at the stake ! Fortunately, it was not serious. I was sorry to God that I had caused people to commit such a serious crime.

I must thank God for the safe outcome and apologize to God for the person’s transgression. I pray that the person will change his mind and turn back to a righteous and true human being ! “

 

He washed the torch clean, purified it with salt water, and prayed with sincerity for three weeks for the reformation and recovery of the person who had set the torch on fire.

 

Arsonist Appears to Apologize

 

Strangely enough, on the evening of the three-week period, a stranger came to the house and said in a trembling voice,

“About 20 days ago, I went up on the roof of your house and set it on fire, but somehow, it did not catch fire even though I put it on.

It was impossible for a roof made of dry grass not to catch fire, but I lit fires in as many as seven places. I was so frightened that I realized that it was the Goddess of Mercy, so I threw the torch’s cinders there and fled home.

I was deeply sorry for what I had done, and I continued to be troubled by my regret. Please forgive me.”

 

Munetada was pleased that the sincerity of his prayer had been received, and he explained the purpose of the path to the man. The person was so moved to tears that he finally offered the Divine Grant and proceeded on the right path.

 

The story goes that this person was a kind of ascetic or exorcist who gradually became a devotee of Munetada, and out of envy and resentment he set himself on fire. There is a noble saying, “Pray for those who curse you,” and Munetada’s example is a perfect example of this.

 

This story shows how pure and innocent he was. It is a precious story that the act of praying with sincerity for 21 days for the arsonist reached God.

 

2. being blessed with money by a highway robber

 

Munetada was walking home at sunset in a deserted area (around a rice granary, I hear) when a man appeared from the shadows and suddenly blocked his way, saying, “I really need 10 Ryo of Gold. Please lend me the money! He was a robber. He was a robber.

 

Munetada, who was listening to this, stared at the man’s face, but then quietly said,

“You need it ? I am surprised that you would stand on such a lonely nighttime street and ask a stranger for money. I understand. I will lend you the money.

But I only have five cars on me at the moment. I am sorry to say this, but please take this much with you tonight and go home.

I will bury the other five by the water bowl at the shrine in Imamura. Leave a small stone to mark the spot. Please pick them up tomorrow night. I will definitely bury the five cars.”

 

The chaser looked at Munetada’s face for a while, but then said, “He seems to be an honest-looking old man. He would not tell a lie. He is a very polite man.

 

When I told him that I would give him 10 cars, he took it as it was and gave me 5 Ryo of Gold, and then gave me another 5 Ryo of Gold orrow night ! The “Mere Old Man” left that night with a sense of dismay and admiration.

 

The next night, I went to the Imamura Shrine with half a doubt in my mind and found the 5 Ryo under the stone as promised.

 

There is no one like a god nowadays ! He was deeply ashamed of his wrong mind and actions, and eventually came to have strong faith in him as one of his students.

 

It may sound like a lie, but Munetada never had any blame to the other party and was given a chance to recover from the crime of being chased.

 

3. being falsely accused

 

Munetada was once again asked to repay a debt of 6 Ryo by a relative, which was repaid in full. However, the other party demanded another repayment. At that time, Munehata paid the high demand of 6 Ryo  without telling anyone.

 

 

If he had said flatly, “I have already paid,” he would have caused suspicion, scrutiny, and various other problems, and so he silently put on the “robe of shame” himself.

 

4. accepting the guilt of embezzlement

 

Whenever a person who owed a debt to a certain samurai was urged to repay the debt, he would simply make up a perfunctory excuse, but finally the samurai grew tired of the situation and came to him himself to repay the debt.

 

The warrior was determined to make the debtor pay even if he had to “cut off” the debtor if the debtor did not pay. Knowing that the troubled warrior respected Munetada Sensei, he took advantage of his respect for Sensei and lied, saying that he had already given the money to Kurozumi Sensei, who had first spoken to him long ago.

 

The warrior thought this was a little strange, but the other party insisted so strongly that he changed his face and came to Munetada’s house.

 

When Munehada was visited by the samurai at the entrance, he saw that the samurai was in an unusual mood and immediately said,

“I have indeed received the money, but I have only half of the money on hand. For now, I will give you only half of the money today. I will bring the rest in the near future.

After that, his wife asked me, “Is it true what you just said ? Is it true what just happened ? Was it you who received the money ?

If you have spent other people’s money without telling them, it would be a disgrace to you, who preach the Way of the People !”  In response, Munetada said, “Now, that money is being spent.

 

In response, Munetada said, “When I looked at the samurai’s face, it was bloodthirsty and furious ! If I had told the truth, he would have turned around and been cut down.

I must take the blame for this, so I immediately made up my mind to lie. Thankfully, a man’s life was saved ! What is my name ? The heavens know it. This is the true way !”  He replied, “This is the true way !”

 

5. the story of the kitten who fell into the well
 (Live freely in the infinite cosmic world ! Do not spend your time trapped in the cramped material world.)

 

It is a story about a time when He went to Okayama city on a divine mission. A large group of people had gathered and looked as if something was happening, so Munetada stopped to look.

 

He saw that a kitten was stuck at the bottom of a well and was about to drown, and people were rescuing it. A small colander was hung from a rope and lowered, and the kitten jumped onto the colander.

 

When they pulled it up and almost reached the top of the well, the kitten tried to jump out of the way and plunged with a thud into the deep bottom of the well.

 

No matter how many times we tried, we could not save the cat as it jumped out prematurely and fell into the well over and over again.

 

Munehata, who was watching the scene closely, eventually became teary-eyed and cried uncontrollably. The attendant, Ginjibei, said, “I feel sorry that we could not save the cat, but it was only one cat. There is no need for you, Oyasama, to weep !”

 

Hearing this, Muneada said, “Gin-san, I am not talking about a kitten! I am talking about human beings! People may look clever, but they are repeating the same thing as that kitten.

 

Even though God makes every effort to save them, they could be saved if they would just stay still a little longer, but they immediately give up their own unnecessary ego and throw away their lives.

 

And then, he himself plunges into the abyss of deep karma. I cannot help but weep, thinking of how much God pities mankind ! “

He said, “I cannot help but weep ! ” It is exactly as he said.

 

If we leave everything to the heavens and live with a generous heart, we can live in the world as we wish. We must put aside our materialistic, self-indulgent ego and live freely and joyously under the blessings of God. 6.

 

6. the story of how the ship was saved from capsizing in the nick of time 

 

In this story, Munetada was on the verge of capsizing his ship when he threw a piece of paper with a poem written on it into the sea, and the storm subsided in an instant.

 

The story is described in “Anecdotes of Munetada” under the title of “Kogushi Oki Gosainan Boat” (A ship in distress off Kogushi). On March 8, Koka 3 (1846), Munetada was on her way to Shodoshima when she encountered a storm off the coast of Kogushi (Okayama City).

 

The previously calm sea was suddenly swept away by a gust of wind, and the large and small boats under sail were rocked so violently by the heavy waves that they nearly capsized. The ship on which Munetada was riding was also in a state of near capsizing.

 

The boatmen tried their best to avoid capsizing, but they could not avoid capsizing, and the passengers on the boat were in an uproar, praying to the gods and Buddha for help.

 

 

Munetada sat quietly with his eyes closed. The boatman said, “This ship is about to capsize. Please be prepared.”

 

Hearing his voice, Munetada took out his Yatate, opened a piece of kaishi paper, and wrote a poem on it.

 

Wadatsutsukami, the god of the sea, who calms the wind and waves
      To the rider who knows the heaven and the sun

 

(I, who am spreading the divine virtues of Amaterasu, God of the sun, to the world, do you dare to sink the ship on which I am riding? O Dragon God who controls the sea, calm the waves and winds.)

 

The stormy waves that had been swept out to sea were suddenly calmed, and the people who had been thrown overboard were saved.

 

Among those saved was a man named Ito Sadasaburo from Matsuzaki, Tottori Prefecture. He was on another boat with his son on their way to worship at Kompira-Sama when they were caught in a great storm and both father and son were thrown into the waves, but the waves suddenly subsided and they were saved.

 

Ito Sadasaburo was the chief watchman of Funaki, a large merchant, and he told his master, Funaki Keishige, about this miraculous experience, and Funaki became interested in the Kurozumi-kyo.

 

He later learned that the reason the storm suddenly stopped was due to Oyasama  on a different ship, and he became a Kurozumi-kyo member. It is said that he eventually became a teacher and devoted himself to missionary work.

 

There is another story that seems to be related to this one. Once, when Kobo-Daishi was about to travel to Tang China in search of Buddhism on a Japanese envoy’s ship, the ship was struck by a storm and heavy waves, and was in danger of capsizing and sinking.

 

However, the Master was not upset at all because he was going to Tang China to lead the people of Yamato to the teachings of Buddha Dharma, and he was completely unperturbed.

 

I have taken this up as proof that there is an invisible force in this world that can end a storm.

Translated with DeepL.com

 

 

 

 

 

 

 

 

 

⑧大いなる奇跡と霊験 12時間以上の死児(3才)が生き返る!

日の出に向かい思い切り御陽気を腹いっぱい吸ってお祈りします。この地球に生かせていただく幸せを伏して感謝いたします。

 

3才の死児が蘇生した話 信 (まこと)の落穂集より

 

今まで蘇生の例をいくつか挙げてきましたが、今回は「信 の落穂集」より3才の死児の蘇生の例をご案内します。目に見えない世界を理解し思考するには貴重な実例です。

 

黒住教明神教会の「信の落穂集」から転載します。この本は昭和42年9月発行で、2代と3代所長を追加しての重版です。初版は昭和25年です。

 

初代所長石田佐吉、2代所長石田精三郎、3代所長石田佐々雄(敬称略)にわたる黒住教の奇跡的病気治療を始めとしてさまざまな話が記載されています。

 

現在、世界中を見渡しても石田佐吉先生ほどの力量の方を探すのはかなり困難と思われます。それほど卓越した稀有な人です。

 

初代の石田所長は「石田の一吹き」と言われ、信者の数多くの病を治されてこられた有名な方です。又孝養と慈愛を尽くされ、郷党の人から一心に敬意を受けられた偉人でした。

 

初代の石田佐吉先生

本そのものは小冊子の104頁ですが、序文に「この本の表紙の【信】なる文字は、西晋一郎先生(元広島大学名誉教授)の書かれたものです」とあります。尚西晋一郎先生は太平洋(大東亜)戦争の敗戦受諾に尽くされた高名な学者です。

 

hinomotoの父が若い頃この西晋一郎先生を崇拝して、先生の「晋一」の字を取り私の名前にしたと聞いていました。偶然この本を思いがけず発見し、自分の名前の由来を思い出してなにかご縁を感じる次第です。この本の表紙に鮮やかに信の一文字が印刷されています。

 

後に(2024年夏)西晋一郎先生の昔の写真が、何故か私の前に急に出てきました。半世紀前に亡くなった父親が若い頃写した写真でした。

死児を半日以上背負い、石田先生を訪ね歩く

 

池内イワと岩吉の間に生まれた二女シマは3才の時に病気にかかり、介助のかいなく脈、呼吸が絶えて医者も死亡と診断しました。明治15年4月9日午前5時のことです。親戚は埋葬の段取りを考えていたそうです。(文中の敬称略)

 

常に宗忠教祖を深く信仰し、又石田佐吉(石田の一吹きと言われ数多くの人の命を救ってきた初代所長)を慕ってきた池内の両親は石田先生から*「おかげ」( 奇跡 )をいただき、

 

死んだ子供の命を助けようと母のイワは冷たくなっている子供を背にして、夫の岩吉と共に石田所長を尋ねて家を出ました。

 

死児を背負い交通の不便な明治時代に、山道を徒歩で石田先生を探しに三坂峠の坂本村から石井村へ訪ね歩いた結果、探し求める先生は松山市の浅山という人の家にいることがやっとわかりました。

 

そして石田先生に会えたのはもう夜でした。読者の皆様想像してください。

 

子供の死亡時刻が午前5時と書いてありますから、死児を40キロ余り背負い歩いて石田佐吉先生に会えたのは夜です。すでに死亡後約12時間以上も経過しているのです。

 

その死亡した子が生き返る可能性が考えられますか? 現代医学の進んだ今の時代でも到底考えられないことです。

 

死亡直後であれば人工呼吸で息を吹き返すことがありますが、半日以上経過していれば不可能です。

 

現代医学では死亡後時間経過と共に脳組織の機能が失われ、数時間後の蘇生は回復不能との診断を下しますが、このような事例をどのように科学的に説明するのでしょうか?

 

しかし一途に石田先生を信じた両親に奇跡が起きたのです。ここに世間常識や3次元世界を超えた世界が、実際にあることを認めざるを得ないのです。

 

死児が蘇生した奇跡的事例

 

 信者の岩吉が「もし石田先生はお寄りではありませんか?」と玄関で尋ねると、石田先生は「おお!岩吉さんではないか、この夜半に何か用ができたのか?」との声です。

 

「三つになる子が病気にかかり呼吸をしなくなりましたから、先生を訪ねてまいりました!」。それに対して石田先生は「よくここまで背負って連れてきたな!さあ お上がり」と朝早くから訪ね歩いて、ようやくお会いすることができました。

 

先生がお祓いを上げられて腹に手をあて、*御禁厭(おまじない又はおとりつぎという。黒住教独特の言葉です)をされるうちに腹部が温かくなり「乳々, ちち!」と言葉を出して死児が蘇生しました。

 

なんと驚くことに半日以上も死んだ幼児が息をするようになり、生き返ったのです!あり得ないような誠に有難い霊験です。

 

黒住教ではこのような奇跡を宗忠教祖自身がよく起こされました。そのような事例を逸話に多く見ることができます。科学的に証明は出来なくても霊験は数多く起きます。

 

死児を背負って歩き続けた両親が今度は身体が温かくなり、生き返った我が子を抱いて家に帰り着くことができました。

 

蘇生したシマ女は後に菊沢縁三郎の嫁になり、その輿入れに当り母親イワから渡されたのはご神号でした。母は「お前の嫁入り道具はお粗末だけれど、これだけは尊いお道具だから大事に誇りを持って扱うように!」と渡されました。

 

菊沢縁三郎は以前の明神教会所の長老であると記されています。又母の池内イワは97歳の天寿を全うした篤信者で、群中町一帯の布教に努められた方です。

 

この本は約半世紀前に信者向けに少部数出版されたものです。先日教会に電話しましたら今この本は1冊も残っていないと言われました。

 

黒住教ではごく当たり前にこのような話が各地で伝えられ、おかげという言葉で表現されています。

 

「奇跡は起こそうと思えば起きる」とは不遜な考えですが、活物(いきもの)はこの宇宙に充満しているのでそれを掴まえよ!ということです。それは誠(まこと)の心だけで可能です。

 

面白いのは後に熱心な教えの大布教者になった方々は、最初はすべて教えを邪法、インチキの類と見ていた方々です。

 

なまじっか学問知識があるばかりに嘘の教えと考えており、「正法に不思議なし」と決め込みなかなか尊い教えに耳を傾けません。

 

赤木忠春、岡田敏子、船木敬重の大先輩等すべてそうです。3代所長の石田佐々雄先生すら最初の頃は、ごく普通の一般人と変わらぬ無関心の態度でした。

 

これは現代でも同様の反応が起きると見て間違いないでしょう。それほど天照大御神へ入門するにはハードルが高いという事です。

 

ましては戦後のガリガリの唯物論を教育として叩き込まれた日本人には、夢や幻のような信じられない眉唾話になるでしょう。だから本当に理解出るのは一部の人に限られます。

 

わが身に実際に「おかげ」が降りかかって始めて奇跡の実感というか信仰が出てくるということです。肌身が真底震える奇跡体験をしないと現実に有難さが分からないのです。

 

幕末の船木敬重(よししげ)大教正は大道宣布に半生を捧げられた実業家ですが、お道に入られる当初の頃「お道勤行記(おみちごんぎょうき)」によると「まじないの法は不知なれども、

 

赤木忠春先生より『誠心をもって天照大御神又宗忠神をひたすら祈り、一心の誠の心にてご陽気を吸い込み直ちにご陽気を吹きかければよい』とのことなり」と記載されています。

必ず治る④ 日拝治療法(2)

 

そのため最初はこわごわと 船木敬重翁はおまじないを実行されていますが、すぐ効果が表れて自分でもびっくりされている描写があります。船木敬重翁も大きなおかげを頂き入門されました。

 

ただ黒住教の「学びの友」にはまじないの法はほとんど具体的に記載されておりません。扱いは厳重なる注意が必須と考えられます。

 

神との直接対話に相当することですから絶対に軽々しく扱うことはできません。それなりの心構えが求められます。

 

石田佐吉初代所長(黒住教明神教会)の黒住教における目覚しい働きをいくつかご紹介します。

 

1.6年間の全盲が治る

 

伊予郡北伊予村の相原丈治は眼病を患い医者の治療も効果がなく、益々悪化してしまい朝夜問わず痛みがひどくなり、6年間全くの盲目になってしまいました。

 

当時26歳の妻は知人にすすめられるままに夫の手を引いて,明神教会所の御会日に参加しました。当時の交通事情の悪さから自宅を朝早く出発して、教会に到着したのは夜10時を過ぎていました。

 

参拝者は神前に溢れ足を入れる場所もなく、別の部屋で耳を澄まして石田所長の話を聞いていました。

 

所長のリンリンとした声が聞こえてきて「せめてあのお説教をしていられる石田先生のお顔が見たいものじゃ」とその方へ顔を向けると、

 

開け放しの神前のランプの光が見えてくるようになり、さらに驚いて見つめていると先生のお顔がはっきり視野に入ってきました。

 

夫婦は目が見えるようになって抱き合って喜び、人を押し分けて神前に行きお礼を申しました。そしてその場で、丈治は自ら高座に上がって

 

「この私の目が見えるようになりました…….」と感涙にむせびながら話をすると、満座の人々はどよめきわたり、感激の拍手の響きが谷間にこだましたということです。

 

以来相原丈治の信仰は固く厚くなり、伊予教会所を設立して初代所長となって活物(いきもの)の先生として、その地方一帯において数多くのご神徳のお取次ぎをしました。

 

石田所長の晩年のことです。ある家に招かれ迎えの馬に乗って門を入る際に、頭を打ち落馬して人事不省になったことがあります。

 

その時石田所長は「相原丈治を呼べ!」とうわ言のようにいい、駆け付けた相原丈治のご祈念によって正気に復したとされています。

 

盲目の方が開眼した例は下記のように多くあります。

必ず治る① 赤木忠春高弟 目がみえる!

③ 大いなる奇跡と霊験 見えるようになった! 岡田 敏子

② 大いなる奇跡と霊験 未来の霊的治療法 奥村円左衛門の開眼

幕末の黒住宗忠教祖 宗忠教祖の肖像画は非常に多く伝えられていますが、この肖像画が一番多く使われています。

 

2.目もない骨もない顔の奇形児が治る

 

松本猶二郎の娘は生まれた時から目の形が無く、骨もなく顔色は真っ黒い奇形児でした。

 

そのため両親の悩みは痛ましい限りです。そこで石田先生に御禁厭(おまじない)を願うと、先生は両親の心情を思いやり

 

「目は明朝までに出来て、10日もすれば骨も出来て、顔色も白くなる」とのことでした。果たしてその通りになり、大変な美人となって粟津村に嫁入りしました。

 

3.なくなった陰茎が元に戻る

 

ひどい花柳病(性病)を病んで陰茎の無くなった者が3人いましたが、それを見事に治して元通りになった話があります。

 

「男たちは陰茎がないため、立小便ができず大便の時のような恰好で用を足しておりました。それが元通りになって、

 

本人達は以前よりも立派なモノを頂きましたと言って有難がっています。もちろん本人よりその女房達が一番喜んでおります!」

 

とユーモラスに明るく披露話があって、皆それを聞いて大笑いしたとのことです。

 

4.見放された重症患者が治る

 

金子丈吉という方は脱腸により睾丸が裂けてしまい大便がその裂けた傷口より出るようになってしまいました。それを病院で診てもらっても治しようがなく、医者に見放されておりました。

 

ある日金子宅に招かれた石田先生は、ふさぎ込んでいる丈吉に「30日で治る!」と言い渡しました。同行していた人が「あのひどい病状の丈吉が、本当に30日で治るのですか?」と尋ねると「必ず治るよ!」との返答です。

 

果たして1か月後は全治して歩けるようになり、子供も二人出来て後に金子丈吉一族は神へのお礼として、津島教会所を建て信仰に励みました。

 

5.野津通貫大将のとめ子夫人の頭髪が見事に生える

 

野津大将が広島鎮台長の頃に、とめ子夫人を伴って伊予の道後に来られたことがありました。美しい夫人は禿頭症のため、頭髪が全部抜けてしまいかつらを頭に着けておられたのです。

 

夫人がかつらを取りますと、全く一毛すらない坊主頭です。

 

先生は威儀を正して大祓い3本、御禁厭(おまじない)をすませて「明春の4月6日は安芸の宮島に参ります。宮島でお目に掛かる時は、髪を「ぼたん」に結って御出で下さい。

 

もしその時までに今のかつらのままでしたら、そのかつらと石田の首をお取替え致します」と微笑んで辞去しました。

 

翌月5日夫人から連絡があり「頭にネズミの毛ほどの髪が伸びてきました」という報告です。更に翌年4月6日には約束通り「ぼたん」に結って来られました。

 

しかも以前の赤みのあるちじれ毛ではなく「この通り見事なものです」と神よりいただいた真っ黒い髪に大喜びだったそうです。頭に髪が立派に黒々と生え代っていました。

 

石田佐吉所長について

 

石田佐吉先生が巡回に村を訪れますと、お迎え・見送りに村から村への道筋は、大勢の人で溢れかえるほど盛大でした。

 

巡回先で先生がお風呂に入ると古いふんどしは妊婦の腹帯にお守りとして持っていかれ、代わりに新しいふんどしが置いてありました。

 

「死者が生き返り、らい病が全治した」というような多くの奇蹟に対して、人々が驚き怪しんで世間の問題になったことがあります。

 

警察は石田佐吉を呼び出し「人心を惑わすのは不都合だから、これらの所業を止めよ」と命令しましたが「天照大神の大道を説くことは、死んでも止めることはできぬ!」と応諾しません。

 

そのため未決囚として監禁され、後に大袈裟にしないようにとの注意処分で釈放されたことがあります。

 

他に30年のいざりが一度のおまじないで治ったり、腐った酒が清酒になったりと数限りない高大なるお取次ぎを行いました。

 

石田先生ほど「生き神様」として大勢の人々から親愛と尊敬を受けられた方はおられませんとは、後に土地の人々の皆語る感想でもあります。歴史上明記すべき人物で、語り継がれることと思います。

 

信の落穂集の序文について (昭和25年)

 

この本の出版にあたり石田佐々雄3代所長の序文記載は下記の通りです。

 

「 黒住信東先生から『地方でも逸事を記録してほしい。たとえば愛媛の石田佐吉先生のように数々の奇跡を起こされた事例を残してほしい』とのお言葉がありました。

 

一方当教会所でも菊沢縁三郎氏はじめ教師達から、記録の要望切なるものがあるので、資料の整理に着手したものの当初はなかなか進みませんでした。多くの資料の中から確実性のあるもの、お道の本領に添うものを採り、幾度か打ち合わせを経て精選しました。

 

初代所長は本田應之助先生(高弟赤木忠春の弟子で剣術家)の旺盛な「いき」をうけて、ご神徳の*「お取次ぎ」に身をささげてこられてきましたが、自己の能力を誇る気持ちはさらさらなく謙遜そのものでした。

 

一種の「はやり神さま」(一般社会に見られる霊能者。筆者注)に落ちなかった所以がここにあります。

 

二代所長はその真意を受け継ぎ『袴をつけた先生になるな』『名利にとらわれてはお道はつとまらぬ』と常に同僚後進を戒め、草莽(そうもう)の一信者,一介の門徒を以て自負していました。

 

『人為を去って誠の一筋に徹する』ことが本教会所の伝統であり黒住教の教えです。昭和25年晩秋 」とあります。

 

石田精三郎二代所長の面影

 

石田精三郎二代所長は「 金や位(くらい)が欲しくなったらお道は務まらぬ 」「先生になり果ててはならぬ」と口癖のように言われていたそうです。木綿の着物の尻をからげて歩くのが常でした。

 

大勢の人が迎えに出ているとわざと道を外して先回りされることもありました。二代先生のお元気であられたことはびっくりするほどでした。「一日に30里(120キロ)位歩くことがある」と言っておられたそうです。

 

一日120キロは超人的歩行距離です。知る限り山岡鉄舟という明治初期の剣術の達人が約100キロ歩いて参禅したという記録があります。

 

先生は着物の裾をからげて縄帯でくくられたまま病人の下に行かれ、「明日から痛みも止み、おかげを頂くからの !」と言って治されていました。

 

先生の着物が余りに質素なので、周りの人が「先生の装束をもう少し良いものにしたら如何でしょうか!」と申し上げると「俺が治すのであれば、良い装束でもつけて行かねばなるまいけれど、

 

天照大神が治して下さるのだから俺は木偶坊(でくのぼう)でいい!」と言われていたそうです。

 

下記写真は二代、三代所長です。

 

 

故石田佐々雄三代所長が高齢信者の夢に現れる

 

三代所長の石田佐々雄先生が亡くなられた後に重病の高齢信者の枕元に霊夢で出てこられたことがあります。今生最後のお別れを覚悟された信者がその霊夢により、見事に生き返った話があります。

 

その霊夢とは「故石田先生が重病の信者の枕元にお出でになって煙草を吸っておられました。三本目の煙草に火を点けて一口吸ったら灰皿に置かれ、すぐに私の胸に手を当て撫でて頂きました。

 

そして『石田は死んではいないよ、死んではいないよ!』と言われて、右の手を挙げて二回左右に振られました。

 

先生のこの御声を聴いた瞬間思わず『先生は生きておられる!有難うございます!』と二拍手して拝ませて頂いたのです。

 

その拍手にハッと我に返り目を開け気が付いて見たらそれは夢でした。全くの霊夢でした。その後奇跡的に回復して第二の誕生を迎えさせて頂きました。それからは全く別人のように元気回復して、思えば思うほど有難く不思議なご神徳でした。

 

老年になっても限りはない。老骨に鞭打ってこれから新しい人生の第一歩を踏み出そう。」とあります。

 

何とすごい話ではありませんか!死際の高齢重病人が新しい人生を踏み出すことになる驚嘆すべき霊験です。

 

3代所長の18年間に及ぶ布教期間に、信者がご神徳を頂いた有難いおかげ話は枚挙にいとまもない位数多くあります。

 

石田佐々雄先生は稀に見る清廉潔白な人柄で、他界される時も道の真髄を皆に説教されながら最後にうやうやしくご神水をお飲みになり、

 

昏睡状態になり自若として生を全うされました。まさしく教師の亀鑑であり最高の昇天ぶりでした。

 

石田の一吹きで有名な石田佐吉大先生の孫で、松山市教育課長も務められた愛媛県教育界の長老でもあられました。

 

告別式には国会議員、県会議員、教育界、その他名士その数1000名以上の会葬者が集まり、斎場をうずめつくしたそうです。

 

終戦後の昭和25年春に詠まれた歌一首 

 

すさみゆく くぬち(日本国)の風をよそにして 

山家の春はとこしえの春      佐々雄 

 

なんだか 2024年今の風潮にぴったりですね。

 

hinomotoが黒住教を信頼して多く取り上げているのは、教えが「誠」そのものだからです。全く嘘、虚栄がなく神の心そのものです。又そうでなくてはこのような奇跡は起きないと考えています。

 

近未来の次元上昇世界に備えるため、黒住教はその条件をすべて具備しており感謝の言葉を根本信条としています。

 

現在いろいろなスピリチュアルな世界が相当喧伝されておりますが、やはり神の道に真っすぐな誠を信条にした教えこそ、来るべき新地球の世界にふさわしい教えと思います。

 

天地永遠の教えであり、人類の福音書であり、キリスト教のバイブル、仏教の華厳経,中国古来の老子、バラモン教のウパニシャット又回教のコーランに勝るとも劣らない黒住教の「教書」こそ、宇宙の霊宝と絶賛される未来がやってきます。

 

楽しく生きるが大御神の道、面白きが大御神の教え、徹底した明るい楽天主義です。黒住宗忠教祖はキリストがなさった奇跡は全てなさった方です。

 

山田雅晴先生は「宗忠教祖はキリストの生まれ変わりではないか」と述べておられます。確かにキリストの亡くなった年に天命直受があり、慈悲と愛深い人格、無数の奇跡はキリストそのものです。

 

宗忠教祖の教えは永遠の大生命が極めて一元的に示され、永久不変の教訓そのものです。いずれ全人類が均しくこの教えを讃嘆する時が来ると期待しています。

 

尚 申し上げたいことは、人の命は奇跡的に復活することが多々あります。常識的3次元の考えを超越した神のご加護を信じて、必ず治ると確信して療養すれば苦痛も軽減でき回復もできます。

 

諦めてはなりません。諦めないことが大事です。そして疑わず信じることに徹することです。

 

尚*印のおかげとお取次ぎ等は黒住教に使用されている独自の言い回しであり、一般に使用されている言葉と意味合いがすこし異なります。特に「おまじない」は一般の意味とは全く異なります。

 

宗忠教祖は「まじない」は「まじりない」の意味と言われています。「我、欲、疑い、臆病」といった罪けがれを祓い去って、何も混じってないきれいな心になれば、たちどころに「おかげ」がいただけると仰っています。

 

又宗忠教祖は「まじない」はお取次ぎ(おとりつぎ)、ただご神徳を取り次ぐなり。この方に徳はなけれども、手でもって撫(な)で、さすりて進ぜる時はいかなる大病たりとも即座に治ること、これ道のなすところなりと説かれています。

 

「人の誠と天の誠と が相打てば、金石相きしって火を発す」のように,天地は日の神の誠のいきものが満ち満ちています。そのため人の誠があれば「おかげ」という奇跡が現れます。

 

何事もこころのままに かのう故 

     寝ても覚めても有り難きかな  と宗忠教祖の御歌です。

 

単なるお説教ではなく、私はこのような境地に実際たどり着けるように目指しております。天照大御神のご加護の下に魂の向上に努めましょう。 

 

肉体のあるうちに! 新地球の5次元誕生と共に!

 

自戒の言葉 

腹を立て物を苦にすること 

誠(まこと)の道に入りながら心にまことなき事

 

地上テレビ等を見ると、顔を背けたくなる悲惨な現実に嫌でも触れざるを得ない状況です。自分の意識を感謝行と祓いに絞り天照大御神に全てを任せて、楽しく過ごしたいと目下努力しています。なかなか難しいですが、嬉しく楽しく面白い日々を送れるように祈り努めます。 2024年10月

 

尚 宗教の勧誘は一切しておりません。個人的に黒住宗忠教祖を心から尊敬しているだけです。今の大動乱期は個人の自由選択・自己責任のみです。

 

 

静寂を楽しむ心 

幻の名作  道元禅師坐像

 

Carrying a dead child on his back for more than half a day, he visited Dr. Ishida.

Shima, the second daughter born to Iwa Ikeuchi and Iwakichi, fell ill at the age of 3. Without assistance, her pulse and breathing stopped, and doctors diagnosed her as dead.

It was 5:00 a.m. on April 9, 1882. Relatives were making arrangements for her burial. (Honorifics omitted in the text.)

Ikeuchi’s parents, who had always had deep faith in Oyasama and adored Sakichi Ishida (the first director, who was known as Ishida’s one blow and had saved many lives), received “OKAGE” (miracle) from Dr. Ishida,

In order to save the life of their dead child, the mother, Iwa, left home with her husband, Iwakichi, to visit Dr. Ishida with the cold child on her back.

Carrying the dead child on their backs, they walked on foot along mountain roads from Sakamoto Village to Ishii Village on the Misaka Pass in search of Dr. Ishida in the inconvenient Meiji Era

and finally found the doctor they sought at the home of a man named Asayama in Matsuyama City.

It was already night when I was able to meet Dr. Ishida. Imagine, dear readers, that the time of the child’s death was written at 5:00 a.m.

It says that the child died at 5:00 a.m., so it was night when he was able to meet Dr. Sakichi Ishida after carrying the dead child on his back for more than 40 kilograms. More than 12 hours had already passed since the child’s death.

Is it conceivable that the dead child could come back to life? Even in this day and age of advanced modern medicine, it is inconceivable.

If it is immediately after death, artificial respiration may bring it back to life, but if more than half a day has passed, it is impossible.

Modern medicine diagnoses that the brain tissue loses function over time after death and that resuscitation after a few hours is irreversible, but how do you explain such a case scientifically?

However, a miracle happened to my parents who believed in Dr. Ishida single-mindedly.

Here, we have to admit that there is indeed a world beyond the common sense and the three-dimensional world.

Miraculous case of a dead child being resuscitated

When Iwakichi, a believer, asked at the door, “Is Ishida Sensei around?” at the entrance.

Dr. Ishida replied, “Oh, it’s Mr. Iwakichi, isn’t it? Isn’t that Mr. Iwakichi, what can I do for you this midnight?”

I’ve come to visit you because my three-year-old child is ill and no longer breathes! I have come to visit the doctor!

In response, Dr. Ishida said, “I’m surprised you carried him all the way here on your back! Come on, get up!”

He began his visit early in the morning, and we were finally able to meet him.

The teacher performed a purification ceremony, placed his hands on his stomach, and performed Otoritsugi (a word unique to the Kurozumi-kyo sect).

As he did this, her abdomen became warm and She let out the words, “Milky, baby, baby! The dead infant was resuscitated.

Amazingly, the infant, who had been dead for more than half a day, began to breathe and came back to life! This is a truly wonderful experience that would have been impossible.

In Kurojumi-kyo, such miracles were often performed by  Oyasama . We can see many such cases in anecdotes. Even if it cannot be proven scientifically, there are many spiritual experiences.

Parents who had been walking with their dead children on their backs now became warm and were able to return home with their revived children in their arms.

The revived Shima later became the bride of Kikuzawa Enzaburo, and her mother, Iwa, gave her a sacred title as she carried him in her arms.

She gave it  her, saying, “Your wedding present is lousy, but this is a precious tool and you should treat it with care and pride! She gave it her.

Kikuzawa Enzaburo is described as an elder of the former Myojin Church. Her mother, Iwa Ikeuchi, who lived to be 97 years old, was a pious believer who worked as a missionary in the Gunaka area.

This book was published in a small number for believers about half a century ago. When I called the church the other day, I was told that there are no copies of this book left.

In Kurozumi-kyo, it is commonplace to hear such stories passed down from place to place, and they are expressed with the word ” OKAGE (thanks).”

It is an irreverent idea to say, “Miracles happen when you want them to happen,” but the idea is that the universe is full of living things, and we should seize them! It means, “Seize it! It is possible only with a sincere heart.

It is interesting to note that those who later became great propagators of the teachings were all those who at first viewed the teachings as evil or bogus.

They thought that the teachings were false because of their academic knowledge, and they were reluctant to listen to the precious teachings because they assumed that “there is no mystery in the true law.

Even the third director, Sasao Ishida, was as indifferent as an ordinary person in his early days.

I have no doubt that a similar reaction would occur even today. That is how high the hurdle is to be initiated into Amaterasu.

It is only when “thanks” actually fall on our bodies that we can feel the miracle or have faith in it.

Unless you have a miraculous experience that shakes you to the core, you will not be able to understand how grateful you are in reality.

Translated with DeepL.com 

⑦大いなる奇跡と霊験 ハンセン病の奇跡 言霊療法

 

 

 

言霊療法 ハンセン病が治る

 

言霊療法は今の科学万能主義からは、受け入れられない迷信の類と思われています。

 

言葉だけ信じて治る訳がないし、正しい診察も薬も使用しないで完治するはずがないとの見方が一般的です。

 

従って根本的に言霊療法を否定する人には、残念ながらその効果は全く現れないと思われます。 その理由は信じること或いは信じ切ることが、根底になければ快方に向かわないという原則があるからです。

 

その信じ切ることの大事な例が、黒住宗忠教祖の話の中にあります。

 

備前藩士で高禄家柄の人が、難病のハンセン病にかかり顔にも症状が出てきました。かねてのうわさの高い宗忠教祖のところへお参りして治してもらおうと伺いました。

 

教祖は「ご心配ありません。よくなります。しかしながら治るには、有難いということが、最も大事です。まず一日に百回づつ7日間『ありがたい、ありがたい』と心を込めて唱えてください」と仰せられました。

 

その人はそれなら簡単だと思われて、さっそく100回づつ実行しました。そして教祖に実行したことを申し上げると「では、日に1000回づつ唱えてください」と言われました。その方は一日1000回づつ7日間唱えたということです。

 

しかし病状は一向に良くなりません。そのことを申し上げると「一日1万回づつ唱えてください。必ず治りますから!」と力強く仰せられました。

 

その方は素直で純粋な方でしたから、その言葉を信じて毎日1万回づつ唱えて、ちょうど7日目に にわかに熱が出て激しく吐血して倒れこむように、寝込んでしまったということです。

 

久しぶりに全てを忘れて熟睡して目が覚めると気分もよく、なんと顔や手足のハンセン病特有の症状がきれいさっぱり取れて治っていました。

 

この人はそれ以来熱心にお道を信じて生涯2,7日(月に2と7のつく日)の御会日は一回も欠かさず参拝されたということです。

 

この話は愚直に治ることを信じて言われた通り「有難い」の言葉を言い続けることを、やり通したことで難病のハンセン病が治ったということです。

 

「有難い」の言霊はこの言葉自体の持つ高い波動が、人知を超えた奇跡をもたらしたものと言えます。

 

治った理由は ①治りたいという本人の切なる願い ②宗忠教祖への全幅の信頼 ③「ありがたい」の言霊の持つ力が、相互に作用して難病全快に導いています。

 

見えざる力の発動で、あらゆる理屈を超越した力です。「必ず治る」ことの理由を強調したい点です。

 

必ず治る① 赤木忠春高弟 目がみえる!

 

言霊の波動

 

周波数の高い言葉、言霊の持つ本来の力と本人の熱意のなせる技でしょうか。宗教的なことはよく分からなくてもただ有難い、有難いと心の中で念じていれば幸せが訪れると、宗忠教祖も太鼓判を押しておられます。

 

小生自身も感謝行を行っており、ある事が叶った経験が最近あります。このような経験は生まれて始めてのことで一種の奇跡でした。全然考えもしなかった事が突然現実に現れるのにはびっくりでした。

 

もっとも自分のこんな些細な経験より、霊的に大きな学びをしっかり経験すべきなのでしょう。しかし率直にうれしい出来事でした。

 

一遍上人や妙好人達がひたすら「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ」或いは「なんまんだぶ、なんまんだぶ」と唱えれば、極楽浄土は間違いなしと伝えられていることと同じかもしれません。

 

我々ご先祖は奈良時代から現代まで歴史的に遡り累計にして数千万の人々が、この南無阿弥陀仏の6文字を唱えることでどれだけ救われてきたことか!

 

穢多、非人、娼婦、身売り人、犯罪者等、阿弥陀様の救いの光は、彼らに等しく慈悲をお恵み下されたのです。

 

言霊(ことだま)の持つ偉大な力を、改めて考える時期が今来ていると思います。

 

 

言霊療法において基本的な心の持ち方について大事な教えがあります。

 

生きがい療法

 

がん患者に対して生きがい療法を行っている病院では、がん患者が富士山やモンブランなどに登頂してマスコミでも話題になりました。

 

患者が死ぬ前に是非とも実現させたいとの思いを、周りがサポートして登山を実現させたのです。その生きがい療法の第一に挙げられるのは、自分が自分の主治医となってがんと闘う積極的な前向きの気持ちのことです。

 

自分が自分の主治医となる意味は、自らの自然治癒力を十分に生かすことにあります。すべてを医者や薬任せではなく、自分で自分の病気は治すという明確な意思を持つことです。

 

そのことは今日の今を生きて生きられることへの感謝を、忘れずに生きることではないかと思います。

 

次に今やりたいことを積極的に実行に移すことです。富士山を目指すこともモンブラン登山もその手段・対象です。死ぬ間際になって後悔しても、実行に移すことはできません。

 

病気に負けるな!

 

宗忠教祖の病治しには奇跡的な話が多く登場してきますが、すべて奇跡的に治された訳ではありません。

 

尾形長次郎という後に黒住教の指導者として、活躍された方の話を紹介します。この方は時尾高弟と共に播州姫路方面の布教に、努力された功労者です。若い時分に肺結核に罹り、治る見込みも立たないまでに悪化されました。

 

ある日庭先の床几に腰を掛けて休んでいますと前の道を通る人びとが上中野へ参るといって、病気の治ることなど話をしています。

 

ふと老人が通りかかって「あんたも一緒にいってみないか」と親切にすすめてくれましたので、これもなにかのご神縁と思い重い症状でしたが、初めて御会日に参加されたのです。

 

教祖のお説教を聞いてその場で治る病人の有難い光景を見るにつけ会日ごとに勇気づけられて、まる一年は熱心に参加されました。

 

しかしどうにも病気の方はいっこう回復の目途が立ちません。そのためある御会日の終わるのを待って、沈痛な面持ちで教祖にお別れのご挨拶をされたのです。

 

その別れの挨拶をじっと聞いておられた教祖は、やがておもむろに口を開かれました。「尾形さん!あなたは病気に負けておられはせんですか!」とただ一言はっきり仰せになりました。

 

するとそれを聞いて、尾形さんは「一瞬何かしら雷のようなものが、頭の芯から腹の底まで貫かれたと感じると共に、不思議に心身がきれいさっぱりと清められた感じがした」といいます。

 

それから帰り道に足取りも軽く「そうか、やっぱり病に自分は負けておったんだな!教祖様のお話は頭でわかったつもりでも、

 

本当に分かっていなかったな!」と反省されて気持も新たになりますと病気のことなど忘れてしまいました。すると、次第に病気も治っていきやがて全快されたということです。

 

その後尾形長次郎先生は、お道の為ご指導に長く尽くされた方です。

 

「病気に負けるものか!」という心の強さを持つことを教えられた話です。「病気に負けるものか!」も結局は病気に向かって、ポジティブに生きることに尽きます。

 

 

静寂を楽しむ心

道元禅師坐像

 

 

 

 

 

 

 

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