• 太陽の恵み
日の出に向かい思い切り御陽気を腹いっぱい吸ってお祈りします。この地球に生かせていただく幸せを伏して感謝いたします。

 

3才の死児が蘇生した話 信 (まこと)の落穂集より

 

今まで蘇生の例をいくつか挙げてきましたが、今回は「信 の落穂集」より3才の死児の蘇生の例をご案内します。目に見えない世界を理解し思考するには貴重な実例です。

 

黒住教明神教会の「信の落穂集」から転載します。この本は昭和42年9月発行で、2代と3代所長を追加しての重版です。初版は昭和25年です。

 

初代所長石田佐吉、2代所長石田精三郎、3代所長石田佐々雄(敬称略)にわたる黒住教の奇跡的病気治療を始めとしてさまざまな話が記載されています。

 

現在、世界中を見渡しても石田佐吉先生ほどの力量の方を探すのはかなり困難と思われます。それほど卓越した稀有な人です。

 

初代の石田所長は「石田の一吹き」と言われ、信者の数多くの病を治されてこられた有名な方です。又孝養と慈愛を尽くされ、郷党の人から一心に敬意を受けられた偉人でした。

 

初代の石田佐吉先生

本そのものは小冊子の104頁ですが、序文に「この本の表紙の【信】なる文字は、西晋一郎先生(元広島大学名誉教授)の書かれたものです」とあります。尚西晋一郎先生は太平洋(大東亜)戦争の敗戦受諾に尽くされた高名な学者です。

 

hinomotoの父が若い頃この西晋一郎先生を崇拝して、先生の「晋一」の字を取り私の名前にしたと聞いていました。偶然この本を思いがけず発見し、自分の名前の由来を思い出してなにかご縁を感じる次第です。この本の表紙に鮮やかに信の一文字が印刷されています。

 

後に(2024年夏)西晋一郎先生の昔の写真が、何故か私の前に急に出てきました。半世紀前に亡くなった父親が若い頃写した写真でした。

死児を半日以上背負い、石田先生を訪ね歩く

 

池内イワと岩吉の間に生まれた二女シマは3才の時に病気にかかり、介助のかいなく脈、呼吸が絶えて医者も死亡と診断しました。明治15年4月9日午前5時のことです。親戚は埋葬の段取りを考えていたそうです。(文中の敬称略)

 

常に宗忠教祖を深く信仰し、又石田佐吉(石田の一吹きと言われ数多くの人の命を救ってきた初代所長)を慕ってきた池内の両親は石田先生から*「おかげ」( 奇跡 )をいただき、

 

死んだ子供の命を助けようと母のイワは冷たくなっている子供を背にして、夫の岩吉と共に石田所長を尋ねて家を出ました。

 

死児を背負い交通の不便な明治時代に、山道を徒歩で石田先生を探しに三坂峠の坂本村から石井村へ訪ね歩いた結果、探し求める先生は松山市の浅山という人の家にいることがやっとわかりました。

 

そして石田先生に会えたのはもう夜でした。読者の皆様想像してください。

 

子供の死亡時刻が午前5時と書いてありますから、死児を40キロ余り背負い歩いて石田佐吉先生に会えたのは夜です。すでに死亡後約12時間以上も経過しているのです。

 

その死亡した子が生き返る可能性が考えられますか? 現代医学の進んだ今の時代でも到底考えられないことです。

 

死亡直後であれば人工呼吸で息を吹き返すことがありますが、半日以上経過していれば不可能です。

 

現代医学では死亡後時間経過と共に脳組織の機能が失われ、数時間後の蘇生は回復不能との診断を下しますが、このような事例をどのように科学的に説明するのでしょうか?

 

しかし一途に石田先生を信じた両親に奇跡が起きたのです。ここに世間常識や3次元世界を超えた世界が、実際にあることを認めざるを得ないのです。

 

死児が蘇生した奇跡的事例

 

 信者の岩吉が「もし石田先生はお寄りではありませんか?」と玄関で尋ねると、石田先生は「おお!岩吉さんではないか、この夜半に何か用ができたのか?」との声です。

 

「三つになる子が病気にかかり呼吸をしなくなりましたから、先生を訪ねてまいりました!」。それに対して石田先生は「よくここまで背負って連れてきたな!さあ お上がり」と朝早くから訪ね歩いて、ようやくお会いすることができました。

 

先生がお祓いを上げられて腹に手をあて、*御禁厭(おまじない又はおとりつぎという。黒住教独特の言葉です)をされるうちに腹部が温かくなり「乳々, ちち!」と言葉を出して死児が蘇生しました。

 

なんと驚くことに半日以上も死んだ幼児が息をするようになり、生き返ったのです!あり得ないような誠に有難い霊験です。

 

黒住教ではこのような奇跡を宗忠教祖自身がよく起こされました。そのような事例を逸話に多く見ることができます。科学的に証明は出来なくても霊験は数多く起きます。

 

死児を背負って歩き続けた両親が今度は身体が温かくなり、生き返った我が子を抱いて家に帰り着くことができました。

 

蘇生したシマ女は後に菊沢縁三郎の嫁になり、その輿入れに当り母親イワから渡されたのはご神号でした。母は「お前の嫁入り道具はお粗末だけれど、これだけは尊いお道具だから大事に誇りを持って扱うように!」と渡されました。

 

菊沢縁三郎は以前の明神教会所の長老であると記されています。又母の池内イワは97歳の天寿を全うした篤信者で、群中町一帯の布教に努められた方です。

 

この本は約半世紀前に信者向けに少部数出版されたものです。先日教会に電話しましたら今この本は1冊も残っていないと言われました。

 

黒住教ではごく当たり前にこのような話が各地で伝えられ、おかげという言葉で表現されています。

 

「奇跡は起こそうと思えば起きる」とは不遜な考えですが、活物(いきもの)はこの宇宙に充満しているのでそれを掴まえよ!ということです。それは誠(まこと)の心だけで可能です。

 

面白いのは後に熱心な教えの大布教者になった方々は、最初はすべて教えを邪法、インチキの類と見ていた方々です。

 

なまじっか学問知識があるばかりに嘘の教えと考えており、「正法に不思議なし」と決め込みなかなか尊い教えに耳を傾けません。

 

赤木忠春、岡田敏子、船木敬重の大先輩等すべてそうです。3代所長の石田佐々雄先生すら最初の頃は、ごく普通の一般人と変わらぬ無関心の態度でした。

 

これは現代でも同様の反応が起きると見て間違いないでしょう。それほど天照大御神へ入門するにはハードルが高いという事です。

 

ましては戦後のガリガリの唯物論を教育として叩き込まれた日本人には、夢や幻のような信じられない眉唾話になるでしょう。だから本当に理解出るのは一部の人に限られます。

 

わが身に実際に「おかげ」が降りかかって始めて奇跡の実感というか信仰が出てくるということです。肌身が真底震える奇跡体験をしないと現実に有難さが分からないのです。

 

幕末の船木敬重(よししげ)大教正は大道宣布に半生を捧げられた実業家ですが、お道に入られる当初の頃「お道勤行記(おみちごんぎょうき)」によると「まじないの法は不知なれども、

 

赤木忠春先生より『誠心をもって天照大御神又宗忠神をひたすら祈り、一心の誠の心にてご陽気を吸い込み直ちにご陽気を吹きかければよい』とのことなり」と記載されています。

必ず治る④ 日拝治療法(2)

 

そのため最初はこわごわと 船木敬重翁はおまじないを実行されていますが、すぐ効果が表れて自分でもびっくりされている描写があります。船木敬重翁も大きなおかげを頂き入門されました。

 

ただ黒住教の「学びの友」にはまじないの法はほとんど具体的に記載されておりません。扱いは厳重なる注意が必須と考えられます。

 

神との直接対話に相当することですから絶対に軽々しく扱うことはできません。それなりの心構えが求められます。

 

石田佐吉初代所長(黒住教明神教会)の黒住教における目覚しい働きをいくつかご紹介します。

 

1.6年間の全盲が治る

 

伊予郡北伊予村の相原丈治は眼病を患い医者の治療も効果がなく、益々悪化してしまい朝夜問わず痛みがひどくなり、6年間全くの盲目になってしまいました。

 

当時26歳の妻は知人にすすめられるままに夫の手を引いて,明神教会所の御会日に参加しました。当時の交通事情の悪さから自宅を朝早く出発して、教会に到着したのは夜10時を過ぎていました。

 

参拝者は神前に溢れ足を入れる場所もなく、別の部屋で耳を澄まして石田所長の話を聞いていました。

 

所長のリンリンとした声が聞こえてきて「せめてあのお説教をしていられる石田先生のお顔が見たいものじゃ」とその方へ顔を向けると、

 

開け放しの神前のランプの光が見えてくるようになり、さらに驚いて見つめていると先生のお顔がはっきり視野に入ってきました。

 

夫婦は目が見えるようになって抱き合って喜び、人を押し分けて神前に行きお礼を申しました。そしてその場で、丈治は自ら高座に上がって

 

「この私の目が見えるようになりました…….」と感涙にむせびながら話をすると、満座の人々はどよめきわたり、感激の拍手の響きが谷間にこだましたということです。

 

以来相原丈治の信仰は固く厚くなり、伊予教会所を設立して初代所長となって活物(いきもの)の先生として、その地方一帯において数多くのご神徳のお取次ぎをしました。

 

石田所長の晩年のことです。ある家に招かれ迎えの馬に乗って門を入る際に、頭を打ち落馬して人事不省になったことがあります。

 

その時石田所長は「相原丈治を呼べ!」とうわ言のようにいい、駆け付けた相原丈治のご祈念によって正気に復したとされています。

 

盲目の方が開眼した例は下記のように多くあります。

必ず治る① 赤木忠春高弟 目がみえる!

③ 大いなる奇跡と霊験 見えるようになった! 岡田 敏子

② 大いなる奇跡と霊験 未来の霊的治療法 奥村円左衛門の開眼

幕末の黒住宗忠教祖 宗忠教祖の肖像画は非常に多く伝えられていますが、この肖像画が一番多く使われています。

 

2.目もない骨もない顔の奇形児が治る

 

松本猶二郎の娘は生まれた時から目の形が無く、骨もなく顔色は真っ黒い奇形児でした。

 

そのため両親の悩みは痛ましい限りです。そこで石田先生に御禁厭(おまじない)を願うと、先生は両親の心情を思いやり

 

「目は明朝までに出来て、10日もすれば骨も出来て、顔色も白くなる」とのことでした。果たしてその通りになり、大変な美人となって粟津村に嫁入りしました。

 

3.なくなった陰茎が元に戻る

 

ひどい花柳病(性病)を病んで陰茎の無くなった者が3人いましたが、それを見事に治して元通りになった話があります。

 

「男たちは陰茎がないため、立小便ができず大便の時のような恰好で用を足しておりました。それが元通りになって、

 

本人達は以前よりも立派なモノを頂きましたと言って有難がっています。もちろん本人よりその女房達が一番喜んでおります!」

 

とユーモラスに明るく披露話があって、皆それを聞いて大笑いしたとのことです。

 

4.見放された重症患者が治る

 

金子丈吉という方は脱腸により睾丸が裂けてしまい大便がその裂けた傷口より出るようになってしまいました。それを病院で診てもらっても治しようがなく、医者に見放されておりました。

 

ある日金子宅に招かれた石田先生は、ふさぎ込んでいる丈吉に「30日で治る!」と言い渡しました。同行していた人が「あのひどい病状の丈吉が、本当に30日で治るのですか?」と尋ねると「必ず治るよ!」との返答です。

 

果たして1か月後は全治して歩けるようになり、子供も二人出来て後に金子丈吉一族は神へのお礼として、津島教会所を建て信仰に励みました。

 

5.野津通貫大将のとめ子夫人の頭髪が見事に生える

 

野津大将が広島鎮台長の頃に、とめ子夫人を伴って伊予の道後に来られたことがありました。美しい夫人は禿頭症のため、頭髪が全部抜けてしまいかつらを頭に着けておられたのです。

 

夫人がかつらを取りますと、全く一毛すらない坊主頭です。

 

先生は威儀を正して大祓い3本、御禁厭(おまじない)をすませて「明春の4月6日は安芸の宮島に参ります。宮島でお目に掛かる時は、髪を「ぼたん」に結って御出で下さい。

 

もしその時までに今のかつらのままでしたら、そのかつらと石田の首をお取替え致します」と微笑んで辞去しました。

 

翌月5日夫人から連絡があり「頭にネズミの毛ほどの髪が伸びてきました」という報告です。更に翌年4月6日には約束通り「ぼたん」に結って来られました。

 

しかも以前の赤みのあるちじれ毛ではなく「この通り見事なものです」と神よりいただいた真っ黒い髪に大喜びだったそうです。頭に髪が立派に黒々と生え代っていました。

 

石田佐吉所長について

 

石田佐吉先生が巡回に村を訪れますと、お迎え・見送りに村から村への道筋は、大勢の人で溢れかえるほど盛大でした。

 

巡回先で先生がお風呂に入ると古いふんどしは妊婦の腹帯にお守りとして持っていかれ、代わりに新しいふんどしが置いてありました。

 

「死者が生き返り、らい病が全治した」というような多くの奇蹟に対して、人々が驚き怪しんで世間の問題になったことがあります。

 

警察は石田佐吉を呼び出し「人心を惑わすのは不都合だから、これらの所業を止めよ」と命令しましたが「天照大神の大道を説くことは、死んでも止めることはできぬ!」と応諾しません。

 

そのため未決囚として監禁され、後に大袈裟にしないようにとの注意処分で釈放されたことがあります。

 

他に30年のいざりが一度のおまじないで治ったり、腐った酒が清酒になったりと数限りない高大なるお取次ぎを行いました。

 

石田先生ほど「生き神様」として大勢の人々から親愛と尊敬を受けられた方はおられませんとは、後に土地の人々の皆語る感想でもあります。歴史上明記すべき人物で、語り継がれることと思います。

 

信の落穂集の序文について (昭和25年)

 

この本の出版にあたり石田佐々雄3代所長の序文記載は下記の通りです。

 

「 黒住信東先生から『地方でも逸事を記録してほしい。たとえば愛媛の石田佐吉先生のように数々の奇跡を起こされた事例を残してほしい』とのお言葉がありました。

 

一方当教会所でも菊沢縁三郎氏はじめ教師達から、記録の要望切なるものがあるので、資料の整理に着手したものの当初はなかなか進みませんでした。多くの資料の中から確実性のあるもの、お道の本領に添うものを採り、幾度か打ち合わせを経て精選しました。

 

初代所長は本田應之助先生(高弟赤木忠春の弟子で剣術家)の旺盛な「いき」をうけて、ご神徳の*「お取次ぎ」に身をささげてこられてきましたが、自己の能力を誇る気持ちはさらさらなく謙遜そのものでした。

 

一種の「はやり神さま」(一般社会に見られる霊能者。筆者注)に落ちなかった所以がここにあります。

 

二代所長はその真意を受け継ぎ『袴をつけた先生になるな』『名利にとらわれてはお道はつとまらぬ』と常に同僚後進を戒め、草莽(そうもう)の一信者,一介の門徒を以て自負していました。

 

『人為を去って誠の一筋に徹する』ことが本教会所の伝統であり黒住教の教えです。昭和25年晩秋 」とあります。

 

石田精三郎二代所長の面影

 

石田精三郎二代所長は「 金や位(くらい)が欲しくなったらお道は務まらぬ 」「先生になり果ててはならぬ」と口癖のように言われていたそうです。木綿の着物の尻をからげて歩くのが常でした。

 

大勢の人が迎えに出ているとわざと道を外して先回りされることもありました。二代先生のお元気であられたことはびっくりするほどでした。「一日に30里(120キロ)位歩くことがある」と言っておられたそうです。

 

一日120キロは超人的歩行距離です。知る限り山岡鉄舟という明治初期の剣術の達人が約100キロ歩いて参禅したという記録があります。

 

先生は着物の裾をからげて縄帯でくくられたまま病人の下に行かれ、「明日から痛みも止み、おかげを頂くからの !」と言って治されていました。

 

先生の着物が余りに質素なので、周りの人が「先生の装束をもう少し良いものにしたら如何でしょうか!」と申し上げると「俺が治すのであれば、良い装束でもつけて行かねばなるまいけれど、

 

天照大神が治して下さるのだから俺は木偶坊(でくのぼう)でいい!」と言われていたそうです。

 

下記写真は二代、三代所長です。

 

 

故石田佐々雄三代所長が高齢信者の夢に現れる

 

三代所長の石田佐々雄先生が亡くなられた後に重病の高齢信者の枕元に霊夢で出てこられたことがあります。今生最後のお別れを覚悟された信者がその霊夢により、見事に生き返った話があります。

 

その霊夢とは「故石田先生が重病の信者の枕元にお出でになって煙草を吸っておられました。三本目の煙草に火を点けて一口吸ったら灰皿に置かれ、すぐに私の胸に手を当て撫でて頂きました。

 

そして『石田は死んではいないよ、死んではいないよ!』と言われて、右の手を挙げて二回左右に振られました。

 

先生のこの御声を聴いた瞬間思わず『先生は生きておられる!有難うございます!』と二拍手して拝ませて頂いたのです。

 

その拍手にハッと我に返り目を開け気が付いて見たらそれは夢でした。全くの霊夢でした。その後奇跡的に回復して第二の誕生を迎えさせて頂きました。それからは全く別人のように元気回復して、思えば思うほど有難く不思議なご神徳でした。

 

老年になっても限りはない。老骨に鞭打ってこれから新しい人生の第一歩を踏み出そう。」とあります。

 

何とすごい話ではありませんか!死際の高齢重病人が新しい人生を踏み出すことになる驚嘆すべき霊験です。

 

3代所長の18年間に及ぶ布教期間に、信者がご神徳を頂いた有難いおかげ話は枚挙にいとまもない位数多くあります。

 

石田佐々雄先生は稀に見る清廉潔白な人柄で、他界される時も道の真髄を皆に説教されながら最後にうやうやしくご神水をお飲みになり、

 

昏睡状態になり自若として生を全うされました。まさしく教師の亀鑑であり最高の昇天ぶりでした。

 

石田の一吹きで有名な石田佐吉大先生の孫で、松山市教育課長も務められた愛媛県教育界の長老でもあられました。

 

告別式には国会議員、県会議員、教育界、その他名士その数1000名以上の会葬者が集まり、斎場をうずめつくしたそうです。

 

終戦後の昭和25年春に詠まれた歌一首 

 

すさみゆく くぬち(日本国)の風をよそにして 

山家の春はとこしえの春      佐々雄 

 

なんだか 2024年今の風潮にぴったりですね。

 

hinomotoが黒住教を信頼して多く取り上げているのは、教えが「誠」そのものだからです。全く嘘、虚栄がなく神の心そのものです。又そうでなくてはこのような奇跡は起きないと考えています。

 

近未来の次元上昇世界に備えるため、黒住教はその条件をすべて具備しており感謝の言葉を根本信条としています。

 

現在いろいろなスピリチュアルな世界が相当喧伝されておりますが、やはり神の道に真っすぐな誠を信条にした教えこそ、来るべき新地球の世界にふさわしい教えと思います。

 

天地永遠の教えであり、人類の福音書であり、キリスト教のバイブル、仏教の華厳経,中国古来の老子、バラモン教のウパニシャット又回教のコーランに勝るとも劣らない黒住教の「教書」こそ、宇宙の霊宝と絶賛される未来がやってきます。

 

楽しく生きるが大御神の道、面白きが大御神の教え、徹底した明るい楽天主義です。黒住宗忠教祖はキリストがなさった奇跡は全てなさった方です。

 

山田雅晴先生は「宗忠教祖はキリストの生まれ変わりではないか」と述べておられます。確かにキリストの亡くなった年に天命直受があり、慈悲と愛深い人格、無数の奇跡はキリストそのものです。

 

宗忠教祖の教えは永遠の大生命が極めて一元的に示され、永久不変の教訓そのものです。いずれ全人類が均しくこの教えを讃嘆する時が来ると期待しています。

 

尚 申し上げたいことは、人の命は奇跡的に復活することが多々あります。常識的3次元の考えを超越した神のご加護を信じて、必ず治ると確信して療養すれば苦痛も軽減でき回復もできます。

 

諦めてはなりません。諦めないことが大事です。そして疑わず信じることに徹することです。

 

尚*印のおかげとお取次ぎ等は黒住教に使用されている独自の言い回しであり、一般に使用されている言葉と意味合いがすこし異なります。特に「おまじない」は一般の意味とは全く異なります。

 

宗忠教祖は「まじない」は「まじりない」の意味と言われています。「我、欲、疑い、臆病」といった罪けがれを祓い去って、何も混じってないきれいな心になれば、たちどころに「おかげ」がいただけると仰っています。

 

又宗忠教祖は「まじない」はお取次ぎ(おとりつぎ)、ただご神徳を取り次ぐなり。この方に徳はなけれども、手でもって撫(な)で、さすりて進ぜる時はいかなる大病たりとも即座に治ること、これ道のなすところなりと説かれています。

 

「人の誠と天の誠と が相打てば、金石相きしって火を発す」のように,天地は日の神の誠のいきものが満ち満ちています。そのため人の誠があれば「おかげ」という奇跡が現れます。

 

何事もこころのままに かのう故 

     寝ても覚めても有り難きかな  と宗忠教祖の御歌です。

 

単なるお説教ではなく、私はこのような境地に実際たどり着けるように目指しております。天照大御神のご加護の下に魂の向上に努めましょう。 

 

肉体のあるうちに! 新地球の5次元誕生と共に!

 

自戒の言葉 

腹を立て物を苦にすること 

誠(まこと)の道に入りながら心にまことなき事

 

地上テレビ等を見ると、顔を背けたくなる悲惨な現実に嫌でも触れざるを得ない状況です。自分の意識を感謝行と祓いに絞り天照大御神に全てを任せて、楽しく過ごしたいと目下努力しています。なかなか難しいですが、嬉しく楽しく面白い日々を送れるように祈り努めます。 2024年10月

 

尚 宗教の勧誘は一切しておりません。個人的に黒住宗忠教祖を心から尊敬しているだけです。今の大動乱期は個人の自由選択・自己責任のみです。

 

 

静寂を楽しむ心 

幻の名作  道元禅師坐像

 

Carrying a dead child on his back for more than half a day, he visited Dr. Ishida.

Shima, the second daughter born to Iwa Ikeuchi and Iwakichi, fell ill at the age of 3. Without assistance, her pulse and breathing stopped, and doctors diagnosed her as dead.

It was 5:00 a.m. on April 9, 1882. Relatives were making arrangements for her burial. (Honorifics omitted in the text.)

Ikeuchi’s parents, who had always had deep faith in Oyasama and adored Sakichi Ishida (the first director, who was known as Ishida’s one blow and had saved many lives), received “OKAGE” (miracle) from Dr. Ishida,

In order to save the life of their dead child, the mother, Iwa, left home with her husband, Iwakichi, to visit Dr. Ishida with the cold child on her back.

Carrying the dead child on their backs, they walked on foot along mountain roads from Sakamoto Village to Ishii Village on the Misaka Pass in search of Dr. Ishida in the inconvenient Meiji Era

and finally found the doctor they sought at the home of a man named Asayama in Matsuyama City.

It was already night when I was able to meet Dr. Ishida. Imagine, dear readers, that the time of the child’s death was written at 5:00 a.m.

It says that the child died at 5:00 a.m., so it was night when he was able to meet Dr. Sakichi Ishida after carrying the dead child on his back for more than 40 kilograms. More than 12 hours had already passed since the child’s death.

Is it conceivable that the dead child could come back to life? Even in this day and age of advanced modern medicine, it is inconceivable.

If it is immediately after death, artificial respiration may bring it back to life, but if more than half a day has passed, it is impossible.

Modern medicine diagnoses that the brain tissue loses function over time after death and that resuscitation after a few hours is irreversible, but how do you explain such a case scientifically?

However, a miracle happened to my parents who believed in Dr. Ishida single-mindedly.

Here, we have to admit that there is indeed a world beyond the common sense and the three-dimensional world.

Miraculous case of a dead child being resuscitated

When Iwakichi, a believer, asked at the door, “Is Ishida Sensei around?” at the entrance.

Dr. Ishida replied, “Oh, it’s Mr. Iwakichi, isn’t it? Isn’t that Mr. Iwakichi, what can I do for you this midnight?”

I’ve come to visit you because my three-year-old child is ill and no longer breathes! I have come to visit the doctor!

In response, Dr. Ishida said, “I’m surprised you carried him all the way here on your back! Come on, get up!”

He began his visit early in the morning, and we were finally able to meet him.

The teacher performed a purification ceremony, placed his hands on his stomach, and performed Otoritsugi (a word unique to the Kurozumi-kyo sect).

As he did this, her abdomen became warm and She let out the words, “Milky, baby, baby! The dead infant was resuscitated.

Amazingly, the infant, who had been dead for more than half a day, began to breathe and came back to life! This is a truly wonderful experience that would have been impossible.

In Kurojumi-kyo, such miracles were often performed by  Oyasama . We can see many such cases in anecdotes. Even if it cannot be proven scientifically, there are many spiritual experiences.

Parents who had been walking with their dead children on their backs now became warm and were able to return home with their revived children in their arms.

The revived Shima later became the bride of Kikuzawa Enzaburo, and her mother, Iwa, gave her a sacred title as she carried him in her arms.

She gave it  her, saying, “Your wedding present is lousy, but this is a precious tool and you should treat it with care and pride! She gave it her.

Kikuzawa Enzaburo is described as an elder of the former Myojin Church. Her mother, Iwa Ikeuchi, who lived to be 97 years old, was a pious believer who worked as a missionary in the Gunaka area.

This book was published in a small number for believers about half a century ago. When I called the church the other day, I was told that there are no copies of this book left.

In Kurozumi-kyo, it is commonplace to hear such stories passed down from place to place, and they are expressed with the word ” OKAGE (thanks).”

It is an irreverent idea to say, “Miracles happen when you want them to happen,” but the idea is that the universe is full of living things, and we should seize them! It means, “Seize it! It is possible only with a sincere heart.

It is interesting to note that those who later became great propagators of the teachings were all those who at first viewed the teachings as evil or bogus.

They thought that the teachings were false because of their academic knowledge, and they were reluctant to listen to the precious teachings because they assumed that “there is no mystery in the true law.

Even the third director, Sasao Ishida, was as indifferent as an ordinary person in his early days.

I have no doubt that a similar reaction would occur even today. That is how high the hurdle is to be initiated into Amaterasu.

It is only when “thanks” actually fall on our bodies that we can feel the miracle or have faith in it.

Unless you have a miraculous experience that shakes you to the core, you will not be able to understand how grateful you are in reality.

Translated with DeepL.com