• 太陽の恵み
黒住宗忠教祖の肖像画は多数ありますが、この教祖画が最も知られています。生前のお姿をよく表現されているのではないかと思われます。

 

冬至日のお生まれと天命直受の日 

 

黒住宗忠教祖は1780年(安永9年)の冬至、日の出時刻にお生まれになりました。

 

安永9年の子(ね)の年、子(ね)の月、子(ね)の日に当たります。後の天命直受の日も文化11年11月11日の冬至の日でした。1が連続6つあり冬至の日です。これだけでも人知では考えられない稀有な出来事です。

 

宗忠教祖ほど冬至にご縁のある方はおられません。後年の2021年の冬至の日もご遷化200年にあたり、まさしくグレート・コンジャクションの日にあたります。この日は占星学的に人類の意識の大変化日とも言われています。

 

宗忠教祖は若い時より真の道に深く関心があり、「生きながら神になる」ことを真剣に目指されていました。

 

 生きながら神を目指す

 

宗忠教祖のお人柄、求道の一途さが垣間見られる面白い逸話があります。

 

同じ神職仲間で湯浅薩摩という方とお友達とある宿に同宿されました。その時に湯浅氏が教祖に向かい「あなたが奉仕されている今村宮の御祭神は何神様ですか?」と質問されました。

 

それまで会話されていた教祖は、その時は何も返事されませんでした。湯浅氏が繰り返し尋ねられましたら教祖はそのままゆっくり立ち上がられ、寝巻きから着物、袴に着替え口をそそぎ、まっすぐに正座され、

 

「私の奉仕する今村宮の御祭神は天照大御神、春日の大神、八幡の大神の御三神であります」と丁寧にお答えになったということです。

 

湯浅氏は神様に対する教祖の人並ならぬ思いに大いに驚き又感心されました。「生きながら神を目指す」この気概の面目躍如たるものがあります。

 

そのために20歳の頃「心に悪しきことと知りながら、身に行うことのなきようにせば、神となるべし」と悟られ、忠実に実行されたと言われています。

 

 両親との死別 

 

 

元々大事に育てられ、池田藩の中でも評判の親孝行息子でした。藩から親孝行を表彰されたほどですから、心から両親に尽くされていたのです。

 

当時はやり病(赤痢)がその地方に大流行して、その大切なご両親を懸命の介抱にかかわらず一度に亡くされたのです。

 

その悲しみは到底尋常の悲しさではなく、お墓に行ってなかなか帰ってこられないので様子を見に行くと、教祖が気絶して倒れておられるほどでした。

 

極度の悲嘆から病気になり、労咳という昔は最も恐れられた病に罹(かか)られたのです。

 

そして病は進み医者に診てもらっても、到底助からない状態だったそうです。いよいよ臨終近くなりました。

 

もう最後の死ぬ直前にお日様を拝みたいと願われ、布団の中で両手を合わされ目を閉じられました。

 

まさに息を引き取るその時に「両親はこのまま死ぬと悲しむだろう。自分は生きながら神を目指したが、果たせずに残念だ!」と思われたそうです。

 

そして大変親不幸な死に方を目前にして「申し訳ない、せめて一息、二息でも生きよう!」とお日様に向かい息をされ、息に命が込められていきました。一息そして二息と呼吸を続けられました。

 

ご生還の歌

 

有り難き事のみ思え 人はただ

     今日の尊き 今のこころ

 

それから息が続いて出来るようになり、すこしづつ命を取り戻されていきました。

 

恐らく「 一息できたぞ! 次の息もできるぞ!」と確かめながら息をされていったものと想像されます。

 

生きられる有難さを回復まで一瞬の休みもなく、教祖は続けられたのでしょう。そして2か月後に不治の病から奇跡の回復を遂げられました。医者もさじを投げていた最悪の状態から見事に立ち直られました。

 

死ぬ直前になると極端に体力が落ちて来て、体温計も持てない位に弱るそうです。又病院のドアも開けられない位に体力が落ちてくると、もうダメだなと人は諦めるそうです。

 

恐らく教祖もそこまでなられたと思いますが、そこから一息一息有難い心が大きくなって回復されていったと拝察します。

 

2か月後お風呂に入りたいと言われるまで回復し、入浴後には労咳の病も消えてなくなりました。この日を「第二次の御日拝」と呼んでいます。心の大転換による奇跡が起こり、その日に教祖は床上げされました。

 

それから今村宮へゆっくり歩いて生き返られたお礼に向かわれましたが、途中に出会った村人達は教祖のお姿を拝し「黒住の旦那様のゆうれいが出た」と言って驚いたそうです。その時はもう生きられないという噂が村中に広がっていました。

 

このことを「難有り、有り難し」(自分の大/小難が、いずれ有難いことに変わる)といつも言われておられました。

 

魂の叫び歌

 

この歌は生きていることの有難さが味わえば味わうほど、深く心にしみ入ってくる歌です。それは教祖が死と直面され、息が絶える間際の魂の叫び歌だからです。

 

小生も病床の時はこの歌を短冊に墨で書いて壁に貼り、朝晩ご陽気修行と共にこの歌を唱えておりました。どれだけ元気づけられ助かったか 本当に感謝しています。

 

治る!治る!と繰り返し、念を込めながら一途に祈り込み、毎日ご陽気を下腹で吸えば必ず治ります。

 

病気でお苦しみの方は朝日に向かい深呼吸を繰り返し、この歌を感謝をもって毎朝唱え続けていくことが大事です。絶対快方に向かいます。

 

本当に治るのかどうか疑っては効果はありません。宗忠教祖は疑って行動しては、全く成果が出てこないと強調されています。心理学的にこのことを逆勢の法則と言います。

 

だから「自分の病は絶対治るんだ!」と確信してください。これについては教祖の教えの大事なポイントになります。絶対の信が条件です。

 

絶望の際(きわ)にいる時、生きる希望を失った時

 

もしこのブログをお読みの方で「絶望の際(きわ)におられる時、助けを求めても誰も助けてくれない時、死にたいと思われた時」是非この歌を何回も口に唱えて頂きたいと思います。

 

唱えれば唱えるほど、生きる力が腹の底から湧いてくるすばらしい歌です。魂を輝かせる希望が自然に生まれてきます。生きることの有難さが実感として溢れてきます。

 

死神に取り付かれてはなりません!圧倒的なご陽気の歌で積もり積もった陰気、邪気を払うことができます!

 

宗忠教祖の超人的霊力と人間性

 

* 教祖は一般の人が一日かかる程の距離を1~2時間で歩かれた話

 

* 腐りかけの酒造り中の酒、枯れかかった竹、木、植物をご神水で蘇生させた話

 

* 暗闇でも道、本が見える等数え切れないほどの奇跡を現わされました。

 

他に難病からの回復、死人を生き返らせた話など霊的奇跡話は無数にあります。教祖は一人の肉体を持った聖人というより、天照大御神の化身とも言うべき人類の大導師です。

 

宗忠教祖はイエス・キリストの生まれ変わりではないかと山田雅晴氏は述べておられます。確かにキリストの磔の死の年に天命直受の悟りを開かれ、第二の命を生きられたのです。

 

そしてキリストに伝わる奇跡はすべて実際に、衆目のなかで行われています。土肥家の掃き清められた柔らかい長い道を草鞋の跡が全くなく、いつもお歩きになった話もあります。(池田藩家老 土肥家の玄関門へのお話)

 

教書では集会ごとに多数奇跡が起きたことを述べておられます。詳しくは「教祖様の御逸話」に記載されています。(115の逸話。上記黒住教学院発行 )

 

尚教祖以外の高弟達多くのお道づれの方は、今も昔もさまざまな奇跡を現わされています。そして多数の人々を病、災難、事故等から救っておられます。

 

黒住教では奇跡的に病が治る、運命が好転する、商売が繁盛することなどを「おかげ」という独自の言葉を使っています。この教えを実行すれば、実に多くのおかげが受けられることが実際に起こります。

 

小生が教祖の教えに非常に惹かれるのもここにあります。徹底した明るい、前向きな人生態度や嘘、ごまかしの一切ない生き方が求められます。

 

 

又宗忠教祖に特筆すべきはお人柄のよさにあります。過去聖人はたくさんおられましたが、この方ほど純粋で柔らかく優しい方はおられません。

 

唯一の欠点は他人より借金を頼まれ、随分多く踏み倒されたご経験がおありですので情に厚過ぎることです。そのため弟子達が借金依頼には一切手を貸さないように固く禁じられていたということです。

 

もともとは池田藩の由緒あるお侍ですが、それにふさわしい凛とした男性的な面もお持ちでした。多くの武芸者が武道の究極の教えを聞きに訪れています。

 

* 最後に小生は宗忠教祖をお慕いしておりますが、入会への案内意図は全くありませんので誤解なきようお願いいたします。

 

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