このブログの目的は「必ず治る」を主テーマにしております。特に難病、長期療養等でなかなか治りにくい病気、精神的うつで悩む方に対して、元気になるための「太陽を呑む」ことを提唱にしていますが、自分なりに工夫してコツを掴み、心の準備が必要です。
そのためには「目に見えない世界」と「心の開放」等の理解をより深めていただくことが必要です。その理解の上に立って「太陽を呑む」ことを実践していただければ、真の「必ず治る」に繋がるとの信念からご案内しています。
「目に見えない世界」は、決して人を惑わす迷信や怪しい話の類ではないことを分かっていただきたいと願っています。
いずれ来る地球のグレートリセットへ向けて関心のある方も是非お読みください。
わが見神記 油井真砂(ゆい まさご)述より抜粋
この本は二部構成になっており、一部は青山阪本病院の阪本孫重氏の序による「この人生」(住職の弟正智著)と二部は油井真砂氏の「信心と坐禅」から成り立っています。
二部後編の「信心と坐禅」は、かなり高度な仏教哲学的思索の濃い内容で相当難解です。そのため案内は一部が主となります。一部前編は弟の住職正智氏によるものです。
弟の住職さんは「姉の油井真砂禅尼そのままの歴史を誇張もなく書きました」との一文があります。
序 阪本孫重
氏は高等学校時代に当時死病と言われた肺結核になり、精神的にもノイローゼが重なり衰弱していました。
そこで巡り合って治してもらったのが若い頃の油井先生で、それから亡くなるまで40年間指導してもらいました。
肺結核が治った時に「阪本さん! あんたも結核をとうとう卒業しましたね !」と言われた時は自然に涙が流れ落ちました。
それからすっかり健康になり医者として開業もしましたが、健康になると大変無理を重ねて、大東亜戦争の最中に田舎道を自転車で往診をするハードな毎日でした。
余りの無理が原因で心臓を悪くして途中坂道を動けなくなることも再三で、またしても油井先生にお世話になりました。
そのころ油井先生が「阪本さん、薬師様からあなたに使命が与えられましたよ。それは一万人の難病患者を治せとの使命です」と言われ
「先生今日にも発作が起きたら死ぬかもしれないのに一万人もの人を治せとはどういうことでしょう」と先生に言いますと「そうね!使命ですからそれを果たすまでは死なないでしょう!」と言われたのです。
「以来20数年、有難い事ですが、毎日患者を治療し続けて70歳半ばに至りました」と13回忌に出版される本の序に述べられています。
前編 「この人生」 より抜粋 肺結核を病む
油井真砂(敬称略)は信州佐久で育ち6人兄妹の一番上の長女です。父が選挙で大金を使い果たし、その上父の女性問題等と母親は筆舌に尽くしがたい苦労を重ねました。
そのなかに、てきぱきと男勝りに働き、多くの借金取りの矢の催促や父の女性との縁切り、事業失敗の借金処理等の幾多の問題を天性の頭の良さと男性並みの度量を生かして、上手に処理し一家を救ってきた話が記載されています。
明治40年真砂は医道を目指し上京して勉強して故郷で開業するに至りましたが、無理に無理を重ねて体も痩せて、とうとう肺病を病むようになりました。
当時の真砂は痩せて骸骨のようになり、村では噂が立ち「あそこにに行ったら、病気が移るぞ」と言われ、皆が診察所に敬遠して近づかないようになりました。
絶対絶命まで追い込まれ永平寺の森田悟由禅師に会って渾身の力を振りしぼり、必死の真砂は「何故このように病のために悶え苦しみをしなければならないのか、死んで何処にいくのかそれが知りたいのです」と問えば
「断崖絶壁に追い込まれた人間がそこを飛び越えるか、超えられないかは自らが知ることであって、他人に聞いても分からないぞ。自ら悟ることだ。死ぬ覚悟だ!」と禅師は答えられました。
禅師の回答に真砂は死ぬ覚悟ができて信州に帰り、なんと細窪の岩穴に藁(わら)と布団を持ち込み、岩穴に藁を敷き詰めその上に布団を引いたということです。
恐らく当時肺結核は死病と恐れられ女医の真砂は周りに感染を危惧して、誰にも迷惑をかけない方法を取ったと考えられます。
布団の上で坐禅を組み7月でも寒い信州の夜1週間が過ぎました。ある夜激しい雷雨になりいよいよ迫った死の苦痛に耐えかねて洞穴から転げ出し、雷雨の中を苦しさの余りのたうち回り大喀血して気を失ってしまいました。
この時の壮絶な体験を曹洞宗中野東英老師が教化資料として、宗務庁から全国曹洞宗寺院に「命新たに」と題して頒布されています。
肺結核治る!
翌朝目を覚ましてあれほどひどい喀血をしたので、自分が生きているのか確かめようと自分の両腕をさすり撫でてみて体温もあるし、衣服から湯気も立っています。医者ですから脈を診ても正常です。気分も爽やかです。
喀血した血が地面にどす黒く固まって、微熱も消えていました。思わず「治った!治った!」と叫び爽やかな朝を全身で感じて、命あることの歓びが沸き上がってきました。
家族も諦めていただけにその日から元気に歩く真砂のあまりの変化を見て、驚きというより恐ろしく感じとても信じ難い光景でした。
絶望的状況から一転起死回生の真砂を見て、著者は人間業ではなし得ない事象で不思議としかいいようがないと述べておられます。
恐らく瀕死の重病の患者が大喀血してその後すぐ復活して見違えるように元気になることは、医学の進んだ現代でもあり得ない臨床例かもしれません。
この日を境にして真砂に不可思議な力が授かるようになってきました。
これ以降不思議な老人との出会いにより筑波山での修行を経て、実に多くの霊力を有するに至りました。
今東光氏は「今昔物語入門」(光文社刊昭和43年4月15日発行)の40ページに「現実にいる魔女」と題して次のように書かれています。(以下抜粋)
「油井女史は一種の魔女で霊力を持っていた。透視もするんですな。その代わり人間の低劣な物質的欲望を満たすようなことは、決してやらなかった。金をどれだけ積んでも「だめ」という。」と続き
「彼女は全然泳げないんだ。海水着を着ている彼女を、みんなで担ぎ海へ放り込んだ。ところが沈まないんだよ。すまして波の上にすわっている。これにはみんな一言もなかった。この話はほんとにあったことです」との今東光氏の文です。
その後の真砂の活躍は政財界・曹洞宗にかなりの影響力を持ちましたが、あくまでも無欲、潔癖、清廉の一筋を貫く一生でした。昭和34年9月21日73歳 坐脱による遷化。
*尚洞穴で嵐が吹く中、肺結核が治った話は、必ず治る⑫のハンセン病の治った例と酷似しています。
読者の皆様はどうして治ったのか、その理由をご自分でお考えいただくことをお勧めいたします。